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水の王子・短編集「渚なら」15

第九話・兄たち(下)

昼すぎてもまだミズハは、タカヒコネの部屋にいた。寝台の横の床に座って、せっせと布で何かをみがいていた。
 「それ何?」寝台の上からタカヒコネが聞いた。
 「あれ、起きたの?」ミズハはふり向いた。「ごはん食べてから、また寝ちゃったと思ってた」
 「ずっと起きてたよ。何してんだ?」
 「ほら、これ。ウズメさまからもらった鏡」
 「かけらだろ?」
 「でも鏡だもん」ミズハは得意そうに、手にした小さい銀色のかけらをかざして見せた。「見える? めっちゃ面白いんだよ。みがいてたら、いろんな色になって来るんだ。青やら、白やら、紫やら」
 「何か映るのか?」タカヒコネは小さくあくびをした。
 「映りそうで映らないの。何か見えるような気のする時もあるんだけど」ミズハは寝台によりかかって、低い声でうなるイナヒを横目で見ながら、鏡のかけらをタカヒコネに見せた。「ね、きれいでしょ?」
 「うん」
 鏡はミズハの手の中で、海のような虹のような、ふしぎな色に光っていた。
 「何に見える? 何か見える?」熱心にミズハが聞く。「殺した人の顔とか見えない?」
 タカヒコネは吹き出した。「いきなりそれ聞くか?」
 「だって、殺した人の顔忘れたから、思い出したいって言ってなかった?」
 ちょうど入って来たスクナビコが、おかしそうに笑った。
 「見えない」タカヒコネは手をのばした。「おれにも磨かせてくれたらきっと…」
 「だめよう!」ミズハは鏡のかけらを、ひったくりとって抱きしめた。「あたしが自分で磨かないと、あたしの鏡にならないもん」
 「アメノウズメがそう言ったのか? どっちにしたって、かけらだろ?」
 「かけらだって、持ってるだけましだもん」ミズハは言い返した。「ね、タカヒコネもウズメさまから、ひとつもらって来ない? そしたら二人で、どっちがきれいな色になるか競争できるじゃない?」ミズハはスクナビコにやっと気づき、すぐかけよって、鏡を見せた。「何か見える? スクナビコ」
 「おお、こりゃ立派に、よう磨いた」スクナビコは目を細めた。「その内、何か見えて来るじゃろ。もうひと息じゃよ」
 「でも、あのねえ、ここんとこの曇りが、どうしてもとれないの」ミズハはくやしそうだった。「イナヒのしっぽでこすったら、だめかな?」
 「耳の方がよさそうじゃぞ」
 「絶対そんなことさせない」タカヒコネが宣言した。「ミズハ、もうそろそろ帰れよ。ハニヤスが心配するぞ」
 「明日また来ていい?」
 ああとか、うんとか、口の中であいまいに生返事したタカヒコネの首っ玉にかじりついて、こめかみに口づけしてから、ミズハはスクナビコにも抱きつき、元気に部屋を飛び出して行った。
 「あいつもう、何とかしてくれ」タカヒコネはつぶやいた。「イナヒに食わせてしまいたくなる」
     ※
 スクナビコは笑いながら、寝台のそばの椅子に座り、前かがみになって、ひざの上で頬杖をついた。
 「心配せんでも、ミズハとちゃんと話せるじゃないか」
 「あっちが勝手にしゃべってるだけだ」
 「で、おまえさん、殺した相手のことを思い出したいって言うたのかい?」
 「言ったかもしれないな」
 「ほんとに思い出せんのかい?」
 「多すぎて」
 「顔も覚えとらんのかね」
 「ほとんどは」タカヒコネの目が泳いだ。「そりゃ、あんたの顔ぐらいは。今も毎日見てるから」
 「そもそも、いつどうやって会ったんじゃ?」
 「盗みがばれて、つかまって、殺されそうになってたのを、助けてもらったんだよ」
 「はあん、あの人はよくそうやって、子どもにいじめられていた亀だの虫だのを助けてやっておったからの」
 「それでそのまま、山の小屋で世話になって。あの人の隠れ家の一つだったらしいけど」
 「一人で修行するときに使っておった場所のひとつじゃな。長いこといたのか?」
 「半年かそこら。いくつか術も教えてもらった。本当に親切にしてもらった。だけど、だんだん、不安になって」
 「何が?」
 「心が奪われそうで。支配されそうで。もう、そういうのがいやだったんだ」
 「心を捧げるのがかい?」
 「絶対にかなわない相手に、あこがれて、信じ切って、自分をまかせてしまうのが」
 「やれやれ」スクナビコは吐息をついた。それからふと、思い出したように若者を見た。「それじゃおまえさん、あの人から術もいくつか伝授されとったのか」
 タカヒコネはうなずいた。「ほとんど忘れてしまったけどね」
 「なるほど、痛みに強かったわけじゃな」スクナビコは納得した。「わけがわかって、安心したわい」
     ※
 深く青い空に、金色の月がかかっていた。湖をわたった涼しい夜風が、へやの中に吹きこんで来る。
 「寒くありませんか?」少し眠そうな声でスセリが言った。「毛皮をそろそろ、もう一枚出しておこうかと思っていたのですけどね。昼間が暑かったものだから、つい」
 「大丈夫だよ」オオクニヌシは灯火の回りを飛び回る虫の影をながめていた。「しかしあれだな、海や川とちがって、湖は静かだな。耳をすますと、魚のはねる音や、鳥の声が聞こえるが」
 「そうね。波音や、川の水音に比べると」スセリは長椅子のかたわらに座ったオオクニヌシを見上げた。「何か考えておいでなの?」
 オオクニヌシは笑って、スセリの肩に手をまわした。「コトシロヌシがおかしなことを言い出したものだから」彼は自分で面白がっているようだった。「私まで何だかおかしなことを考えはじめてしまったようだ」
 「もしかして、お兄さまたちのことですか?」
 オオクニヌシは、首をねじってスセリを見た。「これは驚いたな。なぜわかる?」
 「ずっと何だか、そんな気がしていたものだから」スセリはそっと夫の肩に顔をよせた。「自分はいい弟じゃなかったのじゃないか、って、とてもあなたの考えそうなことだし」
 「そうか? これまで一度も考えたことはなかったが」
 「でも、いつかは考えるような気がしていた」どこか夢見るようなスセリの声だった。「あなたなら、きっと、いつかは」
 「なぜ兄たちは、私を殺そうとしたのか。なぜ、ああまでも私を憎んだのか。それを知りたくなったのだ」オオクニヌシはゆっくり言った。「だが、おかしなものだなあ。タカヒコネは殺した者たちの顔を、ろくに覚えていないと言って、それを聞いたときは、そんなことがあるものなのかと半信半疑だったが、何のことはない、私も自分を二度まで殺そうとした兄たちの顔も声も、名前さえよく思い出せない」
 「小さいときは、いっしょに遊んでいたのでしょう?」
 「ああ。それも不思議なんだな。楽しく、愉快に」
 「いつからそれが変わったの?」
 「それを考えてみているんだがね。どうしても思い出せない。もしかしたら、変わらないままだったのかな」オオクニヌシはのんびりと語った。「ああ、スセリ。私は、こんなことをゆっくり考えて見ることができるのが、何だか幸せでしかたがない。こんな日が来ることになろうとは、考えてもみなかった。ふしぎな世界にわけ入るようだ。何だかわくわくしてしまう」
 「私もですよ。なぜだかわかる?」スセリはうっとり、つぶやいた。「月の光のせいかしら。あなたは初めて出会ったときと同じぐらいか、それよりもっと若々しくて強く見える。あの時でさえ、あなたはもう、どこか疲れて見えたのに、今のあなたは…ヤガミヒメにお会いになった時のあなたって、きっとこうだったのでしょうね。私の知らなかった、とても若いあなた。ワカヒコやニニギやタカヒコネや、その他のどんな若者たちより、あなたは気高く、りりしく見える」
 「そんなことを言うのなら、君に私の兄たちも見せたかった」オオクニヌシは楽しげにスセリを軽くゆさぶった。「皆、それぞれに、立派で魅力にあふれていた。一人ひとりに幼いころから私はいつも、あこがれていた。あこがれて、甘えて、信じていた。私の何が、彼らをあんなに残酷にしたのだろう? あんなに私を憎ませたのか」
 「今は皆さん、どうしているの?」
 「まったく知らない。元気で生きているのかさえも」
 「誰かに会ってみたいと思う?」
 「どうなんだろう。わからないな」
 「中でも特に、好きな人とか、嫌いな人とかいた?」
 「いや、それもよく覚えていない。皆それぞれに好きだった気がする」オオクニヌシは目を閉じた。「何しろ、この長い間、一度も考えて来なかったことだ。そう何もかも、一度には思い出せない。生まれたばかりの子どものような気さえする。あの時と同じだな…殺されて、母たちが二度とも私をよみがえらせてくれた時と」
 「でも、多分、その時と同じじゃないわ」スセリは低くささやいた。大切なものをいつくしむように、彼女はオオクニヌシの手をなでた。「だって、あなたにまつわっていた、悲しみも淋しさも、今のあなたからは消えているもの。まるで初めて会う人のよう。いつものあなたでありながら」
 湖の方から、またさわやかな夜風が吹いてきて、二人を包んだ。水と木々の葉の香りがかすかに、部屋の中にただよった。(2023.8.29.)

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カツジ猫