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水の王子・短編集「渚なら」16

第十話・溶けない氷(上)

「多分、これでもう大丈夫」ヌナカワヒメは、若い船乗りの足の副え木と包帯をたしかめ直して保障した。「ひと月とたたない内に、また船に戻れるようになりますよ」
 まだ子どものような船乗りは目を輝かせた。「帆柱にも上れるかな?」
 「いずれはね。でもしばらくは杖をついていないといけないし、目立たないけど少し片っぽの足をひきずることにはなるかもよ。だけど、心配いりません。仕事はきちんとこなせます。誰にもひけをとらずにね」
 「よかったな、坊主」サルタヒコが喜んだ。「それじゃ、おれは船に戻るが、夜までには誰か仲間をよこすからな。いるもんとかあったら、言ってくれ」
 「次の船出はいつ?」
 「まだ決めとらん。気にせんでいい。おまえはゆっくり休むこった」
 手伝いの若者や娘たちに若者の世話を言いつけたヌナカワヒメは、サルタヒコを見送りがてら、病院になっている広い洞穴の外に出た。
 薬草園は、昔の面影をほぼ取り戻していた。風にそよぐつるのたれさがった棚の下に、食卓や椅子を並べて、治りがけのけが人や病人が、のんびりくつろいでいる。以前の倍近くはばが広がって水量もふえた川が、低く水音をとどろかせて、わがもの顔に、そのかたわらを流れていた。
 「この川の源がどこなのか、いつも気になってね」ヌナカワヒメが、岸の岩にぶつかって川が上げる水しぶきに片手をかざしながら言った。「山はとっくになくなったのに、この岩の中のどこかに水源があるのか、それとも草原の中の小さい流れが、ひとつにまとまって、こうなっているのか」
 「うふう、どうなんじゃろ」サルタヒコはたくましい日焼けした腕を腰にあてて、川の上下に目を走らせた。「ようわからんな。前にあった二本の川より、何か荒っぽそうじゃしな。得体が知れん。海に流れこむあたりじゃ、何くわぬ顔で、おとなしくなるんじゃがな」
 「湖とは関係ないみたいなのよ」ヌナカワヒメは言った。「何となく相性が悪そうなの。住んでる魚や水鳥も、こんなに近くなのに、ちがうしね。ただ、ホタルは同じ種類のが行き来してるみたい。この夏も、そりゃあ、みごとだったわ。湖からここから、川下まで、一面、光のうずだった。病院の者は皆、総出で見物して、ほとんど夜明かししてしまったわ」
     ※
 「ところで、コトシロヌシが気にして相談して来たが、万一、津波でもあったら、この病院はどうなるんじゃい?」
 「そりゃもうあなた、全滅でしょうね」ヌナカワヒメは即座に答えて、吐息をついた。「そうはならないようにしたいけど、正直、どうしたらいいもんだか。だいたい、山があったときだって、それは同じことだったんだけどね。自分の足で山に逃げられない人にとっちゃ、ここがそのまま墓場ですよ。洞穴の中の少し高いところに、新しい穴を掘って、寝台を移してみようかと考えたこともあるけど、それだって津波が思ったより高くまで来たら同じことですしね」
 「いっそ、入り口に大きな扉を作って、ふさいでしまうっちゅうのはどうじゃろ?」
 「それもまあ、考えてはみたんですけどね。とにかく日々の仕事に追われて、先のことまではなかなか」
 「そう言や、ミヅハの嬢さんは、このごろはだいぶおとなしくしとるそうじゃないか」
 ちょうどその時、弓矢を背負った若者と娘が、きびきびとした足どりで薬草園に入って来た。くつろいでいる人々と何かことばを交わしながら、こちらに目を向け、近づいて来た。
 「ヌナカワヒメ、お元気そうで。変わったことはないですか?」
 「ええ、おかげさまでね。無事、何事も順調よ」ヌナカワヒメは、まじめくさった顔つきの若い二人を見上げて、にっこりした。「サグメさまはお元気?」
 「はい。このごろじゃ大人たちにも希望者には武術の訓練したり、子どもたちのことを相談したり、何かと忙しくしておいでです」
 「ミヅハはどうしとる?」サルタヒコが口をはさむ。
 「はい。皆でしっかり見はってるから心配ないです。今は浜辺で他の子どもたちと、ウガヤに乗って遊んでます」
  「薬草酒をひと樽、サグメさまに持って行ってよ」ヌナカワヒメが言った。「ご苦労さんと言っておいてね。甘くておいしいお酒だから、あんたたち皆して飲むといいわ」
 「やったー!」若者と娘は顔を見合わせ、飛び上がって喜んだ。
     ※
 「あいつら自身がまだ子どものようなもんじゃからの」小さい樽を一つずつ背中にしょって、うれしそうに帰って行く若者と娘を見やって、サルタヒコはひげをなでた。「見とると何やら、おかしゅうてならんわ」
 「ですよねえ」ヌナカワヒメは、あいまいに笑った。
 「これもミヅハのおかげかのう」サルタヒコはうなった。「村人は大人も子どもも、前よりもよく話しあって、いろいろ目を配ったり、気をつけたりするようになったし、ああやって見回ってくれる者たちがおるから、悪だくみやかくしごともなかなかやりにくくなっとるようだし」
 「それも何だか淋しかないですかあ?」ヌナカワヒメは、わざとのように小娘のような声を出した。「悪だくらみもかくしごとも、ちっとはあれこれあった方が、毎日が楽しかありません?」
 「わっはっは」サルタヒコは大口を開けて笑った。「そう言やそうじゃな。わしは海に出とることが多いから知らんが、このごろ何かと村の者は行儀がよくて、きゅうくつになったと、船乗りたちが言うとったしな」
 「そうでしょうが?」ヌナカワヒメは眉を上げた。「この村のいいところが、なくなりつつあるんじゃありませんかね。いつも見はられてるようで、気持ち悪いったらありゃしない。しかも、上に立ってるのが、あのサグメさまですよ。このままじゃ、どんどんひどくなりそうで」
 サルタヒコは腕を組んだ。「うちのかみさんに話してみちゃろうか。アメノウズメに」
 「いやまあ、それもどうですかねえ」ヌナカワヒメは危ぶんだ。「あのお二人がひょっと対立でもした日にゃ、山が崩れる程度のこっちゃすまないでしょうし、そうかと言って、一致団結されたりしたら、それはそれで、どうなることやら」
 「うう、ちがいないわい。わしゃ、その時は海に逃げるぞ」
 「何ですかねえ、卑怯者」
 二人は声を上げて笑い出した。
     ※
 「それでもあなたはいいわね、サルタヒコ」ヌナカワヒメは、いささかうらやましそうだった。「逃げ出して行ける海があるから」
 「どういたしましてじゃ。ここだけの話、海だっていろいろ物騒なんじゃぞ」サルタヒコは太い眉をぴくぴくと上げ下げした。「このごろは特にとにかく、南の海で、海賊たちの勢いが強い。さっきのあの子が足を折ったっちゅうのも、怪しい船の帆が見えて、大慌てで進路変更したときの混乱のせいじゃわい。一番の親玉は、昔、草原の岩山に住んどったクエビコとかいうやつらしい。ウズメの鏡で一時期、怪物にされとったやつじゃ。知っとろう?」
 「いやですよ。あの、口にしたことが全部実現してしまうという恐ろしい力を持った怪物ですか? でも、ウズメさまの鏡が割れて、怪物から人間に戻ったんだから、その力だって消えたはずなのでは?」
 「そこが、ようわからんとウズメは言うとる。もとのままではないまでも、何かのかたちで少しは残っとるのではないかっちゅうんじゃ。とにかくそやつが大将になって、部下をひきいて暴れ回っておるらしいわ」
 「じゃあ、あれですの、そいつがどっかの南の海に浮かんだ船の甲板で、昼寝していてちょいと寝ぼけて、ナカツクニの村は消える!とでも口走ったら、その瞬間にこの村は、あとかたもなくなるってことですか?」
 「まあ、そこまではどうだかな。何しろ、津波にしてもそうじゃが、すべて明日はどうなるかわからん日々を、わしらは生きておるってことじゃろ」
 ヌナカワヒメは、ふっくらとした唇をかすかにゆがめて、「まあ、それはそうですわね」と、軽く吐き捨てるように言った。それから、木漏れ日の中で、のどかに談笑している人々の方をちらと見やってから、帯にはさんだ小さいふくさを取り出して、中味を手のひらの上にこぼした。
 「ご相談しようかどうしようかと迷っていたのだけど…こんなの見たことがある、サルタヒコ?」(続く)

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カツジ猫