水の王子・短編集「渚なら」14
第九話・兄たち(上)
「あなた、赤とんぼが飛んでるわ」湖を見下ろす縁側の手すりによりかかって、洗ったざるを乾かしていたスセリが声をあげた。「夏もそろそろ終わりなのですね」
「この冬の寒さがあまり厳しくないといいがな」火桶をみがいていたオオクニヌシも立ってきて、スセリと並んで湖を見た。
「タカヒコネとお二人で、たっぷり薪を作って下さったから、心配はないでしょうけど」スセリは目の下の草の中を、ゆさゆさ動いて行くイナヒのしっぽを見て、ちょっとひそひそ声になった。「あの子もすっかり大きくなって、えさの量がはんぱじゃないから心配だわ。自分で獲物をとってくるほど狩りはまだ上手じゃないし」
「いつか上手になるのかね」オオクニヌシはあごをなでた。「タカヒコネがあんまり二言目には、ぐずでのろまで甲斐性がないと言うから、イナヒも自信をなくしてしまってるのじゃないかね」
スセリは肩をすくめた。「それを言うならタカヒコネの方が気にしてますよ。イナヒのとろくて、狩りが下手なのは。自分ではしょっちゅうイナヒをけなすくせに、人に言われたらめちゃくちゃ傷つくんだから。あなたもおっしゃってはだめよ」
「かと言って、じゃ、あいつの前で、イナヒはすばらしくすばしこくて、狩りが上手になったなあなんて、わざわざ言えというのか」
「誰がもう、そんなこと」スセリは目で笑いながら、たしなめた。「ほんとにあなたとコトシロヌシったら、二人でタカヒコネをおもちゃにして。コトシロヌシなんて、この前、死んでしまった鳥が一羽いるから、イナヒにくわえさせてタカヒコネのとこに持って行かせてみましょうかなんて、何だか楽しそうに言うのよ。あの子、最近、けっこう意地悪だけど、ひょっとして、もともとあんな子だったのかしら」
「自分は退屈な弟で、面白くない息子だったかもしれないと、このごろ反省していたからな。まじめで、いい子すぎたのを、とり戻そうとしてるのかもしれん」
「誰が? コトシロヌシがですか?」スセリはあきれた。「まああ。あなたが何かおっしゃったの?」
「誰がこの年になって、わざわざ自分で、そんな苦労をかかえこむようなことをするかね。タカヒコネの悩みや愚痴の聞き役になってる内に、バカな弟を持つ楽しみに目覚めてしまったんだろう。それで自分はあまりにも、かわいげがなかったのじゃないかと反省したのじゃなかろうか」
「かわいげなんかなくてもいいわ」スセリは言った。「あの落ち着きとしたたかさが、コトシロヌシのいいところだったのに。タカヒコネにも困ったものね。自分がいろいろくよくよするのはいいけれど、回りの者まで似た気にさせて」
「しかし、もとをただせば、ミズハらしいぞ」オオクニヌシは面白がっているようだった。「あの子にいろいろ昔のことを聞かれている内、タカヒコネのやつ、何だか落ちこんでしまったらしい」
「あんな子どもにですか? まあ!」スセリはため息をついた。「何のために都で仲間を裏切ったり、草原で人殺しをしたりして来たんでしょう!?」
「そんなことを言われても」
「ええ、もちろん、あなたに言ってるんじゃないけど」スセリは、ざるをぱたぱたたたいて、日があたるようにひっくり返した。「でも、それでかしら、ミズハもこのごろちょっと大人しくなったようね。前のようにひっきりなしの大騒動は起こしてないし」
「まあそれは、サグメたちや村人たちも、がんばって見張ってくれてるようだから。ミズハの方もタカヒコネに、そこそこなついているようだしな」
「あれは、なついてるって言うんですか? 新しい遊び仲間を見つけたつもりだけみたいな…そう言えば、今朝も訪ねて来てましたわね」
※
話は少しさかのぼって、その日の朝のことになる。
すっかり育って大きくなったイナヒの毛むくじゃらの身体に手を回して寝台で眠っていたタカヒコネは、スクナビコに肩をゆすられて起こされた。
「おいおい、お客さんが来とるぞ」
「寝てると言って」タカヒコネは口の中で答えて、イナヒの、ふさふさした首すじの毛の中に頭をつっこんだ。
「昨日もそう言うて追い返したんじゃろ。いいかげんに、ちょっとは相手をしてやらんかい」
「ということは、客ってミズハ?」タカヒコネは片目を開けて窓の外を見た。「よせやい。外、まだ暗いじゃないか。きつい。眠い。何もする気がしない」
スクナビコはかまわず、かけぶとんをひきはぎ、若者の手足や身体を荒っぽくさぐった。慣れているのでタカヒコネは文句も言わなかったが、動きもしなかった。
「おまえさん、どっか具合でも悪いのか?」
「かもしれない」
「そうも見えんがな。傷痕もどうもなっちゃおらんし。ミズハに何か言われたのか?」
「コトシロヌシが何か言ったのか?」
「自分がとことん、つまらん人間に思えて来たとか何とかな。あんな子どもに何を言われてそう思ったかしらんが、今さら何を悩んどるんじゃ」
イナヒがうるさかったのか耳をぴくぴくさせて、もそもそ身動きしてタカヒコネの顔をなめたので、タカヒコネはあおむけになって、曲げた腕で顔をおおった。
「あれからいろいろ考えたけど」彼はその腕の下から言った。「やる気のなくなったのは、多分、そこじゃない」
「そこじゃないって、どこなんじゃ?」
スクナビコは寝台のすそに、よっこらしょと腰を下ろし、少しやつれて青白い若者の顔を見下ろした。
「おれは自分が自分勝手で、弱くて、愚かで、危険な人殺しだって、そんなことはよくわかってた」タカヒコネは言った。
「ほほう。それで」
「ミズハは、だけど、言ったんだ。そんなおれでも、タカマガハラよりはましだって。ウズメや、サグメや、ニニギより立派だって」
スクナビコは軽く眉をひそめた。「ふむ」
「人を殺したって言うなら、彼らの方がずっと多いし、おれは自分の生きるために殺したんだけど、彼らは仕事で殺したんで、そっちの方が悪いって」
「ははあ」スクナビコは感心した。「一理あるのう。だがそれで、おまえさん、なぜ落ちこむ?」
「なぜかな、自分でもわからない。このごろいつもそうなんだけど、後になるほど、何か、妙に、こたえて来た」
「どのへんがじゃね?」
「おれは、落ちこぼれの、できそこないの、悪人だって思ってたんだよ。だけど、ニニギや、ワカヒコや、サグメや、ウズメや、タカヒコやタカヒメ、そんなタカマガハラのちゃんとした連中がいっぱいいるから、この世は心配ないって、何となく思ってたんだよ。だけど、ミズハの言ったこと考えてたら、それはたしかに、あたってる。彼らは仕事で人を殺した。そして、誰にも責められない。自分のことも責めてない。それが、おれ以下だって言われたら、たしかに、そうなのかもしれない。そう考えると、わからなくなって来た。何もかもが、もう何だか」
しばらく沈黙があった。気の早い小鳥の声が外の薄明かりから聞こえはじめた。スクナビコのしわだらけの骨ばった手が、ふれていたタカヒコネの肩から背中を、いたわるようにゆっくりなでた。
「忘れとったわ」彼はひとり言のように言った。「おまえさん、都で生まれて、育ったんじゃったな」
「だったら、何だよ?」
「タカマガハラが正義の、理想の国じゃということは、都でも、スサノオでも、まあ言うてみたら、基本中の基本じゃったな」
「今だって、そう思ってる。他の基準なんて、おれにはない」タカヒコネはつぶやいた。「それがそうじゃないんだったら、もうおれは、自分が何なのか、何をすればいいのか、わからないよ」声がかすかにふるえていた。「尊敬し、信頼していた友人たちのことを、今はもう、そう見られない。それを相手に、どう説明していいのかわからない。ニニギに、君はおれ以下の、ただの人殺しだって言うのか。それをあいつにわかるように、どう説明したらいいんだよ? こんな気持ちのままで、あのミズハに会うなんて、恐すぎる」
スクナビコはちょっと笑った。声がシタテルヒメの口調に変わりかけていた。「ミズハがあんたを好きなのは、あんたの、そういうとこなのよ」
「どういうとこだよ?」
「まだ子ども。何も固まってないところ。アメノヌボコのしたたりみたいに。マガツミみたいに。おっと失礼、もともとそうなんじゃったかな」
朝の日差しがやわらかく、暖かく、へやにさしこみ始めていた。
「呼んでくるわよ」スクナビコはタカヒコネの肩を押した。「あんたのアメノヌボコをね。入り口の石の上で、あんたをずっと待ってるんだから、かわいらしいじゃないの。口をきくのがめんどうだったら寝たふりしてなさい。多分それでも満足するわよ」
「おれ、まだ朝めしも食ってないのに」
「それだけ悩んでて、お腹はすくのね。待ってなさい、二人分の食べ物を、何か持ってきてあげるから」
「イナヒの分も」
「はいはいはい。年よりをこきつこうてからに」
ことばに似合わず、案外ひらりと身軽に立ち上がって、スクナビコは部屋を出て行った。