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読書の苦しさ

本を読むこと、文章を書くことは、喜びや楽しさも限りなく与えてくれるけれど、また苦しみや痛みも与える。
 私は子どものころ、多分中学生のころ、石坂洋次郎の『若い人』を読んだ。叔父が残して行った古い本棚の中にあった単行本だ。青春小説として若い人に人気のあったこの作家を私は好きになれなかった。新しいことを言っているようで、すべてが古色蒼然として見える気味の悪さが耐えられなかった。

むしろ、その自分の気持ちが何なのか知りたくて、一人で何度も毎晩この本を読んだ。灰色の背景にオレンジ色の灯が灯った小さい家と、白く降る雪の絵の表紙までが、とても淋しくて見ていてつらかった。登場人物の誰にも感情移入できない自分がとても孤独で空虚に思えた。

外国文学や児童文学をかなり読んでいた私なのに、そんな気持ちになった本は他に思い出せない。もしかしたら日本近代文学にしかない、それもいわゆる日本近代文学とはちがうというような、一見おしゃれな新しさがいやでたまらなかったのかもしれない。
結局好きにはなれなかった。それでも、当時私の部屋になっていた、窓もない暗い部屋で、粗末なベッドに横たわって、一人で何度もその本をめくったことを、そして索漠とした不快さの中でいつも眠りについたことを私は後悔していない。読書とはそういうものだとどこかで思っていた。孤独で危険な冒険で、作者が全身で書いてさらけ出したものと、こちらも血まみれになりながら、向かい合い、つきあわねばならぬものなのだと。それに耐えることは、私が現実の孤独や孤立に耐えることに、いくらかは役にたったのかもしれない。

大人になって、何冊かの本を書いて出版したとき、専門の研究書ではさほどそういう問題はなかったが、個人的なエッセイ集などでは、何度かそういう時の気分を思い出さされたことがある。
女性の生き方について書いた本を出すとき、若い女性編集者は、生き生きと私の文章を添削し構成や文体について新しい提案をしてきた。そのすべてが、私が死ぬほどの羞恥や恐怖をのりこえて、必死で表現した自分の性や愛に関する部分だった。それをこんなに楽々と軽々と手をつけて自分が理解できていると思いこめることに私は驚いた。たしかに私は相当に危険なことを書いていても、冷静に何でもないことのように綴る技術だけは発達しているから、人はつい、大してえげつないことが書かれているわけではないと錯覚して火中の栗を拾うのらしい。私はため息つきつつ、いちいちていねいに「なぜ自分がこのような表現をしたか、何を隠し、無難に伝えようとしたか」を、赤ペンで校正刷りのページがまっ赤になるほど書き込んで説明し、彼女の提案をすべてしりぞけた。

さらに何十年かたって、自費出版で「私のために戦うな」という本を出した。やはり女性としての生き方について、かなり踏み込んだ私の性癖や嗜好について、相当赤裸々に書いたつもりだったが、これまた私の癖で、超いやらしい大胆なことを書いていても、一見それとはわからない、ほどよく健全な内容に見えないこともなかった。
 そうしたら知り合いの現職の小中高の先生方が、これを読書会で皆で読んだというので、私は正直あきれはてた。ぶっちゃけ、あの本の危険さといやらしさに誰も気づかなかったのか、気づいた上でひそかに楽しみたかったのか、ちょっと聞いてみたい気もした。せっかくだから露骨に言ってしまうと、私はほとんどその読書会が、場末のストリップ小屋でステージの上で大股開きしている私の陰部を、その参加した先生たちが、皆でのぞきこんでいる映像としてしか思い浮かべられなかった。

読書会のすべてを否定するのではない。しかし、とっさに私の脳裏に浮かんだのは「臆病者!」ということばでしかなかった。あらゆる本は読書会だの何だので人と意見交換する前に、私があの暗い窓のない部屋で毎晩孤独にさいなまれながら読んだように、まずは身一つで作者や作品と対決し、向き合い、人に語る前に自分がその本の前で何者なのかを確かめるべきではないのか。それができない臆病者に読書などする資格はない。
 とは言え私がその読書会の話にそう腹も立たなかったのは、とっさに「まあ教師だからしゃあないか」という、考えようでは差別発言めいた感想だった。そもそも国語の授業なんてわいせつで残酷なものを毎日やってる人たちだから、ストリップ小屋で知り合いの陰部をのぞくぐらい、検屍官が家族の死体を解剖するのも苦にならないようなものなんだろうと思ってしまったふしがある。

私はもともと学校も教師も嫌いだが、中でも国語の授業は大嫌いで、特に鑑賞とか感想とかを重視する授業はホラーとしか感じられない。難解な語句の説明や、誤解曲解されそうな部分を正確に確認する以外には、文章には何の解釈も加える必要がないとひそかに思っている。私は曽野綾子氏とはいろいろ意見がちがうが、時々完璧に一致することがあって、彼女が「母と子がいっしょに本を読むなんてわいせつだ」と言ったのには、脊髄のしんまで同意した。基本的には本を読むのは孤独な作業で、人と共有するのは卑猥な行為でしかない。集団でそれをやる国語の授業なんて、3Pならぬ40Pみたいなものだ。
思えば私は幼いときに母が、童話「ノンちゃん雲に乗る」を私の前で朗読してくれようとした時、両手で耳をふさいで庭に逃げ出し、帰らなかったことがあった。また小学校のとき、授業で「フランダースの犬」の冒頭を黒板の前で朗読するように先生から言われて、どうしても声が出せず、ずっとそのまま休み時間まで黒板の前で本を持って立たされていたことがある。どちらも私は苦にならなかった。選択の余地がないほど私には、そんなことはできるはずもなかったから迷いも悩みも自己嫌悪も何もなかった。

その後私は国語の授業でも読書感想文でも本心とは関係なく、相手や周囲が期待する感想や解答に適当に自分の本音をまぜて提出する技術を覚えて、いわば真実に近い嘘を書いたり言ったりすることで乗り切れるようになった。しかし今でも私のような子どもはあちこちにいるはずであり、それを相手にする教師は大変な職業だとつくづく思う。

せめて、そういう子どもたちがいることを、どこかで意識しておいてほしい。そして、時間がない中大変とは思うけれど、教材も含めたいろんな文学作品とは読書会やセミナーで人といっしょに味わう前に、自分だけで対決し、一対一の真剣勝負で向き合って見てほしい。自分自身の体験や感性や生活や嗜好のすべてをかけて。

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カツジ猫