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「花咲かじいさん」の真実

えげつない題でごめんなさい。でもちょっと興奮してるもんですから。
授業のテキストにも使っている「花咲かじいさん」の童話で、私は「自分にとって大切なものを他者から要求されたとき、どの程度まで与えればいいのか」という点に注目して、この童話を考えました。

授業の中でも、いろんな感想が出て、この童話が伝えている教訓について、「人のものをうらやましがってはいけない」「お人好しすぎてはいけない」などといった解釈が出ました。

それは、学者や小説家などの解釈とも似ていて、「旅人に親切にした主人も、今度は不親切な人になるのではないか」「正直だといいことがあると教えている」などという見解も示されています。

しかし、何となくしっくり来ない気もして、ただ、この童話の「誰も幸せになっていない」という感じに、自分の気分を重ね合わせて私は読んでいました。
授業の中でも、「花咲かじいさんは幸せになったと言えるか」という疑問も複数出ていました。

どの意見も感想も、それぞれの役割を果たしていたと思うのですが、そういったやりとりの中から、「花咲かじいさんは犬や臼を大切にし愛していた。隣りのじいさんにとっては、犬も臼も愛情の対象ではなく、利益を得る手段に過ぎなかった。そこがちがう。そして、そういう花咲かじいさんは、隣りのじいさんもまた愛していたから、幸せになってほしくて、みすみす犬も臼も貸してあげたのではなかったか。最後に灰をまいて花を咲かせるのも、皆を喜ばせようという気持からではないのか。この童話の教訓は結局、他者を愛することが幸福を生むということであり、それを勧める童話ではないか」という解釈が生まれてきた時、私はこの童話の正しい読み方にたどりついた気がしました。

文学作品はどう読もうと自由だし、得るところはあります。
しかし一方で、「正解」というものは厳としてあるのです。
この童話をきっちり、自然に、完全に理解するのは、この「正解」しかないと私は今思っています。

もう昔のことですが、「キル・ビル」という映画があり、スーパーヒロインの活躍を描く血なまぐさい映画でしたが、日本ではこれを「愛の映画」として宣伝しました。私はこの映画はそこそこ好きでしたが、こんな映画まで「愛」と言って宣伝する日本映画界の感覚に、腹が立つのを通り越して、むしろ大いに笑わせてもらいました。安易に「愛」と言っときゃすむという発想が私は大嫌いです。そういう点では、「花咲かじいさん」が「愛」を説いた童話と主張するのは、こっぱずかしっくて気が引けますが、でもやっぱりそうとしか思えない。これは、「人間を生き物を無生物(臼ね)を関係ない他人も疑わしい隣人も皆愛しなさい。その結果ひどい目にあってもめげないで愛しつづけなさい」という、キリストさま以上の「愛」を説く童話です。

でも、こんなアホらしいまでに歯の浮くようなまっとうすぎる解釈に、多分誰もがたどりつけないでいる気もします。わかりやすすぎて盲点になっていると言おうか。

私は授業で、この童話に共通するものとして、ワイルドの「忠実な友だち」を紹介しました。この他者に利用されまくる善意の男の話は、本当に救いのない話として鑑賞されているのがネットの感想でもわかるし、これが普通だと思います。

ただ、これも大昔、私は同性愛の罪に問われて入獄したワイルドの「獄中記」を読んだ感想として、あれこれわかりにくいけれど、これは結局は恋人ダグラスに対する愛、それもゆがんだところなどまったくない、崇高な純粋な愛の表現だと結論づけました。手書きの原稿だし、どこにも発表しなかったし、まず見つからないでしょうから、ちょっと残念です。
この中でワイルドは一見とてもいじましく、ダグラスを攻撃するし恨み言を述べています。しかしそれは、私ももう細かいことは自分で書いておいて忘れたけど、すべてダグラスのことを思って誠実に対応しようとしている、深い愛が動機です。でもこれもかなりわかりにくくて、きっとこんな解釈は誰もしてない気がします。

そんなワイルドの書いたものと思えば、「忠実な友だち」もまた、「裏切られても最悪の結果に終わっても、やはり愛して、他者につくしなさい」という覚悟を訴えた作品かもしれない。まだよくわからないけれど。

ともあれ、去年と今年と二回の授業を通して、このような正しい解釈と思えるものに到達できたことについては、受講生の皆さんに深く感謝しています。

と言ってもこれに対する疑問や反論もあるでしょうから、受講生の皆さんは気が向いたらどうぞ最終レポートその他で、それぞれに追求してみて下さい。

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カツジ猫