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(56)うちわのプラカード

どこの家でも、片づけをするにあたっては、その家ならではの、処分しなければならない何か大量のものがあると思う。私の家の場合には、それはうちわの山だった。
ほぼすべて、私の田舎で初盆のときに各家庭が集落の人に配るものである。お参りに来てくれた人に渡したり、盆踊りのときに配ったりする。だから裏には「初盆会 板坂」というように、その家の名が入っている。
そういうものだから、どこの家でも多いはずだが、私の家ではやけに大量だったのは、多分祖母も母もほとんど捨てずにとっておいたからだろう。何十年にもわたってたまったはずだが、どれも同じようにきれいで汚れてもいないのは、保存がいいのか、さすがに古いのは捨てていたのか、そこのところはわからない。ある時期からはうちわの骨や柄は、皆プラスティックになるが、私の家に残っていたものの中には竹製のものも、かなりあった。

相当に広かった田舎のわが家でも、昔は、エアコンはもちろんなく、扇風機でさえ、まっ黒いがっちりずんぐりしたものが一台あるきりだった。周囲の田んぼと広い庭から冷たい風が家に吹きこみ、うちわがあれば十分だった。夏には風通しのよい座敷に客を通して、座布団と麦茶とうちわを出すのが常だった。
私の記憶の底の底では、その時に使われていたうちわの色や形が、今にもよみがえって来そうにおぼろにうごめいているのだが、さすがにやっぱりそこまでは、一つたりとも思い出せない。初盆の時に配られるうちわは、どれも長年変わらず、似たような花模様だったから、特に印象に残らなかったこともあるのだろう。小学校の宿題か何かで、自分で霧吹きのようにしてもみじの葉を浮き出させたうちわを作ったこともあったが、もともと不器用な私は母に怒られたりしながら作ったような気がするし、特に大切にもしないまま、どこかに行ってしまった。

片づけなければならない、田舎の家の膨大な荷物の中から出てきたうちわは、まとめて紙にくるんであり、祖母が大事に保管していたことがうかがわれた。多分全部で五十本近くあったのではないだろうか。一気に捨てるのはためらわれ、人にさしあげて喜ばれるようなものではない。ついそのままにしておくと、うちわというのは、個々のかたちはかわいくても、たくさんまとまると、いたずらにかさばって、始末に困る。片づけ続けて物が次第に減って行くにつれて、目につくし気になるし、頭の痛いしろものになった。

「むなかた九条の会」という組織をもう十年以上も前に地元で作って、今も続いている。「九条の会」は、憲法を変えようという動きが次第に高まって来たころ、それに対抗して、加藤周一氏ら九人が作った会である。加藤氏はじめ日本の知性と文化を代表するような九名が、当時としてはまだ珍しい明確な政治に関する声明を出したにもかかわらず、新聞が社会面の下の方に小さく報じただけだったのが、私には衝撃だった。日本はもうだめかもしれないと、その時初めて感じた。
私自身はその時も今も、憲法にあまり特別な愛情や思い入れはなく、そもそも天皇制を容認している段階で私の好みには合わない。いくら人権を保障していても、生まれながらに人とちがった人生を送らなければならないことが義務づけられた制度を認めているのだったら、それは矛盾で茶番としか思えない。改憲派がなぜそこをつかないか、不思議でならない。というか、改憲するなら、まずそこだろう。私は今の天皇皇后の平和を守り憲法を守ろうと、ほとんど命を張っているような姿勢は、敬服するし尊敬するし、もうほとんど熱愛するし、それを粗末にし無視し、相手が抵抗も弁明もまったくできないのをいいことにさまざまな無礼を働く首相も政府もマスコミも、心の底から軽蔑し大嫌いだが、それとこれとは、また別である。

というわけで、憲法にはいろいろと私の中では、ねじれ現象もあるのだが、とにかく改憲をしようとしている人たちの理屈にもめざす方向にも、ろくなもののないのだけはよくわかっていたから、加藤氏たちが「九条の会」を立ち上げて、全国でも同じ組織を作ることを呼びかけた翌年、地元の宗像市でも、それに呼応して「むなかた九条の会」を作ろうという話になったとき、世話人九名の一人に名を連ねた。
代表世話人だった福岡教育大学の学長をはじめ、当時の世話人の半数以上がもう亡くなって、新しいメンバーと入れ替わっている。いろいろあったが、現在は私が代表世話人だ。とは言え、実際には本当に名ばかり口ばかり文章ばかりの代表で、いろんな集会であいさつしたり、チラシに文章を書いたりするだけで、実際の運営は事務局長をはじめとした、事務局の数名が、大変きちんと行ってくれているから無事に継続しているのである。

初代の世話人には社会党や元海軍の方などさまざまな方がいた。その方々は亡くなったが、いろいろな立場や思想信条の方が混じるのは今でも変わらない。数年前からさまざまな催しが、教職員組合の方々の行事と日時がぶつかるのに気づいて、合同するようにしてからは、社民党の人たちとも協力することが増えた。
とは言え、日本共産党は最初からかげになり日向になり、終始一貫協力し支えてくれていて、常に欠かせない存在だった。そして、選挙のたびに公明党と並んで、その組織力や足腰の強さが評判になるだけあって、共産党の人たちは常に、「会費を取って名簿を作って、組織をきちんとしよう」と言っていた。実は「むなかた九条の会」は、入会するとき、百円出せば、以後はまったく会費はいらず、月に一度の通信が郵送されるという規則で、多分かなりの人数はいるが、それも亡くなった人も多いし、事務局では一応把握し名簿の管理もしているが、私は会員数もよく覚えていない。万一、弾圧されて逮捕されて尋問されても拷問されても、白状するようなことを何も知らないのはいいのか悪いのかどっちだろう。

で、私はそんなまじめな共産党の方々が、「会費をちゃんととって組織をきちんとしよう」という提言をされるたびに、「そんなのめんどくさいからやめよう」と毎回反対して、結局そのままにしてしまった。幸い、最初のころは何をやっても十人か二十人の集まりだったのが、今では映画会、講演会など催すと五十人近くは参加者があり、カンパや参加費から会場費や上映代などを引いた残りで、会の運営はそれなりに何とかなっている。
堅実な会計報告を毎回行う事務局長は、最近、近畿財務局の職員の自殺に深く怒っておられたので初めて知ったところでは、もと財務局勤務で、その彼が慎重に検討して会の財政から購入したのは、九条の会ののぼり二本と、少し値は張るが折り畳みできて軽いので遠くの集会にも持ち運び可能なアルミか何かの旗竿二本、それに戦争法反対の小ぶりな横断幕だった。この幕の地色はオレンジ、文字は緑と言い張って、ちょっと独特な色合いにしたのは私で、おかげで福岡での集会の時に、どこかのテレビ局か新聞の記者がカメラマンに「こっち、こっち」と指示して、その幕を写させていたという話もある。

これがどうして、うちわの話につながるかと思っている人もいるだろう。
最近、事務局に新しく参加された女性の方が、よく本も読んでおられて、いろんな見解やアイディアも出されるのだが、彼女が何かのデモのときに、この「むなかた九条の会」が目立つように、はっぴかジャンパーを作れないかという提案をした。
それは予算がなくて無理ということになったのだが、私はそれに代わるものとして、わが家のうちわを改造して、プラカード代わりのスローガンを書いたらいいのではないかと思いついた。彼女の積極的な発言を何とか生かしたいというのもあったが、ひょっとしたら、うちわ処分の絶好の機会と言う邪悪な動機もあったかしれない。

私はそういう罪の意識があると、自分にそれなりの苦行を課すことで、うしろめたさをごまかそうとするところがある。なので、死ぬほど忙しいのに、糊と色紙を買いこんで、うちわの再生にとりかかった。私は何をやってるんだろうと自嘲しながら、朝から晩までせっせせっせとうちわに糊をつけては紙をはって、はさみで周囲を切り落とす。糊でしめったのを、庭に出して乾かす。たしかに時間はかかるのだが、何しろ雑で荒っぽい仕事だから、そんなに手間はいらない。
要するに、やめて、あきらめて、放り出すには、微妙なところで楽だし苦にならないレベルの仕事だった。それにつりこまれて、ほんとにバカとしか言いようがないが三十本ほどのうちわを改造し、集会に持って行っては人に配っておしつけた。私とちがって、器用な新婦人の会の方々は、私がスローガンを貼る間もなく持って行ったうちわに、かわいいイラスト入りのスローガンを作って貼って、ときどきいろんなところに持って来て下さっている。

それでもついに、嫌気がさして、最後の十本ほどは投げ出し、余った色紙とともに紙袋に入れて放っていた。そうしたら、これがまた、何かと場所をとってかなわない。何とかしなければと思っていたら、毎年宗像を通る原水爆禁止の国民平和大行進が今年も来ると聞いて、よしよしこれこれと、一気に最後のうちわ作りにとりかかった。
しかしながら、場数を踏むと手抜きも覚える。うちわはよく見ると、花模様だけでなく、川船とかトンボとか、けっこうかわいいデザインのものも多い。これはそのまま生かそうと、全面に紙を張るのはやめにして、余白にスローガンを書きこみ、裏の「初盆会」の名前のところだけを細い色紙で隠し、金色の丸いシールをちりばめるという新しい方法を使った。以前に比べて糊も紙も所要時間も十分の一ぐらいだが、仕上がりはそんなに悪くもなかった。

平和行進の当日は例年にも増して、うだるような暑さだった。こんな日に参加する人がいるのだろうかと危ぶんでいたら、けっこうな高齢者の方もふくめて三十人近くが来られたのには正直びびった。もちろん全区間を通しで歩く行進者も四名いて、台湾と韓国の若い学生二人に、神奈川と長崎から参加された、どちらも中年から初老の男女二人で、それもすごすぎると感服するしかなかった。
行進は市役所で休憩し、市側のあいさつも受ける。待ち時間の間に私は皆に、うちわを配りまくって、快く受け取ってもらった。新婦人の人たちもうちわを配っているようだったので、「商売敵ですね」と冗談を言ったら、あちらはきちんとスローガンを印刷したきれいな既製品のうちわを一本百円で売っていらして、ほんとに商売敵だった。あらかた配った後だったから、取り返しがつかなくて申し訳ないことをしたが、おかげでうちわは、ほぼはけた。余ったら、通しの行進者にサインでもしてもらって、記念に家に飾ろうと思っていたのだが、その分も残らなかった。

命の危険を感じたら途中で抜けようと思っていたが、熱波の中、何とか電車で二駅ほどの区間を歩き通した。そこでまた休憩になったとき、高齢の男性の方がひとり気分を悪くされて、救急車で運ばれた。ずっとこの行進には参加しているのだが、こんなことは初めてだった。さすがの暑さという他ない。
しかし、後で話を聞くと、その方は私の倍の距離を歩いて来られており、少し前に胃の全摘の手術を受けたばかりということで、今度こそ目まいがした。「もう今年で最後だろうから」と、皆がとめるのも振りきって歩きつづけたということだが、素朴な言い方をすると、そういうのはやっぱりよくないと思う。どうなったのかわからないが、本当にご無事でいるといい。

ところで、配ったうちわの中には、私の家の「板坂」の名前が入ったうちわも、ひとつだけあった。祖父の初盆か祖母の時のかわからない。取っておいてもよかったのだが、ついうっかり紙を貼って、誰かに渡してしまった。まあそれも、さわやかでいいか。
あと一つ、そういうたくさんのうちわとは別に、昔、仲よくしていた女子学生がくれた、新聞紙一枚分ぐらいの巨大なうちわがあった。赤地に黒字で「祭」の文字が大書され、油紙様のぴかぴかのコーティングがされている。
迫力がありすぎるので、適当に部屋の上の方に飾ったりしていて何十年もたつ内に、そこはかとなくぼろぼろになり、破れて見る影もなくなったが、これまた何となく捨てかねていた。

これもこの機会にと、ときどき行く和紙の店で、よさそうな紙をさがした。イメージしていた模様の紙がなくなっており、あれこれ迷っている間に、どれがいいのかわからなくなり、結局金色と白の地味か派手かよくわからない模様のを買った。面積がでかい割には、そう苦労もなく貼りつけられて、元の色も透けなかったが、何となくものたりなくて、小さいうちわにつけた金色の丸いシールを、またあちこちに散らしてみた。まあまあの出来だったので、今は二階の寝台の上にある、格子の上に投げ上げて、天井絵のように使っている。

これで、保存用に残した数本以外には、わが家のうちわは、ほぼ完全に消えた。やったぜと達成感に酔いしれたのもつかの間、先日花火大会に行ったら、会場でもらった紙袋の中に、うちわが二本入っていて、栄枯盛衰だか行雲流水だか、西部劇やらフランス映画やらで、カップルの相手が入れ替わっても恋や結婚がつづくとか、なんかもう、そういうことをいろいろと思い浮かべた。

せっかくだから今度は新しい趣向を考えて、気になった新聞記事や、叔母の使いかけのメモ用紙の文字のある紙など、ちょっとだけ捨てがたいものを、ランダムに貼って行ってみるのも面白いかなあと考えている。(2018.7.27.)

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カツジ猫