「小公女」にはなれない。
◇ゆうべは、クローゼットを整理して新しく作った、隠し部屋みたいなコーナーで、こたつに入って悦に入ってラジオで日本シリーズとか聞いていたら、そのまんま寝てしまいました。
気がついたら、カツジ猫が、そばの椅子の上で同じように寝こけていました。
日本シリーズの肝心な最後のところはそうやって聞きのがしてしまったので、2ちゃんねるの実況中継をのぞいて見ていたら、ヤクルトファンの人たちでしょうか、とても勝てないとか、せめて最後は勢いよく三振でしめくくってくれとか、やけっぱちなことをいろいろ書いてる中に、ソフトバンクが勝って優勝が決まったとき、「福岡での胴上げを阻止したな」と言っている前向きな人がいて、思わず笑いました。
今日はきっと博多の街では優勝セールがあるんでしょうから、買い物に行きたいけど、お金も時間もマジでないもんなあ。
◇ところで、政府が辺野古の工事を再開したのもさることながら、現地の区長を呼びつけて補助金か何かやる話をして反対派の切り崩しをはかっているという、ちょっとあり得ない話を、「日刊ゲンダイ」が詳しく書いてくれているので、どうぞお読み下さい。
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/167880/1
このことは前にもちょっと書きましたが、まったくもう、なりふりかまわずというか、あからさまな暴力行為以外のルール違反は何でもやっているという感じですね、政府は。
そもそも辺野古の知事の承認取り消しの「無効」手続きにしたって、本来、権力を持つ人の横暴を制止するための弱者救済の手続きとかいうことで、それを強い立場の支配者が使うというのが恥ずかしいどころの騒ぎじゃない。上に立つ人は、そんなことしなくても、説得とか交渉とかいろいろできるわけで、弱者の武器を我が物顔に使うって、警察官が痴漢除けのスプレーかスタンガン使ってるようなもんでしょう。それとか、立派な二本差しの侍が、お姫様の自害用の懐剣かかんざしで、戦おうとしているみたいな。いい笑いものですよ。
まあでも考えて見れば、特定の人種を殺せと公道で叫んで回るようなことしている人たちが、その行動のよりどころに「言論の自由」「表現の自由」を、どうやら冗談でなくまじめに言ってたり、あげくのはてには首相に抗議してるデモのコールを「ヘイトスピーチだ」と言ったりするのと、これは同じ感覚ですね。
上に立つ立場、強い立場にいる者の責任も義務も根本的にわかっていない。こういう人たちや、それに支持される人たちは絶対に、人の上に立っちゃだめですよ。動物を虐待する子ども、子どもを虐待する親、生徒を虐待する教師、配偶者を虐待する人間、皆そうですけど、自分が弱者だから何をしてもいいと思いこんでる。
ちなみに私は昔から、あなたは強い、えらい、がまんしなさいと教えられて、多分自分はもうとっくに強くもえらくもない場所でも、弱者に鞍替えしそこねて、ずっと人の上に立つ人間としての感覚で生きて来たので、そういう「強いという自覚もなくて、弱い者の使う武器を使用する」「そのことのおかしさにも気づかない、指摘されても何のことかもわからない」人間に対しては、実は思想信条その他とは関係ない、屈折した強烈な嫌悪感と憎悪とがあります。まあ、「上に立つ人間」のエチケットとして、口にも顔にも出しませんけど。って、こんな恨み言のいやみを書いてる時点でもう、どんな境遇でも「小公女」の精神を失わなかったセーラとちがって、「上に立つ人間」じゃないですけど。
◇昨日の国文学史の授業では、論文やレポートの書き方について説明したのですが、「前にもレポートの書き方の授業があって、テキストも買った」という学生がいたので、「持って来て、見せて」と頼んでいたら、忘れずに持って来てくれていました。
レポートの書き方とかいう新書で(いいかげんでごめんなさい)ぱらぱらと見せてもらったところ、よくまとまった親切な内容でしたが、ちょっとびっくりしたのが、もう全体がダウンロードとかネットとか、そういう話が中心で、もうそんな時代なのだなあと実感しました。パソコン使ったプレゼンのしかたまであって、これは私もしたことなくて世の中において行かれてるので、ちょっとあせる。もう死ぬまでそんなことしないと開き直って逃げ切るべきか、まじめに勉強するべきか。まあ、軽トラの運転を考えるぐらいなら、こっちの方が先でしょうね、どう考えても(笑)。
◇クローゼットにこたつを入れた結果の玉突き現象で、田舎の家においていた、超超古い、私が見放したらもう確実に処分されるしかない、古いぼろい食卓を、上の家に入れられるかもしれなくて、ちょっとわくわくしています。しかし自分が幼い時の印象しかないので、大きさがまるでわからない。今度帰った時に測って来なくては。