江戸文学その他あれこれ5-年号と作品
はじまりと終わり
日本文学史の「近世」と「江戸時代」は、その終わりはわかりやすく一致していて、1868年の明治維新で終了して江戸は明治に近世は近代になる。しかし、始まりについてはややあいまいで、ずれていて、江戸時代の前の安土・桃山時代も近世になっている。江戸時代の始まりも1600年の関ヶ原の合戦か、1603年の江戸幕府開府か、いくつかの説がある。
主要な年号
その1600年から1868年までの、大ざっぱに「徳川三百年」とも言われる江戸時代の間に、年号はひんぱんに交代する。今とちがって天皇の在位と関係なく年号がかわるので、数年おきに変更されることも珍しくない。全部覚える必要はないが、主要なものは記憶して、なおかつ年号を聞いただけでその時代の雰囲気が思い浮かぶようになると便利である。
そういうものをいくつかあげると、まず始まりが慶長、最後が慶応。ほぼ真ん中が享保。これはセットで覚えてしまおう。
享保を境にした前半の真ん中が元禄。後半の真ん中が文化・文政。これもセットで覚えられる。
そして、その文化・文政は寛政の改革と天保の改革にほぼ挟まれている。そして、寛政の改革と享保の改革との間に、安永・天明という時代がある。
まあ最低、これだけをまず覚えれば、江戸文学史の骨格はつかみやすい。
二つの山
ところで、従来のというか現行の文学史を見ていると、自然に浮かび上がってくるのが、この前半の元禄と、後半の文化・文政の二つの時期に著名な文学作品が集中しているのがわかる。
そもそも江戸文学と言って誰もがまず思い出すだろう、松尾芭蕉、井原西鶴、近松門左衛門が、すべて元禄を中心に活動している。芭蕉は俳諧つまり韻文学、西鶴は小説つまり散文学、近松は浄瑠璃つまり戯曲で、文学を代表する三つのジャンルの各分野で、きわめつきの大物がこの時代にそろって登場しているのからして大変な時代だ。
さらに誰もが思い出すだろう滝沢馬琴、十返舎一九、為永春水、鶴屋南北といった作家たちがすべて文化・文政に活躍する。
健康と退廃
高校の教科書などでよく、元禄時代の文化は健康で力強く、文化・文政の文化は爛熟していて退廃的と説明される。しかしその一方で芭蕉はわび・さび、西鶴は好色、近松は心中というキーワードもあるし、馬琴は勧善懲悪がモットーの文学というのだから、どうして前者が健康で後者が退廃的かと、ふしぎに思う人もいるだろう。
これは作品を読まなければわからない。それもダイジェストなどではなく、できれば原文で読むとよくわかる。
芭蕉のわび・さびについてはあとで述べるが、それは決して侘しい淋しいものではなく、むしろ派手でカッコよくて華やかなものだ。西鶴や近松の描く男女はベッドインしようがいっしょに首をくくろうが、実に生き生きと元気で生命力に満ちている。西鶴のベッドシーンの描写など、ことばは簡単なのにむくむくとエロティックで、手のひらで押さえたらぷりんとはじきかえされそうな弾力がある。
一方、馬琴の小説は道徳的でまじめで男女の交わる場面などなくても、すべてがどこかおどろおどろしく、病的だ。同じ時代の遊郭を描く洒落本というジャンルは客と遊女の会話をリアルに描いて写実的なのにもかかわらず、西鶴と比べたらクールで知的で、同じ形容を使うと手のひらで押さえたらくしゃりとつぶれてしまいそうな精巧なもろさがある。
これは元禄時代が、ようやく戦争が終わって平和が定着した時期の活気を失っておらず、文化・文政が長い平和が生む安定と停滞を生み出しているという時代背景にも原因がある。
上方と江戸
もうひとつ、この二つの文化の特徴は、元禄時代が上方中心、文化・文政時代が江戸中心ということである。
もともと中世まで文化の中心は京都や大坂を主とする上方にあった。江戸はその北方の蝦夷や陸奥と同様に、上方から見ればむしろ辺境である。だから「伊勢物語」の業平は「東下り」をあれだけ悲しむのだ。
徳川家康が江戸城に幕府をおいてそこを政治の中心としても、しばらくはまだ関東は田舎である。田んぼのまんなかにできた新幹線の駅と同様、周辺の文化はまだ発展しない。長い伝統と土壌を必要とする文学はまだ生まれない。戦争が終わって平和になった江戸時代、まずその平和を謳歌して豊かな文学を生み出したのは古い都を持つ上方だった。
しかし時代が下るにつれ、新しい都の江戸も発展し、華やかになる。江戸時代も後半になると新興都市江戸の方が文化の面でも最先端になって行き、多くのすぐれた文学を生み出す。
文学史では享保を主とした江戸時代中期を、このように上方から江戸へと文化が移行する時期として「文運東漸の時代」と呼ぶ。この時期は二つの文化にはさまれた谷間の時代とされてきた。
新しい見解
ところが近年ではこの図式は見直され始めて、江戸時代中期こそは最も文化が栄えた時期だという見方も出てきた。
そんなことを言っても、その時代には元禄の芭蕉、文化・文政の馬琴に匹敵し凌駕するような作品や作家があるのかと思うかもしれないが、もともと浄瑠璃に関しては、最盛期はこの江戸時代中期であり、先に述べた安永・天明の時代には俳諧では与謝蕪村、小説では上田秋成という、芭蕉や馬琴にひけをとらない有名な文学者が登場している。
それでもちょっと弱いというなら、もうひとつ別の重要な観点がある。それは「雅俗」という視点だ。
当時の感覚では
実は、江戸文学と聞いて大抵の人が思い浮かべる、芭蕉、西鶴、近松、蕪村、秋成、馬琴、春水、一九、といった作家やその作品は、すべて当時の人々にとっては「はあ? あれ文学ですか?」というようなしろものだった。つまりそれは多くの人が楽しんで読み、大流行し、作家は制作に精魂かたむけ、名作と呼ばれるものがあったにしても、決して正式のちゃんとした文学、まともな大人が人前で読んで普通のものではなかった。
これが現代の何にあたるか説明するのが難しい。三十年も前ならやさしかった。「今のマンガみたいなもの」と言えばよかった。開高健はルポルタージュ「ずばり東京」の中でおそらく日本で初めてのマンガ論を書いて、手塚治虫を評価しているが、その中で彼が飲み屋で貸本屋から借りてきたマンガ本を山積みして読んでいたら、店主から奇異な目で見られ正常な人間か疑われたと記している。だが時代はあっという間に変化して、成人男女がどこで読んでもあたりまえで、大学でもマンガの研究がされ、書店の半分近くがコミックで占められる今では、この例えはまったく通用しないだろう。しいて言うなら、今のケータイ小説とか、そのあたりに近いだろうか。
雅と俗
では、これらの現代なら即、名が挙がる著名な作家たちとそのジャンル、つまり俳諧、小説、歌舞伎、浄瑠璃などを、当時の人がちゃんとした文学と認知していなかったとすれば、何がいったい正式の文学と思われていたのか。それは、前の時代からひきつがれてきた既成の文学ジャンル、つまり漢詩、漢文、和歌、連歌、能、狂言などだった。それらを「雅の文学」と当時の人はとらえていて、俳諧や歌舞伎など新しく生まれたジャンルの文学は「俗の文学」として楽しんでいた。
「雅の文学」は文学として認められていて、存在理由を問われない。だが、「俗の文学」は面白いからとか役に立つからとか、何か実用に役立つことが求められた。西鶴の小説に唐突に教訓めいた文章が飛び出し、近松の浄瑠璃に場違いに滑稽な場面が現れるのは、その反映だ。その点では、さんざん人の不幸や悲劇をつついてサカナにしたあげく、「親子の関係とはこれでいいのでしょうか」「負けないで強く生きてほしいものです」とつけ加えればすべてが許される、ワイドショーや週刊誌のありかたと、俗文学は似ているかもしれない。
さてもうわかると思うのだが、俗文学だけを見た場合、元禄と文化・文政が江戸時代の中では光り輝くスポットライトを浴びているように見えるのだが、これに今ではあまり知られない雅文学、漢詩や和歌の分野を重ね合わせると、江戸時代中期は充分に最高にすぐれた文学が生まれた時代と言えるのだ。何しろ、あの本居宣長がいるというだけでも充分だろう。
移り変わる文学史
ちなみに、この「中期が最高」説を唱えている研究者は中野三敏である。覚えていてほしいのは、文学史といってもこのように、新しい見解で見直せば大きく変化することもあるということだ。
江戸時代の文学は従来、芭蕉や西鶴が近代の初めに高く評価された以外はあまり注目されなかった。三田村鳶魚など江戸時代を愛する趣味人たちが、多くの著作を残したが、研究対象としてはとりあげられることがなかった。特に馬琴を初めとした後期の戯作と呼ばれる散文学類は、まともに研究する価値もないものとして長く無視されてきた。中村幸彦「戯作論」はそれを変える大きな役割を果たした著作だが、その序文で今から見るとけげんに思うほど遠慮深く慎重に戯作を研究する意義を説いているのからも、それはうかがえるだろう。
中村は戯作をはじめとする俗文学とともに、雅文学にもまた詳しい研究者だった。しかし、「戯作論」以降、時代の流れもあって戯作が次第に評価されてきた一方で雅文学はともすれば、おきざりにされてきた。中野三敏の主張はそれを修正して、よりバランスのとれた江戸時代文学史を築こうとするものだ。
同様の試みは今後も続くだろう。江戸文学に限らないが、文学を愛したり研究したりする時は、文学史にも目を配って、従来の説をうのみにしないよう緊張を保っておくことが大切である。
(2014.10.29.)