こんなのも好き
ユキヤナギはあいかわらず全盛を誇っていますが、私こういうのもけっこう好きなの。以前にうちの庭に来ていた外猫の「しまお」が、よそで死んだから身体はないのですが、代わりに使っていたショールを埋めてお墓代わりにした上に記念に植えた小さなアザレア。ユキヤナギとランタナが咲き誇るので、いつもは陰になって葉っぱさえ見えないんですが、それでも、何とか生き延びてくれて、すきまから小さな花をのぞかせてくれる。て言うか、かなり立派な花じゃないか、よく見たら。
小さい黄水仙の方は、もうちょっと盛りを過ぎたかなあ。
昨日は昔なじみの若い人が来てくれて、足の踏み場もない上の家の片づけをして、おしゃべりして、楽しく過ごしました。まだまだ先は長いけど、何とかこれをきっかけに、上の家を片づけられるといいなあ。でも明日はその前に、虫くったセーター三枚のつくろいをしなくちゃなあ。いや、つくろったって、よそに来て行ける状態じゃないのですが、夜寝る時に着ると首があったかくて実に助かるのです。
昨日の源氏物語の話をもう少しだけ。(以下はネタばれっす。)
光源氏がつきあった女性の中で、別格に醜くてこっけいなのは、もちろん末摘花でしょう。でも、その顔の醜さに、一夜過ごした後の朝、源氏は愕然とするわけですが、当然今の人だったら、顔ぐらい寝る前から見とけよと思うだろうし、それをしない源氏はよっぽどアホかがっついてるかと感じる人もいるかもしれない。でも、これは当時は寝る前に姫君の顔なんか見られないのですよ。絶対に。そばに行ったって、几帳越しなんだから。
だから、家柄のいい深窓の姫君がひっそり暮らしているという情報があったら、それでもう想像をたくましくするしかないわけで。あとはもう、顔なんていちかばちかで。だから源氏もああするしかない。
顔も見ないまま寝るなんて恐くてできないと今の人は思うでしょうが、考えてみると、私海外ドラマの「セックス・アンド・ザ・シティ」を見てつくづく気づいたのですが、ベッドインしないでセックスの相性もわからんままに恋愛や結婚するのも、かなりなリスクですよね。顔がわからんままにつきあうのも、大してそれと変わらんのじゃないですか。無茶やろうか。
昨日も書いたように、だから源氏物語の世界では、顔以外の声とか和歌とか文字とかセンスとかたたずまいとかそういうことが大きな価値を持つわけですよね。特に見える肉体の一部としては髪の美しさが。ちなみに末摘花は髪は超きれいなんですよ。顔以外にもセンスその他はさっぱりの時代遅れで、むしろ顔よりこっちが幻滅の対象にもなってるんですが。
私は平安時代は専門外でさっぱり知らないけど、だから髪をほめる話はすごく多いはずで、どこぞの誰かは、へやに入っても廊下のはしのどっかまで髪が続いてたとか、髪の毛の一筋をとって懐紙にのせたら、もう懐紙全体が真っ黒で下の白い色は見えなかった(つまりそれだけ一本の髪の毛がとぐろをまいて懐紙全体をおおったってこと)とかいう話をどっかで読んだ気がする。
まだ何かあったけど、また書きます。