(9)しまおが歩く
(猫・湯布院・ウォーターシップダウンのうさぎたち)
白猫シルバー
湯布院の山の上に、猫がたくさんいるギャラリーがあって、高価な売り物の服の上に大きな猫が昼寝していたりするのが猫好きな人にはこたえられないだろう。私もしばしば立ち寄って、何か買ったりお茶をいただいたりする。
あるとき、その若い女性オーナーが、「ずいぶん猫を飼ったけど、まっ白い猫というのはまだ飼ったことがない」と言い、私も「たしかに少ないですね」と言ったのだが、あとで思い出した。私はシルバーと名づけた純白の猫を一時期飼っていたというか、家に入れていたことがある。
たしか十七歳まで長生きした初代猫のおゆきさんが死んで、その次のキャラメルとミルクという兄弟猫を田舎の母からもらうまでの数年間のことだった。白い小さい子猫が家のそばにいて、私がときどきエサをやろうとすると、鋭いつめではたきおとして、私の指先から血がしたたった。そういうことが何度もあるうち、おゆきさんの使っていた出入り口から中に入ってくるようになり、それでも決してさわらせなかったが、ある日、廊下に座って私に背を向けて庭を見ているとき、「ここは快適だが、この人間さえいなければ申し分ないのに」というオーラ全開の背中にそっと手をのせたら、「見えなきゃ存在しないも同じだ」みたいな顔で黙ってなでさせた。それからだんだんなついてきて、多分ひざの上で寝たりするようにもなっていたと思う。
そのころには彼は巨大になっていて、全身純白でたくましく、私はよく友人たちに「ハリウッド映画に出てくるガソリンスタンドで働いてる、けんかは強いけど頭は弱い、でかいにーちゃんがいるでしょうが。あんな感じの外見」と、差別発言まる出しの説明をしていた。実際には彼は賢くて理性的な猫だった。夏になってノミがわいたので、私は何度か風呂場で彼をシャンプーし、彼はご近所の人が私が猫を殺していると思ったにちがいないほど、ものすごい大声で鳴きわめいたが、そんなに怒っているときでも、私をかんだりひっかいたりは絶対にしなかった。子猫の時の小さな針のようなつめで、私の指から血を流させたのとは比較にならぬ、強靭なつめと歯を持っていたのに、まったく私を傷つけることがなかったその精神に私は驚嘆したものだ。
彼はある日、庭先で脚をそろえてきちんと座って私を見送ってくれたのを最後に、訪れなくなり姿を消した。今ならあちこちさがしまわっただろうが、そのころまだ私はあまりそういうことに気がまわらずに、いつか帰ってくるだろうと何の手も打たないままに日が過ぎてしまった。彼の写真は一枚もない。猫の日めくりカレンダーに彼と似た猫の写真があったのを切り取って、私は長いこと冷蔵庫にはっていた。
ずっとあとになって、私は田舎の一族の墓とは別に、町の自宅に近い丘の上に小さな自分だけの墓を買って、墓石の表面にいっしょに暮した猫や犬の名を皆彫りこんだ。彼にはシルバーという名をつけていたので、それもちゃんと入れた。たしか「ウォーターシップダウンのうさぎたち」に登場する武闘派のたのもしいうさぎにあやかった名だったと思う。今もあの小説を読むと、彼の固いしっかりした短い毛の身体の手触りを思い出す。
せつない幻想
キャラメルが死に、田舎の母に預かってもらったミルクが行方不明になってから、私の家の猫は増えたり減ったりした。一時は自由に出入りさせていたが、野良猫が侵入するので、金網で囲った庭を作って、家の中で飼うことにした。近所には猫好きな人もいてエサをやるので、野良猫か家猫かわからない猫たちはよく家の周囲に出没する。それなりに縄張りもあるらしかった。
いつからか、茶色がかったきじ猫がうちを縄張りにしたようだった。彼は家の周りをうろつき、我が物顔で玄関先に昼寝したりしていた。どうも以前、うちの猫の一匹だった気のいい大きな黒猫ナッツウが、彼にいじめられて家出して帰ってこなかったと私はふんでいたので、いじめたり追い払ったりしないまでも、エサをやる気にはなれなかった。
何に私がほだされたかというと、けっこうくだらないことである。
彼は家の庭先にある器にたまった水をよく飲んでいた。たしか私はそこにおもちゃの陶器の金魚を浮かべていたから、水を欠かさなかったのだと思う。彼はそれを飲んでは、さもここが自分の家であるかのように、ウッドデッキや玄関の前に寝そべっていた。
それが何だか切なかった。
私は田舎の家でも町の自宅でも、「そこが自分の家でもないのに、自分の家のような幻想を楽しむ」人を一人ならず知っていて、相手や事情によって差はあるが、一口に言うと、その心情が身の毛のよだつほど嫌いである。小説で読んでさえ気色が悪くなる。
多分、「女ひとりで(昔はこれに「若い」がついた)ひとなみ以上の敷地や家を所有して、不自然だ、生意気だ、無駄だ、管理できまい、自分ならもっと有効に使う」という世間の感情が、空気感染のように伝わってくるということもあるのだろう。売らないのかとか、貸さないのかとか、どう使っているのかとか、聞かれたことは数しれない。まわりに死ぬほど空き地があったり、自宅がすぐそばにあるのに自転車や車をわざわざこちらの庭先に停める、荷物を置く、その他もろもろ、そういうことを続けていればあわよくばいつかひょっと、ここが自分のものにならないかと期待するのか、空想の中でもここに住んだ気分になってみようと思うのか、まったく意味がわからない行動をされたことも数えきれない。あくまで勝手な私の趣味だが、いっそそういうことをやり続けて、いつかこの家や土地を一部でいいからのっとろうと画策している人はまだましって気がする。一番いやなのは、単に空想で私はこの家の住人、この土地の所有者と夢見てうっとりしているような人で、多くの他人のオナペットになってマスターベーションのおかずにされてる美少女やら美少年やらの感じるおぞましさや絶望感は、きっとこういうものだろうと思ったりする。
勇気がなかった
その同じ私が、相手が猫だと、しかもその上、彼が本当にそんなことを考えているのかどうかわかったものではないというのに、置きっぱなしの水を飲んだだけで、「このうちの猫の気分」になって、いかにものんびり幸福そうに昼寝して飼い猫になった夢を見ていると思うと、胸をしめつけられるぐらい、いじらしかった。
それでつい、私の飼い猫が残したエサを与え、やがて彼のために食事を用意し、寒さを防ぐために軒下に箱と毛布をおいてやり、それが濡れていたら替えてやり、毎朝毎晩彼は飼い猫のように大声で食事を催促するようになった。
「図々しいったらありゃしない」「もともと飼い猫なんでしょうねえ」「年寄りなのかしら」などと、お隣の奥さんと私は笑いあっていた。
どのくらい、そんな日々が続いたのだろう。彼は多分、家の中にも入りたかったのだと思うのだが、シルバーの時とちがって、私は彼を外猫のままにしておいた。
いなくなったナッツウへのこだわりもあった。だが一番は、これ以上彼を近づけても私は最後まで面倒をみられないかもしれないという懸念だったと思う。
一時は六七匹いた猫も、三匹ほどに減っていたし、皆老齢だったから最後までみとってやれる自信は一応あった。けれどもたまたま拾ってしまった子猫の一匹だけはまだ若く、八十代半ばまで生きなくては最後まで飼えないかもしれないと心配している私としては、これ以上心配の種を増やしたくなかった。シルバーのように、彼がまたどこか新しい場所をさがしていなくなったら、その方が彼にとってはいいのではないかというためらいが、いつも私の中にあった。
一度だけ、彼が家に入ってきて、ベッドで寝ていたことがある。追い出したものかどうか迷って、私が「あれー」と言って見ていたら、彼は自分から飛び下りて逃げて外に出て行った。私が家に入れてやる気があったら、彼は入ってきたし居ついたのだろう。だが、他の猫たちとの折り合いも心配だったし、母の介護やその他で、ぎりぎりの生活をしていた私は、これ以上新しいことに挑戦する勇気が持てなかった。
ショールを埋めて
そうこうしている内に彼の姿はシルバーと同じく、ふっと見えなくなった。どうしたんでしょうねえ、と隣の奥さんと私は話していた。そうしたら、地域の集会のあとの食事会の席で、彼にときどきエサをやっていた猫好きな近所の奥さんから彼の消息を聞いた。ひと月ほど前、けんかか事故かで大けがをして近くの家の庭先で虫の息だったのを、そこの奥さんが困って保健所に電話して持って行ってもらったのだそうだ。
「まだ生きていて、にゃああと鳴いたそうで、かわいそうでかわいそうで、聞いただけで泣けてしまった」と、その猫好きな奥さんは私に話して聞かせた。
私たちは彼を助けなかった奥さんを恨みはしなかった。よっぽどの猫好きでなければ、誰だってそうするだろう。それでも私が居合わせたら、せめて腕の中で死なせてやったのにとは思った。野良猫はそんなとき、にゃああと鳴いたりはしない。彼は私に飼いならされて飼い猫になってしまっていたのだと思うと、それも悲しかった。
私は思いきれずに、彼の最期を知ろうと、保健所に出かけた。あちこちの部署を回って確認が取れたのは、死んでしまっていない猫を行政は殺したりはしないということ、記録によると大けがをしていたので、引き取って保護していたが、間もなく死んだということだった。ひどい扱いを受けたわけではないとわかっただけでも私は少しは救われた。彼の死んだ日も一応確認できた。彼にはそんなことどうでもいいことだろうが。
彼の寝場所にしていた箱を片づけて、中に敷いていた私の古いショールや毛布を処分しようとして捨てきれず、それこそまた、彼にはどうでもいいことだろうが、私は庭の一角にそのショールを埋めて、田舎の家のそばの川から拾ってきた丸い石に、墓苑の石材屋に彼の名前を彫ってもらって、その上においた。目ざとい人は猫の墓と思って見ているだろうが、本当はその下には彼はいない。
湯布院のギャラリーで
さて、最初に話した湯布院の猫がいるギャラリーでは、いろんな雑貨も売っていて、ある時そこに、けっこう大きい、紙製の猫の壁掛けがあった。
ただのロウ引きのような紙に猫の歩く姿を描いて雑に切り抜いただけの、それにしては二千円以上するのが法外なように見えるが、実は大変よく描けているし、軽いし、壁にかけるのにいいし、ありそうでなかなかないしろものである。
猫グッズなら何でも買うという猫好きもいるだろうが、私はそうではないばかりか、めったなものでは気に入らない。だがこれは一目で気に入って即買った。前に言った、つい拾ってしまった子猫がもう大人になっていて、かっこうや毛色がよく似ていたので、彼のためにという気持ちもあった。
さしあたり、玄関の壁にはりつけておいたのだが、毛色や姿は実は死んだ外猫の彼にも似ている。彼が生前ずっと家に入りたがっていたことを思うと、玄関から家の中に向かって、幸福そうにほのかに頬を染めて歩いているこの壁掛けの猫の姿が、彼の化身のように思えて、悲しい一方、救いだった。
そして、田舎の家を片づけて、母が旅の間に買った道中手形だの、叔父が出征の日の朝に書き残した色紙だの、玄関に飾るものが増えたところで、私はその壁掛けを、家の中の天井近い壁に移動させた。
猫の散歩道
私がふだん生活している、この小さい家は狭いので、ところ狭しと絵がかけられて、一つまちがうと、とんでもない眺めになる。だからびくびくしていたのだが、わずかな空間に飾ったその猫の壁掛けは、びっくりするほど、いい感じにおさまった。ベッドに寝て見上げると、まるで猫が満足して、天井近い長押の上をのんびり歩いているようだった。あの湯布院のギャラリーの猫たちが、店の天井の梁の上を楽しそうに行ったり来たりしているように。
あのキジ猫がついにこうして、私の家の一番居心地いい場所に住み着いたのかと思うと、心からほっとした。彼にはどうでもいいことなのかもしれないけれど。
いなくなる最後のころ、彼は私に、しっぽぐらいは普通にさわらせるようになっていた。背中や頭をなでさせるのは時間の問題だったろう。一度でも抱いてやれたらよかったと思わないでもないが、これが私の限界だった。許してくれと言うしかない。
巣箱を作ってやったころから一応名前はつけていた。「しまお」という名で、丘の上の墓にも、彼のその名は刻まれている。(2017.5.31.)