もーもーもーっ!
タイトル、牛が鳴いてるのではありません。
なんかこう、やる気が出ないというか、家はさっぱり片づかないし、庭ではいきなり、ニオイバンマツリとガザニアが満開になるし、猫は刺し身がなくて不機嫌だし、いろいろぼやぼやしていたら、叔母の命日を忘れてしまっていて、大慌てで四国のお寺にお花を送ったりして、何もかも後手後手にまわってしまうというか、もう自己嫌悪に陥るヒマもない。
散らかりまくった家で、傷みかけた冷蔵庫のものをあれこれ食べるのに嫌気がさして、買い物に行ったついでにスーパーの中の食堂で久し振りに人さまが作ったまともな夕食を食べて、帰って来てばったり寝ていたら、夢の中で電車の席で顔色の悪そうな若者が悲しそうに小声で「やしのみ」の歌を歌っていて、きっとこれは、朝ドラ「あんぱん」で、主人公やヒロインが友だちや姉妹と浜辺で歌っていたのが頭に残っていたせいだろう。夢の中でも何となく、あー、この若者はきっと戦死するんだろうなと甘くけだるく考えていた。「やしのみ」とか、このへんの歌は母と二人でよく歌っていて、母は「実をとりて胸にあつればあらたなり流離の憂い」だの「海の日の沈むを見ればたぎり落つ異郷の涙」だのという歌詞がお気に入りだった。
そう言えば叔母は晩年、町の暮しをやめて、母と田舎の家で暮らそうか、澪子姉さんを見ていると元気がいいし、田舎暮らしの方が身体にいいのではないかと思う、などとときどき口にしていた。叔父の死後数年で叔母は亡くなったのだが、マンションでの一人暮らしが淋しかったのかもしれない。華やかな生活が好きで、都会での買い物を楽しんでいた叔母に、田舎暮らしは無理だろうと私はまともに聞かなかったが、考えて見れば叔母は若いころ、開業医だった祖父の手伝いをして、田舎の家でずっと医師として働いていたのだ。都会ぐらしを楽しむと言っても、叔父ともども決して派手な贅沢なことを楽しむ人ではなかった。
母とは性格が水と油どころじゃない真反対だったし、二人で田舎で暮してもあまり楽しい最晩年にはなりそうにないと私は叔母のその計画をちゃんと考えなかったが、もしかしたら私の想像力のなさで、二人は案外楽しく映画「八月の鯨」もどきに最晩年の共同生活を送ったのかもしれない。だがまたその一方で、ものすごく悲惨なことになったかもしれないから、もうそこは何とも言えない。二人をそれぞれ大事にしようとしてあっぷあっぷ状態だった私には、そこまでの大改革をする展望も余裕もなかった。
まだ元気なときには、従姉といっしょに叔母の命日には四国のお寺に毎年お参りに行っていた。従弟といっしょだったときも一度あって、どちらも友人や仕事仲間や知人とはちがう、そばにいると血がすうっと自然に溶け合うような一体感を感じて、これが血族というものかという気がしたのを覚えている。ゴールデンウィークのまっただなかだったから、飛行機もホテルも取るのが大変で、その一方、緑と日差しに包まれた四国への旅は最高で、南生子おばちゃんは、いい季節に亡くなったのかもしれないねと従姉と笑いあったりした。
お花といっしょに送った、お寺への手紙にも書いたけど、私は叔母が何をしたら一番喜ぶかと考えるとき、一度も、瞬時も迷わずに、確信をもって断言できるのは「私自身が幸せでいること」だ。叔母の喜びも私への望みも、あとにも先にもそれしかないと、こうまでためらいも疑いもなく確信できるのは、叔母もなかなかすごいと思う。手間が省けてありがたいぜと真剣に思う。
母の場合はこれがまたちょっとちがう。多分私への望みとかほとんどないだろう。晩年には私をそばにおきたがって、日記には恨み言もいろいろ書いていたが、それは母の一面にすぎず本質ではない。魂や来世があるなら、母は私のことは信頼して安心して放置して、世の中や他人のためにせっせと何かをしているだろう。そのへんの私と母の絆はとても希薄で、しかも強力だ。こちらもまあ、ありがたいと言えばそうだ。
ともあれ、庭に咲いたバラのみごとな真紅なのを切って、叔母の位牌の前に飾った。夜はいっしょに食べようと、いちご大福とシュークリームを買ったのだが、結局寝落ちして食べてない。母の日や子どもの日や猫の命日と同様に、五月いっぱいは、叔母とつきあう気分で、お菓子とお茶は明日にしよう。
まだいろいろと書きたいことがあったが全部忘れた。あー、授業の資料もそろえなきゃ、他の仕事の準備もしなくちゃ。猫にブラシもかけなくちゃ。
写真は、庭の花の中から、叔母のイメージって、まさにこんなかなと思う、ピンクのバラ。それと、いきなり満開になった、ニオイバンマツリとガザニアです。