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トラのシマシマ

◇年末に、コミック「おじさまと猫」の第二巻を本屋に買いに行ったついでに見つけた、「メタモルフォーゼの縁側」を楽しんでいる。七十五歳のおばあさんと十七歳の高校生が、ボーイズラブの漫画を通して仲良くなる話で、人気もあるらしいけど、楽しくて、よくできている。「ヘンリ・ライクロフトの私記」もどきに、本を読むことの楽しさを描いた文学でもある。
「おじさんと猫」同様、つい何度も読み返してしまうのだが、風呂上がりにほぼ裸でベッドにひっくりかえって、ボーイズラブの漫画にはまる七十五歳のばあさんの漫画を読んで喜んでる七十二歳の私っていうのも、それって相当どうなんだろうな。

◇「メタモルフォーゼ」のアマゾンの批評には、これと言って悪口はないが、「おじさまと猫」の方は、人気がすごいせいもあるのか、そこそこ批判的なものもある。
たださあ、そういう批判のどれもこれもが、私から見るとあたってなくて、ちょっとイライラする。

調子よすぎる、美化しすぎる、現実はこうじゃない、とか言うけど、これは「そういう」作品でしょう。調子よく、現実を美化して、ほわほわふわふわ楽しむ作品でしょう。綿菓子に明太子の味わい求めてどうすんだよ、言いがかりってもんだろう。

「猫はもっと気まぐれで意地悪なものだ」と言うけど、そういうのもそれはそれで一種のマンネリでさ、私なんかは、もうかなり前から、洋の東西の猫文学が、猫はしたたか、気まぐれ、わがまま、って強調し、その方向でデフォルメするのに、えーかげん飽いてるんですけど。猫にも素直な、けなげな個体はいるし、個猫?の中にもそういう部分はある。第一、この漫画の猫の「ふくまる」は、けっこうぐれてていじけているし、別に美化されてもいない。
猫が気を許して飼い主に甘えてくるのを、テクニックとかしたたかとか解釈するのは自由だが、それしかないと思いこむのは猫にも人間にも不幸じゃなかろか。

「不幸な猫を助ける話なら、なぜ保護施設じゃなくてペットショップなんだ」という批判に至っては、見当違いすぎて開いた口がふさがらないレベルっす。これは別に動物愛護の漫画じゃないぞ。そもそもこのおじさんは、動物苦手で猫のことも知らない。たまたまペットショップでこの猫を見て、妻の思い出からはずみで買ったわけで、これほど自然な流れはなく、むしろこれ以外の展開はありえない。
このおじさんは、道で捨て猫や野良猫を手懐けるテクニックや知恵もない。保護施設のことなんか知ってるわけもない。仮に少しは知ってたって、そんなとこに、わざわざ出かけて行く人かよ。ペットショップしかあり得んでしょ、出会いとしては。そういうことも読めなくて、よくも世の中生きていけるよ、鈍感で非常識な私に言われたくもあるまいが。

「猫に独身女の自分を投影して、年上の男性にかわいがってもらう夢を見てるだけじゃないか」という解釈にも違和感あるなあ。そもそもこの猫オスじゃないか。せめて、独身男の自分を投影してるとか言うならともかく、女がオス猫になった気分で、年上男にかわいがられる空想にふけるって、できんことじゃないけど、けっこうハードル高いぞ。どう考えても、「年上の男にかわいがられる女」あるいは、「それを夢見てる女」っていう図式が強力に頭にしみついていて、何でもそれにあてはめて批判や攻撃やしてしまう症候群ででもなけりゃ、こんな解釈思いつけない。

他にもいろいろあるんだけど、ここにあげた批判に共通してる、私をイラつかせる要素はね、妙に意識が高い風ないちゃもんつけてる割に、自分は型どおりのマンネリ思考の枠にはまって、それにまったく気づいてないこと。自己満足と不勉強が合体すると、ほんとに、ろくなことにはならん。

◇ネットの普及があらゆる人の玉石混交の意見を、全部開陳するのは、ありがたい面もあるけど、こういうのは本当は、せめて自分の個人のブログなりツイッターなりでつぶやくのにとめといてほしい。いわば公式の場に出して皆の目に触れるようなレベルかどうか、自分で判断…できりゃ問題ないわけか。

私は一応、過激すぎると思ったら、自分のブログにしかこういうことは書かないが、ひょっとしたらそれがそもそも間違いで、しょうもなさすぎる批評には、しっかりその場でたたいて粉々にして吹き飛ばしてあとかたもなく消しとく方が親切というものなのかもしれない。と、ふと思ったりする。

わ、正月早々、もうこんな毒舌でけんか売ってる私は、とてもあと三年ぐらいじゃ「メタモルフォーゼの縁側」のおばあさんのようにはなれそうにない。映画「フロント・ページ」でウォルター・マッソーがジャック・レモンのことを恋人に「トラの縞は洗っても落ちない」と言うけど、そんなもんかもしれないわ。

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カツジ猫