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半快祝い。

◇朝は雨でしたが、次第に天気がよくなって来たので、えいとばかりに、博多駅の小池晃さんの演説会に行って来ました。

http://fk-shinbun.ddo.jp/wp/?p=17590

わりと人も多く、宗像市会議員の新留さんたちもいたので、いっしょになって聞きました。わかりやすい、行き届いた話で、アメリカ一辺倒の日本外交、森友問題、共謀罪など、かゆいところに手が届く説明ばかりでした。共謀罪の件で、「一般市民には関係ない、危険な過激集団だけが対象というが、どこの犯罪者が自分たちは危険な過激集団だと名乗って活動するか、一般人を監視することなかったら作っても意味ない法律だろう」「草野球のチームでも危険な集団に変化する可能性があると政府は言うからには、そういう団体がいつ変化するか知るためには、ずっと監視するに決まってるだろう」などという話は、まったく我が意を得たりって感じでしたが、もう政府のやり方や言い方は、不思議の国のアリスだか、「キャッチ22」の世界だかのようだともあらためて気づきました。もはや狂気の集団というか、共謀罪のまっさきの対象は、現内閣にしてほしいわ。

シリア爆撃でのアメリカ支持だって、プーチンにおもねってからにG7でただ一国アサド政権を批判しなかったくせに、もうとにかく、トランプでもプーチンでも、その場その場で強いものにはしっぽをぶんぶん振りまくるのね、わが首相は。いったい何本しっぽがあるんだろう。せっぱつまると切り捨てたりもするんだから、無尽蔵に生えてくるのかもしれない。

◇福岡各区の共産党候補者のスピーチも含めて、1時間近く立ちっぱなしで聞いていて、新留さんたちと別れたあと、博多駅で買い物をして歩き回ったけど、疲れたものの、何とか気分も悪くならずにすんだので、全快とは行かないまでも半快祝いに、コーヒーとケーキを楽しんで帰りました。丸善をのぞいて、重い本は疲れるからやめて、文庫本を何冊か買いました。岩波文庫の小林多喜二の解説を、今度の講演の参考に読もうと思って「蟹工船」を買ったのですが、虐殺前後のことは「党生活者」の文庫の解説にあったみたい。ちっ、つめが甘かったぜ。

もう一冊は、後期の授業の文学史で、私の講義の空白地帯を埋めるべく、少し古いけど萩原朔太郎の与謝蕪村論を買いました。電車の中で読んでしまったのですが、まだまだ他の本も読まなくてはイメージがかたまらないなあ。
私は蕪村の句は好きで、「指貫を足で脱ぐ夜やおぼろ月」なんて、ジムに行ってロッカールームで、パンツを足で踏んで脱ぐたびに心で口ずさんでしまうんですが(笑)、まさかそれだけでは講義はできない。

◇筒井康隆の少女像への発言の件、もうちょっとだけつけ加えると、ご本人が「怒ってるのは私の本を読まない人でしょう」と言うのは、まあこういう言い方だったのかどうかわからないけど、ちょっとちがうと思うなあ。読まない人だって怒っていいし、読まない人にでも、本を100冊読んだと同じぐらい、自分の言いたいことは理解させるぐらいの力で発言しないといけないと思う、たとえ片言隻句でも。

しかし、私が昨日書いたこととは別に、この件でなんか不愉快になって、わりきれない思いしてるのは、以前にも書いたんですが、私、職場の同僚が私に対して、ものすごく外見や生活やその他のことで、さしでがましく失礼なことを、それこそ息するように言ってたとき、もう何年もの間、まるで気にならなかったのよね、負け惜しみでも何でもなく。モグラが土に穴ほって、猿が毛づくろいするように、こいつはそういうやつなんだと思ってただけで、正直そんなに嫌いでもなかった。

だけど、だんだん世の中が、セクハラその他にうるさくなって、女性に対してそういうことを言うもんではないという風潮が一般的になったとたん、そいつはぴったり私に対して、その手の発言やめたのね。その時私は、自分でも驚くほど、しんそこそいつを軽蔑し、以後二度と虫けら以上の存在と思うことすらやめたのね。
いやー、理不尽と思うよ、我ながら(笑)。若干、気の毒と思うよ、相手も。でも、そうなんだから、しかたがない。

どう分析したらいいのかな。おまえ、私という人間への尊敬とか思いやりとかよりも、世間の風潮の方が大事だったんかい恐かったんかい。回りが許せばどうでも扱っていい存在くらいに私のことを思ってたんかい。私がどれだけ傷つくか不愉快かは想像できなかったそのくそ頭は、こんなこと言ったら世間や周囲からとがめられるだろう非常識と思われるだろうという想像は、あっという間にできたんかい。ふざけんじゃねえよ、臆病もんの日和見主義者(死語かもしれん)が。まあ、そんなとこでしょうか。

一方で、同じ同僚で、かなりはちゃめちゃな、でもどこか常に自分のこだわりを持ってるみたいな人がいて、そいつは世の中が「女」という呼称をひかえて、「女性」というようになってからもずっと、私と話すときでもいつでも「あのオンナが」「そのオンナが」と言いまくってました。多分気づかず言ってたんでしょう。今も言ってると思います。私はそれが大好きでした(笑)。

◇細かいことを言い出せばきりがないけど、私は筒井康隆の今回の発言には、彼なりの、それなりのニュアンスの工夫もあると思いますけど、この状況で、この情勢で、この内容は、そりゃ、このセンスを理解してくれと世間に言うのはいくら何でもハードル高すぎるし、無茶ぶりだろうと思います。手法や作戦誤ったと言われてもしかたがないと思います。だから、今いろんな人がしてる批判はまったく正しいし、しなきゃいけない。ツイッターを削除したのも含めて、いろいろみっともなさすぎだし、何と言われてもしかたがない。
彼の言ったことに対して起こった怒りや失望の声に、私は何も言うことはない。まったく文句も不満もない。

私の心が騒ぐのは、私を怒らせたかつての同僚のような種族は、この今のご時世では、多分ネトウヨであってさえも、絶対にこんなことは口にしないと思うからなのです。そうだ、ザーメンかけに行こうぜなんて言ってるネトウヨだか2ちゃんねらーだかがいますかね。今、この時点で筒井氏の尻馬に乗って。
いるかもしれないし、いたら恐いですが、だからもうバカは恐いとしかいう他ない水準で恐いですが、少なくとも私の同僚程度の人だったら、今の時代の雰囲気の中で、こんなこと口にしたらおしまいだとわかってるから、口をぬぐって黙ってるはず。もしかしたら、かっこうだけでなく本心ででも、筒井氏の発言を批判し攻撃してさえいるのかもしれない。

そういう人をどうしましょう?そういう人が、そういう風にしかものを言ったり考えたりするしかないようになった今の社会を、喜ぶべきなのでしょうか。いやもちろん喜ぶべきなのですが、そういう人は、また世の中が変わったら、平気で筒井氏以上の侮辱を、女性や弱者に浴びせるに決まっている。それがわかっていても、そういう人を見逃すしかない、女性や弱者の味方として大事にしなきゃならない世の中を、やっぱり喜ぶべきなのでしょうか。

◇またしても唐突ですが、私が俳優のラッセル・クロウを狂ったように愛しつづけたのは、彼がまだ男性の方が受け身で愛される描写など、誰も描きも演じもしなかったころに、しっかりとそういう演技をしていたからです。それは俳優として良心的で誠実であったからこそ、常識や固定観念にとらわれず、できたことだったのでしょう。

筒井康隆氏もまた、その小説の中で、女性を特別に残酷に扱うのではなく、男性も同様に虐げていました。そこに、世間の常識や固定観念に甘えたいいかげんさはありませんでした。それもまた、作家としてのまがいない良心と誠実さによるものだったと私は信じて疑いません。
それは、不十分な不完全なものであったかもしれない。橋下知事の慰安婦発言を本人もろともぶっとばしてがれきの下に埋めたほど、これだけ怒涛のように変化してきた、性や男女をめぐる観念や状況の中では、筒井氏のその感覚も、もはや古いものになっていたかもしれない。

しかし、それは、女性を今では想像できないほど無視し蔑視し曲解していた周囲や時代に流されることなく、筒井氏が自分で築いたものでした。だからこそ、周囲や時代が変わったとき、それをどのように修正し変化させるかは難しく、筒井氏が従来の感覚を固守したのは、私には理解できます。ほとんど肯定と紙一重で。紙一重は大きいですが。
筒井氏を批判する人たちのどれだけが、氏の発言を異様で許せないと非難するのが常識になった(そうであってほしいと思う)現代を築き支えるのに、戦い傷つき血を流してきた人なのか、どれだけが、私のかつての同僚のように、そんな時代と常識だからとちゃらっとすまして世の中になじみ合わせようとしている、そのことにさえ気づかないでいる人なのか、私には区別がつきません。
そのことが何よりも、私をいらだたせるのでしょう。

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カツジ猫