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見事でしょ。

◇せっかく咲きだした桜も、雨でちょっと地味ですが、でも遠く近くにピンクの花の雲が見えていいですね。
うちの庭の鉢に植えた小さな桜は、結局咲かないままに葉っぱが出てきてしまいました。せめて葉でもいいから元気に茂ってくれとのぞきこんでいると、何とナメクジがかぼそい幹にくっついているのを見つけて、かっとなって退治しました。

その夜、カツジ猫が庭からごろにゃんと帰ってきたので、ベッドでなでてやっていると、背中に毛のかたまりがあるようで、またはさみで切ってやらねばなるまいかと、さわってみたら、何とここにもナメクジが一匹くっついていました。これまた速攻で取って捨てましたが、いったいナメクジの運び屋になる猫なんて、そうそういるもんでしょうか。第一どこでどうやって、くっつけて来たのだい、カツジ。知りたいもんだよ。

◇桜のかわりに、わが家の庭のユキヤナギをお見せします。これも雨でもうちょっと散りかけたので、刈り込まなくてはと思っていますが、全盛期は見事でした。噴水が吹きあげてるか、龍がうねっているようです。いつの間にか勝手に増えて、株が二か所になっているようです。

◇風邪はおおむねよくなって来ましたが、調子に乗って外出して、買い物や郵便局での手続きやその他に動き回ると、ぐたっと疲れてまた全身から力が抜けます。しょうがないから、ベッドに倒れて、DVDの海外ドラマ「ワンス・アポン・ア・タイム」を見ています。ピーターパンの悪役ぶりが、こったえられないなあ(笑)。それに、エマのご両親の白雪姫夫妻の、まっとうなおとぎばなしの主人公ぶりが、すばらし過ぎて笑えます。友人はチャーミング王子があまり好きではないようだけど、私はあのヘタレぶりが、なかなか気に入っています。悪の女王も何かと素敵で、やるだろうということを全部して、言うだろうということを全部言うのが最高です。

本当はその前に「リゾーリ&アイルズ」を見ていたのですが、誰かに先を借りられてしまったので当分お休み。こちらも面白いのですけど、もう、お母さんやら弟君やら家族全部で警察関係になっちゃってるのが、さすがに少々暑苦しい。まあ昔だったら、「事件記者」のめんめんが(古いなあもう)、「おちかさん」の「ひさご」に入りびたってたように、家庭的な場所が必要ではあるんでしょうが。

今日の目的は映画「ラ・ラ・ランド」を見に行くことだったのですが、体調がまだいまひとつなのと、ぎりぎり来週までは上映してるようなので、先に延ばしました。明日の共産党の小池晃さんの博多駅での演説会も行きたかったけど無理かなあ。授業で学生たちに「浅黄色」を教えたいので、そういう色の春のセーターを一枚買いに行こうかとも思ってたんですが。

◇片岡寛光がほめたくってる、服部菅雄の「壺石文」という紀行、国書総目録には東北大のしかなくて、これは私はコピーを持ってるのだが、静岡県の富士文庫にもあったみたいで、翻刻して下さってる人がいて、大きなちがいがあれば指摘しとこうと比べて見ているのだが、今のところは表記のちがいぐらいしかなくて、ごそっと脱落とか異同とかはないようだ。が、まだ油断はできない。

でもさあ…開始早々の一行目で、「あはれ」というのが「あれは」になってるんだよね、この翻刻では。こんな冒頭でまちがいがあるはずはなし、原文がそうなっているんだと思うが、何だか気になり、翻刻を信用しないのじゃないが、何となくこっちの(静岡の方の)原本も見たくなる。あー、そんなことしてるヒマないのに。まるでないのに。

◇筒井康隆が、韓国の慰安婦を悼む少女像に精液をかけたらいいとかツイッターで書いて、騒ぎになってる。その記事はもう削除したそうだ。
私はもともと彼の小説は好きで、何よりも、女性を攻撃してもおとしめても同じように男性も攻撃しておとしめる、その姿勢にほとほと救われていた。男性に対してはちゃんと人間的尊厳を守って接し、女性だけにはたががはずれたように、ぶしつけにむきだしに侮辱してはばからない、それをまったく意識しないで自然にやってる、他のほとんどすべての作家に比べて、彼の存在はとても安らぎだった。「文学部唯野教授」の講義でも、プロレタリア文学について偏見も特別な身構えもない、きちんとした評価が信頼できた。この人はそういう意味で、決して人を差別しない、自分と他人という差別だけを守る人なんだと感じていた。

ただ、その「唯野教授」を読んだとき、この人は大学や学問や知識人が嫌いなのかなあとぼんやり感じた。攻撃や毒舌の中にも、いつも感じられた対象への愛が、この作品にはなかった。コンプレックスではないけれど、そういう専門的な研究の世界への整理できない屈折した感情があるようで、それ以後の作品の中にもそれは感じられた。生煮えのこだわりや執着のようなものが。
これだけの才能と名声をほしいままにする人が、今さら学問の世界や学者に愛憎などを抱くことがあるのだろうかと、自分の感覚が信じられず、ただたとえば小川洋子の「博士の愛した数式」にも感じた、学者を飼って支配したいという気味悪い欲望や、自分自身に対する周囲の人たちの「何にも知らない学者バカのかわいい永遠のお嬢さん」的なイメージの死守などとも重ねて、あーやめてくれ気味が悪いと、一人ひそかに身もだえしていた。
しょせん人間は、そういう個人的な感想から逃れることは完全にはできないのかもしれない。でも、これが錯覚とばかりは私は思っていない。

最近の彼の本を全部読んではいない。最新刊を買おうかなと思っていた矢先だった。それを読んでも今回の件に対して、正しい把握や的確なコメントができるかどうかはわからない。ただ、とっさに感じ、ひしひしとそれ以来強くなるのは、もう説明すると死ぬほど長くなるだろうし、きっといろいろ誤解されるし、誤解じゃないかもしれないのだけど、やっぱり私が好きだった作家の三島由紀夫が、ああいうかたちで自殺したときに抱いた気分と、とても似た感情だ。「それでも好き」「そうなっちゃったの私にだけはわかる」「あなたに負けな
い」「あなたのようには負けない」「私は自分の道を行く」「あなたも私のことをわかってくれる」「私たちはたがいのことを知っている」「あなたがあなたであろうとした以上に、私は私であってみせる」みたいな感情だ。
淋しくも、怒りも、失望もない。立ちつくし、見つめて、歩み去るだけだ。

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カツジ猫