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紀行全集のために(1) 山岳編解説

もうあまりにも長いことほったらかして、出版社に迷惑かけまくりの「紀行全集」の解説原稿です。

もうこのまま使うかどうかわかりませんが、とにかく、この種の原稿を片っぱしからアップします。なお、まだ表記の整理もしていないのでお見苦しいですが、すみません。いずれ訂正しますが、とにかく急ぎます。(20023.3.30.)

 

山岳編解説

 

1 旅と登山

〔予想される疑問〕

 この本を読む人の中には、山に対してそれほど関心のない人もいるだろう。その人たちは「なぜそんなにまでして危険な山に登るのだろう」と疑問を持っているだろうし、更には「なぜ江戸時代の紀行の全集にわざわざ『山岳編』を一冊設けるのだろう」と感じているかもしれない。

 後の方の疑問から答えると、江戸時代の紀行をいくつかの種類にまとめて、このような全集を編もうとすると、山岳紀行はやはりひとつの作品群としてとりあげないわけにはいかない一定数を有している。江戸時代の紀行は二千五百点ほどで、その中に書名等で山岳を題材にしていると推測できる作品は六十点余あり、これは全体に占める割合としては決して少ない方ではない。

 

〔二つの理由〕

 なぜ、そのように山岳紀行が多いのか、理由は二つ考えられる。

 一つは、そもそも旅という行為の持つ原点が、冒険、探険、未知への挑戦という要素を持っている以上、地上に未踏破の土地が次第に少なくなるにつれて、旅人の目標はさらなる辺境に向かうということ、その場合の辺境は水平に広がるだけでなく垂直にも伸びる、つまり高度における辺境として山がめざされるということだ。瓜生卓造『日本山岳文学史』(一九七九年 東京新聞出版局)は明確に、

 

 人々はしだいに未知の土地を攻略し、地球上のことごとくに足跡を印してしまった。人々は旅する心を失った。旅に誘う不安はあっても、それに照合する旅は、地球の平面上からは消えてしまった。人々は高所を求めはじめた。旅は山旅に変わった。「なぜ旅に出るのか」の設問は、「なぜ山に登るのか」に置きかえられた。幾多の犠牲が払われて、その山もしだいに平凡な対象に成り下がっていった。氷雪の極地も人類の手に落ちた。と、人々は海底に月世界に不安な誘いを感じはじめた。さらに水星や金星へ、また地球の中心部へと、人間の栄華に終末がくるまで人々は旅を続けることであろう。

 

 と記す。

 もう一つの理由は、日本は元来山の多い国であり、四方を海に囲まれてはいても、外国への渡航が許されなかった江戸時代には、限られた国土の中で旅する対象の土地として、山岳が多くならざるを得なかったという事情である。『日本山岳文学史』の、

 

 日本は四囲を海に囲まれている。日本人は海国の民と言われる。海産物が豊富で、戦前は強い海軍が売物であった。東郷元帥の日本海海戦以来、海の民が強調された。しかし、日本全土の八割は山地である。ウェストンは日本人を山国の民といった。

 日本は一都一道、二府、四十三県に区分されている。四十七の行政区分のなかで、千メートル以上の山がないのは、大阪、京都の二府と千葉、沖縄の二県にすぎない。各県はそれぞれの誇りの名山を持っている。千メートル峰のない京都府も愛宕山(九二四)、三国岳(九五八)など、八、九百メートルの峰が続き、京都北山といい、京大山岳部発祥の地となった。大阪にも生駒山(六四二)や葛城山(九六〇)がある。千葉の最高峰は、清澄山(三八八)だが、房総半島の中央部は複雑な溺谷の地形を有し、低山派の人々に親まれ、鋸山(三二九)は、谷文(ちょう)の「名山図絵」に描かれている。沖縄県は与那嶺岳(四九八)が最高峰だが、三、四百メートルの峰が二十余もあり、隣の屋久島(鹿児島県)には一九三五メートルの宮之浦岳が聳える。

こういう地形にあり、人々は昔から山と親しみ山に登った。(第一章「山岳文学の母体」第四節「日本人の山」)

 

山崎安治『日本登山史』(一九八六年 白水社)の、

 

約六十万年前の第四紀以来活動した形跡のある火山は、火山物理学編の火山分布図によると、日本には百八十八個あると報告されており、そのうち歴史時代にはいってから活動した活火山は四十数個に達する。世界の活火山の総数四百四十三個に比較すると、日本列島は世界の平均の四十倍以上の活火山の密集地帯ともいえる。(一「山の発見」 1「火の山―日本」)

 

 などの記述は、資料に基づいて、日本の山の多さ、人々との関わりの深さを指摘する。

 

〔旅の原点〕

 一番目の理由としてあげた、旅の持つ性格の原点としての山岳紀行ということについて、もう少し考えてみよう。

もとより、このような山岳紀行の本質は、日本に限ったことではない。また、これについて考えることは、登山にまつわる生命の危険だけでなく、費用の捻出など経済面でも大きな犠牲を払って登山者が「なぜそうまでして山に登るのか」という多くの人の疑問に答えることにもなる。

 山を描いた多くの作品が、この解答をさまざまな言葉で語る。登山にはまず、日常からの脱却が持つ魅力がある。高い山の場合はさらに危険との隣り合わせによる緊張が、その魅力を倍加する。山岳小説や山の紀行には、死について語る場面が多い。常に強烈に死を意識するからこそ、体験する時間と空間、味わう喜びや苦しみの密度は一段と濃密で、時には甘美なものとなる。

 

〔崇高な感動〕

 もちろん、それは、平地や海洋での旅の場合とも共通する部分を持つ。だが、特に山岳では、自然の風景の美しさと、人間社会から隔絶される感覚があいまって、精神的な法悦に似たものを感じる人が多い。

 登山の歴史について語られる時、宗教的なものから近代的なスポーツへ移行したという説明がよくなされる。大筋の流れとしてはそうだが、実際には、その区別はそれほど明確ではない。宗教や修行とは関係ない近代の登山家も、登頂の際の喜びをしばしば宗教的な感動に近いものとして表現する。

 

〔登山の大衆化〕

 登山のこのような求道的な面を重視する人は、登山が一般のスポーツと同様に見られることに抵抗を感じ、科学によってさまざまな条件が改善されることにも懐疑的である。酸素ボンベやスキーを利用した最新の登山に批判的だった登山家もいる。

井上靖の小説『氷壁』(一九六三年 新潮文庫)のヒロイン八代美那子は登山家ではないが、近年の登山小説では沢木耕太郎『凍』(二〇〇五年 新潮社)の山野井妙子、笹本稜平『還るべき場所』(二〇〇八年 文藝春秋)の栗本聖美、大倉崇裕『聖域』(二〇〇八年 東京創元社)の牧野絵里子、など、いずれも男性にまさるとも劣らない体力や技術を有するヒロインたちが登山家として活躍する。それは女性登山家たちが現実に築いた成果の反映でもある。だが、現在でもわずかに女人禁制の山が残ることからもわかるように、女性の登山もまた洋の東西を問わず当初は抵抗があった。

 現在では『還るべき場所』が描くように、さほど登山経験のない人でもヒマラヤの高峰に登れる公募登山というツアーが企画されるなど、山上の崇高な歓喜が、より多数の人に享受されるようになりつつある。これを山への冒涜、登山の俗化と一概に言うことはできまい。江戸時代にすでに富士山をはじめとした、大衆的な組織による登山と、それに対応する観光化は行われていた。

だが、その分、観光化も大衆化も進み、かつての神秘や清澄さがある程度失われて行って、やがてすべての山と辺境が地上から消えた時には、孤独と神を感じられる新しい未知の場所として、『日本山岳文学史』が予測したように、人類はまた、たとえば宇宙か地底をめざすのかもしれない。

 

〔日本の特質〕

 次に、二番目の日本という土地の特性と山岳紀行の多さについて考えてみよう。

 江戸時代の紀行の多くは、当然ながら街道をたどる旅である。その街道の多くは東海道をはじめとして、海辺や平地を選んで山間を縫う。

 だが、蝦夷地や木曽路などのように、街道そのものが山中を通過するものも少なくなく、先に紹介した『日本山岳文学史』『日本登山史』のいずれもが、近世の紀行について語る際に、蝦夷地の探険家やその一人である松浦武四郎、あるいは木曽路を旅した貝原益軒について詳しく紹介するように、これらの地域の旅とその記録は、登山及び山岳紀行として認められてきた。

次章でも述べるが、このような場合、山岳や登山の定義がいささか問題とはなろう。独立した峰を持つ山に、明らかに山頂を極めることを目的として登るなら、疑問の余地はないが、知らず知らずに一定の高度に達していたような高地や高原などの場合、登山と果たして言えるだろうか。

 

 本当の意味での登山家とは、むずかしい登攀の技術上の問題を解こうとやってみることが楽しくて、登山をし山登りをつづける人だと定義できよう。ある山に、どれほどむずかしくとも、曲芸として登る人は登山家ではない。単に向こう側へ行くために峠を越す旅行家、山の風景は楽しむが山の問題には興味を持たない逍遙者、山岳探険の主たる動機が科学の研究で山に登る科学者、これらの人は皆、本来の意味での登山家ではない。((アーノルド・ラン「登山百年史」 第二章「山に登る動機」 『世界山岳名著全集』別巻 一九七七年 白水社)

 

 このような考察をまつまでもなく、意識的にめざしたのでない、街道としてただ通過した行為を登山とは呼びにくい。

ところがやっかいなのは、たとえば木曽路の場合など、旅行家として紀行作家として当時から有名だった貝原益軒は、その著「木曽路記」の序文を見ても、明らかに「東海道とは異なる山路の面白さ」を嘆賞しようとして木曽路を通ったふしがあるし、彼の「木曽路記」や、秋里籬島「木曽路名所図会」が出た後では、大田南畝のような知識人をはじめとした多くの旅人がおそらく、一種の登山の楽しさをかねて木曽路を選んだ可能性が高い。

 したがって、少なくとも日本の紀行に関しては、山岳及び山岳紀行の定義はあまり厳密にはできない。先に書名等から推測できる江戸時代の山岳紀行を六十点余と述べたが、それに蝦夷地や木曽路の紀行の数は入っていない。この両者とも非常に多く百点以上に上るから、これを含めると山岳紀行の数はかなり増加するし、それが日本の地形による特徴だというなら、たしかにそういうことにもなろう。また、これも山と定義できる高さにも関わるが、観光の対象となりやすい社寺や城郭が比較的高台に建てられているため、山に登る紀行が多くなるのも、同様に日本ならではの事情だろう。

 

〔心情的なもの〕

 そのような土地の状態とは別に、日本人の心情として、西欧と比べて山に対する恐怖や敵意があまりなかったという指摘がしばしばなされている。『日本山岳文学史』も、同書が引用する三田博雄『山の思想史』(一九七三年 岩波新書)、吉江喬松「山岳美論」(『吉松喬松全集』第六巻所収 昭和十六年 白水社)も、このことを強調する。

 これは日本人に限った見解ではなく、先にあげたアーノルド・ランの「登山百年史」も第一章「山岳美の発見」で、

 

ギリシア人は外海を嫌い、山の景色を理解しなかった。彼らは人本主義の基準で山を評価した。山が人間にどんな値打ちがあったか? そしてホメロスは実際に、山は悪人にだけ役立つものだと答えている。「山は、羊飼いには都合の悪いものだが、盗人にとっては、夜よりも一層都合のよい霧がたちこめている」。

 

 と言い、その後、ヘブライ人、ゴート人などの山岳美の嘆賞、ジャン・ジャック・ルソーの自然への評価などを経て、次第に山の美しさが認められていったと述べる。ただし、ランはルネッサンス期について、ギリシャ文化と同様の人間的なものの礼賛により、山岳美の評価は一時停滞したととらえており、これは、桑原武夫「登山の文化史」(『桑原武夫全集』第七巻「回想の山々」所収 昭和四四年 朝日新聞社)が、西欧の山頂に悪魔がいるという迷信がルネッサンス期に打破されて近代登山の精神につながったとする見解とは異なる。なお、桑原氏「登山の文化史」や周正『氷山雪嶺二千年 中国登山史話』(『山岳名著選集』 一九八五年 ベースボール・マガジン社)によると、中国では日本と同様、太古から山は神のすみかとして愛され、始皇帝の泰山登山、重陽の節の登山の風習、李白らの詩などを通して山は親しまれる存在であったという。

 山崎安治『日本登山史』が、「一 山の発見」の「4 山の先住民族」で、

 

 また山は恐るべき力を持つ怪物としても表象され、そうした恐ろしさを持つことが、同時にそれに依存させる心を起こさせた。古代の山の神は、一面では人間の幸福を保証すると同時に、気まぐれで怒りやすく、人間の示したわずかな不注意にも腹を立て、報復するものと考えられていた。神を刺激することはなによりもまずつつしまねばならないと『万葉集』の忌み歌にも出ている。

 

 と述べ、このような畏怖が山岳信仰へつながったとしているように、日本民族にも山岳への恐れがなかったわけではない。それが西欧とどの程度異なるのか、そのような従来の感覚の上に受容した中国文化がどのように影響を与えたかは、なお検討の余地があろう。

 

2 山岳文学と風景

〔美景の描写〕

 日本も含めた世界のアルピニストたちが書いた、近現代の多くの山岳紀行、あるいは登山を題材にした小説を読んでいると、日常生活からの脱却、征服欲や冒険心とともに、山岳や、その周囲の風景の美しさが強く人々を魅了しているのがわかる。

 だが、このような風景の美しさを文章で描写するのは容易なことではない。

北杜夫のカラコルム登山を題材にした小説『白きたおやかな峰』(一九六六年 新潮社)の山の描写について三島由紀夫が厳しい評価を与えたことはよく知られている。三島は結局それを発表せず北に個人的に送り、北は三島の死後にその文章を紹介して三島に感謝と追悼を述べた(『人間とマンボウ』所収 一九七一年 中央公論社)。

三島の批評は「世界中の登山家たる者の夢の象徴である高峰が」「その背景をなす虚空のあくまで色濃い群青さによるためかも知れなかった」「なんといふ完き純白の姿、……まったく白かった。どこもかしこも白かった。……ディランはお伽の国の魅惑にみちた特別製の砂糖菓子のやうに眩く光り輝いた。裸身をむきだしにして一同をさし招く純白のあえかな美女」「この大自然の形造る魔術に幻惑されて」といった部分をあげて、「かういふ言語表現は、ほとんど何も言っていないに等しいのである」と手厳しい。

だが、数多い山の紀行を読んでいると、これと類似の描写は多く、それは千篇一律というよりも、結局はこういう単純な言い方でしか、山の美しさは言い表せないのではあるまいかという限界も感じるのだ。

 

 風景を言葉で描くことは決して容易ではない。というのは、油絵やあるいは水彩画の画家たちは、無限といってもよいくらいに色と線を自由に使えるが、言葉の画家のパレットは貧弱なために、隠喩、類比、直喩によって実際の形容詞を補足せざるを得ないからである。すべての峰は高く、たいていの谷は深く、そして雪は普通太陽の下で輝き、夜明けには赤く萌え、ある山の風景と別の山の風景とを「区別」して書こうとするには、その言葉だけが、今描こうとしている眺めに「特有」の特長を念頭に思い浮かばせることのできるような、適切な類比かあるいは隠喩を捜し出さねばならないのである。(「登山百年史」 第六章「ウィンパーとレスリー・スティーヴン」)

 

 マッターホルンを描かなくてはならないとしたら、作家は、むしろ筆をとめて、その都度、マッターホルンそのものに読者をさし向けるのが賢明である。一度その山を見た人は決して忘れないだろう。見たことのない人には、どんな言葉もその山の壮大さを伝えることができない。(ギド・レイ「マッターホルン」 『世界山岳名著全集』3)

 

「すべての峰は高く、たいていの谷は深く、そして雪は普通太陽の下で輝き、夜明けには赤く萌え」という文句には、紀行を書いた人や愛読する人の多くが身につまされて笑うだろう。「見たことのない人には、どんな言葉も」云々も、紀行が挑戦しなければならない最大の難関を示す言葉である。それはまた、沢木耕太郎『凍』の主人公が、トモ・チェセンの登攀記『孤独の山』について、「文章の上手い下手を別にして、実際そこを登ったという人の持つ息遣いがまったく感じられない」と、登攀そのものに疑いを感じるのと表裏の関係にあるだろう。

 

〔表現の工夫〕

ただし、このギド・レイ(一八六一~一九三五)著「マッターホルン」は、

 

 果てしない地平線には雲一つなかった。ぼくは大地の果てにいるような、また、果てしない海の岸辺にいるような気がした。一つだけ、ぼくたちより高い所にいるもの、それは頭上に輝き、光の滝を四方八方に降りかからせている太陽だった。それは頭上から落ちてくると、氷のプリズムで強い屈折を受けたようにふたたび下から上へ照り返しを送っている。そのぎらぎらする光を防ごうとして、瞼は自然に閉じる。あたり一面に陽炎が燃え、氷の上にいるのに、顔は灼けるようだった。(「マッターホルン」)

 

 山の風景には、登山家は格好の点景である。山は、そこに登る弱小な人間と比較された時、いよいよ強大に見える。(「マッターホルン」)

 

などと、他の紀行に比べると風景描写を意識している。それは彼の次のような体験も作用しているのかもしれない。

 

 はじめてほんとうの山につれていかれた時は、多少幻滅したことを告白する。そこには、遠くから見とれていた美しい青い連山はなかった。ただ、重苦しく憂鬱な、巨大な岩塊が積み重なっているだけだった。(中略)そのため、本のなかや絵に描かれた山の方が実物よりはるかに美しいと、心ひそかに考えたのである。(「マッターホルン」)

 

 「遠くから見とれていた美しい青い連山」が、当の山に登れば見えなくなってしまうというのは、登山という営為の持つ決定的な矛盾だろう。

 

 彼(エミール・ジャヴェル)が山頂へ達することは、学者が何かを発見する喜び、才能の士が追求してついに至上の努力によって見出す喜び、それに似た喜びを手に入れることだった。(中略)高ければ高いほどよい!(中略)中位の高さからの眺めは決して断片以上の物ではない。完全無欠のパノラマは王者のごとき山頂からこそ望まれるのである。(E・ランベール「エミール・ジャヴェル」 『世界山岳名著全集』5)

 

 といった、山頂からのパノラマのみを求める人にはそのような矛盾はないが、山の美しさを愛する人の多くにとって、

 

 ワーズワース、コールリジ、バイロン、シェリーなどの詩人を見れば、いずれもアルプスを遠望して仰ぎ見るものとしていた。(『世界山岳名著全集』3 青木枝朗「マッターホルン」解説より)

 

 と言うように、仰ぎ見る山の美しさがむしろ重要だった。

アーノルド・ランも「登山百年史」で、この事実にふれつつ、同時にまた、登山家は両者の合一した視点を獲得するという喜びについて述べているのが興味深い。

 

 わたしはふと、ラウテルブルンネン渓谷の向こう側のミュルレンに面している峰々のどれかの頂上からのパノラマよりも、ミュルレンから見るオーバーラントの巨峰の眺めの方が良いと思うことがある。しかし、山の頂稜での静かな時のちょっとした忘れられない美しさは、低い高度から見た眺望を豊富なものにしてくれる。例えば、わたしは、アイガーを見ると必ず、さながらわたしがあの気高い峰を見上げるだけでなく、今一度その頂稜から見下し、五月のグリンデルヴァルトの渓谷の若草のまばゆい緑色、一面のキンポウゲが距離のために黄金色の横糸に、桜の花が銀色の縞に変わっている、魂を奪われるような美しさを、夢中になって楽しんでいるかのように、同時に二か所から見ているような奇妙な感じにおそわれるのである。(「登山百年史」 第二章「山に登る動機」)

 

〔低い山の魅力〕

 上記のような山の美しい風景の描写をさがしていると、雪に包まれて太陽に輝く高峰の荘厳さは、単調なだけに描きにくく、その周辺の風景、あるいはそこまで高くない山や高原、丘などの方に多彩で変化のある描写が多いことに気がつく。

外国と日本とを問わず山岳紀行には、高山をめざすのではなく、はじめからこのような低い山を楽しむものも少なくない。

尾崎喜八は『山の絵本』(一九九三年 岩波文庫)で、高原について、次のように書く。

 

 高原とは何であろうか。「高原とは水平に近い面を有する山地である」と私の初歩の自然地理学の本が教える。その例はと見れば、イラン高原、アラビア高原、コロラド高原……

 私は茫然とする。そんな広大な地域にわたる水平山地。それは私の想像の遙か彼方で、冥々として天のフォーマルハウトに接している。(中略)

 地理学が厳密に定義を下していう高原。私はそれを一瞥したことも、まして其処に生きたこともない。

 しかし或る年の晩秋に私は見たのだ。あの八ヶ岳裾野の袖崎から、地平の空すれすれに黄昏てゆく野辺山ノ原の茫々たる広がりを。また或る時は霧ヶ峰の頂きから、北西に展開した信濃中央高台の夢のような広(ぼう)を。

 そして今、蓼科牧場の一本の白樺の下に立ちながら、この悠容として激するところのない山山の起伏の大観から、この天地の寂寞と折々の深遠な風の息吹きとから、この自然の原始性と無際性の感じとから、さらにこの最も霊妙な根本的諸情緒を無限に包蔵している単純さから、私はひとつの観念としての「高原」を受け取らずにはいられない。

 

映画「ウェールズの山」は、イギリスのウェールズ地方にある小さな村の人々が、親しんできた故郷の山が、地図の上で山と認められるには六メートル足りないと知らされて衝撃を受け、村中総出で土を運んで、山としては足りない分の七メートルを山頂に積み上げようとする映画だ。T・ロングスタッフは「わが山の生涯」で、

 

 わたしは、最初、この章を「イギリスの丘」としようと思った。しかし、丘(ヒル)という言葉は適当でないことにわたしは気づいた。高さの点だけで、五〇〇〇フィート以下をヒルといったり、それ以上をマウンテン(山)ということはできないと思う。わたしたちには、とかく定義を下したがる危険があるようだ。山の場合も人間の場合と同様、それをきめるのは、それぞれの個性なのである。マウンテンであるかないかは、定義できめるよりも、その山から受ける感じできめるほうが容易である。つまり、あまりかんたんには近づけないで、その周囲から聳え立ち、山容にも威厳をもっているものが、マウンテンというにふさわしいと思う。

 

 と述べる。これらの映画や文章が示しているように、厳密な地理学上の山の定義は、山岳紀行を味わう上で必ずしも必要ではない。仮に、そのような定義や印象のすべてで判断しても、なお山岳とは言い難い丘や高地を旅した紀行も、やはり山岳紀行の一部として鑑賞するのが正しいだろう。

 

〔山に住む人々〕

 シラーの戯曲「ウィルヘルム・テル」の寡黙な主人公、アニメで親しまれたヨハンナ・スピリの小説「ハイジ」の登場人物たち、さらには西条八十の作詞による古い流行歌「ピレネーの山の男」の歌詞が、

 

  ピレネエの山の男は いつも一人 雲の中で

  霧に濡れ 星を眺めて 物言わず 切るは樅の木

  ハイホー ハイホー 千年の古い苔の木

 

 と歌い、二番や三番の歌詞には、「雨降れば小屋の小鳥に髭撫でて昔を語る」「角笛は風に流れて旅馬車は今日も急ぐよ 故郷のおまえの町へ」とあるように、山上に住む人々に対しては、素朴で強靱で世俗の文明に毒されない清爽さを持つといったイメージが定着している。日常を脱却できるという山の魅力の一部には、そのような、そこに住む人々との交流がある。山岳紀行は山に住む人たちについて、しばしば多くの筆を割く。

著名な案内人について紹介する作品もあれば、貧しい山岳地方の民俗が登山客のためのさまざまな労働によって生活を支える状況に複雑な感懐を抱く作品も多い。夢枕獏の小説『神々の山嶺』(二〇〇〇年 集英社文庫)は山や登山家の姿とともに、それをとりまく地元の町の混沌とした闇も描き出している。

また、しばしば指摘されるのは、遠くから訪れる人々にとっては憧憬の対象である美しい風景も、そこで暮らす人たちにとっては単なる生活の場で日常そのものであり、特別なものとはとらえられていないという事実である。

桑原武夫は「登山の文化史」で、

 

がんらい原始人は決して危い山の頂上に登ったりはしない。自然のさ中に住んでいるのだから、さぞ自然を愛するだろうと思うかもしれないが、実は彼らはみな実利主義者である。役にもたたぬことに骨を折らないのである。

 

と明快に述べる。

また松方三郎「大白河口 ―山における年の功について― 」(『現代紀行文学全集 山岳篇(下)』 昭和四一年 修道社)は、幼い男の子二人を連れて日光や富士山に行った時、子どもたちが山や自然の美しさには無関心で、山などは目にも入らず昆虫やトンネルにしか関心がなく、絵本を読んで山に来たのか海水浴に来たのかわからない休みになった体験を記して、「はじめて山に来た彼等には、山をはかる肝心のものさしがないのだから、戦場ヶ原の壮観が目の前に現われても、素通りしてしまう」ことを発見する。そして、

 

自然を知るのには自然の中に入って行く以外に方法がないことはわかりきったことだ。しかし、自然の中にいくらとっぷりと入っていたところで、そのこと自体は必ずしも自然と自分とが、近い関係にあることにはならない。(中略)野蛮人よりは文明人の方が、より自然を味うことを知っているといって通るだろう。

 

と考える。だからと言って、そういう山の魅力にとりつかれない現地の人々をさげすむのではない。同氏にはツェルマットを描いた「山村一つ」(『世界紀行文学全集20 山岳篇Ⅰ』所収)もあって、そのような山に住む人たちと登山客との交流する場所としての山麓の村の魅力を一つの理想郷のように描き出している。

 

〔戦争と山々〕

 登山家たちの紀行を読んでいると、世界大戦中は登山活動は中止され停滞したという記述がよくある。だが、その一方で第一次大戦終了後に、若者たちに戦時の精神的訓練を行う場所として登山をとらえるという発想もまた生まれている。

 映画「サウンド・オブ・ミュージック」や「大脱走」では、山を越えることが国境を越えて自由を得ることにつながっている。高い山脈は古代から自然に国や社会の境界として存在し、戦時下では緊張を増す地域ともなった。ローマ帝国と戦ったカルタゴの将軍ハンニバルや、世界征服を志したアレキサンダー大王は、自由を得るための逃走ではなく、戦いに身を投じるためにアルプスやチベットの山々を越えた。スティーブ・ネルソンの小説『義勇兵』(一九六六年 新日本出版社)も同様で、スペインの独立戦争に加わろうとして各国から集まった人々が、さまざまな苦労を重ねてスペインに入ろうとし、夜明けまでに密かにピレネー山脈を越えようとする。あと五〇〇ヤードで山頂と告げられた時、歩けなくて仲間にかつがれて来たオランダ人も含めて、全員が最後の力をふりしぼって、よろめきながら駆け出す。

 

 おれは走っているな、こぶしを握りしめているな、よろよろ足を踏み出すごとに膝があがるな、と私はながめている感じだった。ほかの者も、同じような格好で走っているのがわかった。あのオランダ人さえ走っている。彼は、自分を支えていた同志たちを振りきり、目の玉が飛び出すほどの格好で走っていた。空はどんどん明るくなってきた。ますます明るい。薄暗い青緑がかった青、いやな青。

 案内者は、もう、小山のように積まれた石のそばで待っていた。彼は石を軽くたたきながら、そのまわりをとびはねていた。彼はにやにやしながら何か叫んだ。「エスパーニャ!」と彼は叫んでいた。「スペインだ! スペインだ!」

 われわれは、石の小山のそばで休止し、前方の斜面を谷間まで見おろした。それは、反対側のフランスの谷間とそっくりだった。しかし、ちがっていた、スペインなのだから。われわれがながめているのはスペインだ。われわれが立っているのもスペインだ。われわれはじっとスペインを見おろしている。しばらくのあいだ、耳にはいるのは、ただ、精根つきはてた男たちの、いびきに似たとぎれとぎれのあえぐような息づかいだけだった。

 

 また、戦闘では高い場所を確保した方が有利なため、山はしばしば戦いのための砦が築かれ、争奪されるべき拠点ともなった。二〇三高地やハンバーガー・ヒルなど、多くの死者を出した熾烈な戦闘は、高地を舞台に行われることが多い。江戸時代の紀行『赤坂山旅枕』(宝暦四年 京都大学蔵 写本一冊)が古戦場を観光しようと訪れる楠正成の居城、千早城が有名であるように、著名な城郭もまたしばしば高台に築かれた。

 登山家たちの技術そのものが、戦争に利用されることもあった。アリステア・マクリーンの冒険小説『ナヴァロンの要塞』の主人公マロリーはすぐれた登山家であり、その能力を活かして敵の基地に潜入しようとするのである。

 実際の戦闘ではないが、チョモランマをはじめとした世界の高峰の征服が、国家間の威信をかけた競争を生むこともあった。人間の卑俗で矮小な社会から遠く離れることが魅力の一つであった登山が、ともすればそのような生々しい人間の政治と関わる機会も時代と共に次第に増加しはじめている。

 

3 江戸時代の登山

〔先行研究から〕 

 江戸時代の登山に関しては、

 

 江戸に入ると、仏人ばかりではなく、登山者もその目的も多岐にわたっていった。軍事戦略上の登山、諸藩や幕府の山林の監督や巡察、また採薬師の人々が山奥深く入りこんだ。樵夫、狩猟、魚釣、商人の交易等々、密貿易、密猟、盗伐者、里から山に逃げこむ咎人とか、さまざまな目的で山が登られ、開かれていった。(『日本山岳文学史』)

 

 徳川時代になると、山登りは古来からの宗教的なものばかりでなく、これまで述べてきたように植物の採集、山林巡視、測量、あるいは北辺の探険など、多方面に広がりをみせはじめ、ことにそれが科学、学術方面との関係を強めてきたことはみのがせない。そしてまた、そうした登山とは別に、山登りそれ自体を楽しむ風潮が、一部の文人、医師、画家などの間にうかがわれるようになった。それはだれしもがあこがれている旅の延長から自然に生じてきたものであり、明治の中期からはじまった、いわゆる近代登山の素地が、すでにこの時代から見いだせるのは興味深いのである。しかもそれがヨーロッパ・アルプスにおける近代登山という思想とはまったく関係なく、独自に発生をしている点をよく見つめてみたい。(『日本登山史』 「近世の登山」中「文人、墨客の登山」)

 

 に概ね尽くされていよう。『日本山岳文学史』は、この時期に関する記述で、文人墨客、俳諧師、漢学者といった人々の旅にふれ、個人名としては、古川古松軒、菅江真澄、橘南谿、鈴木牧之、池大雅、谷文□、松浦武四郎をとりあげる。『日本登山史』は、戦争のための旅、山林管理、採薬の旅、蝦夷地探険、山岳宗教、講中登山といった登山のあり方、歌人・俳人、文人・墨客の旅について検討し、個人名では松浦武四郎が上がっている。

以下、これらに基づき適宜補充も行いながら、江戸時代の山岳紀行を概観する。

 

〔蝦夷地の旅〕

 二つの本が大きくとりあげている蝦夷地の登山については、先に述べたように登山としては微妙な部分もあるため、この巻に蝦夷地の紀行は収録しない。ただし、近世紀行の歴史の中で、蝦夷地の紀行は量も多く、未知の世界を読者に伝えるために、具体的で正確な描写を発達させたという点で、重要な存在であることを指摘しておきたい。

 蝦夷地に赴いた旅人の多くは、遠山景晋をはじめ幕府の命を受けて調査や探索を目的にした人々が多い。彼らの中には小石川の薬園を管理した渋江長伯など博物学の知識を有した者もいて、江戸時代前期の紀行作家の代表とも言うべき貝原益軒の影響を強く受けている。

 岡山の史家古川古松軒も、天明年間、将軍の代替わりを地方に知らせることを目的とした巡見使の一行に加わって奥羽から蝦夷地を旅した。その際に記した「東遊雑記」は、同時代の橘南谿「東遊記」と並んで、江戸時代の紀行を代表する中期の名作である。

 

〔採薬家たちの旅〕

 江戸中期、徳川吉宗が高価な朝鮮人参を輸入ではなく国内で栽培できないかと考えたことから、薬品となる動植物や鉱物を山野に採取し調査する幕吏たちが各地を旅した。その間に彼らが記した紀行が多く残っている。蝦夷紀行と同様、支配者の立場からの視点で、積極的、肯定的な姿勢で行動し観察する旅人たちの記録であり、従来の紀行の伝統だった嘆きを主調とした情緒的な作品ではない。この巻に収録した作品の中では「笠置紀行」が、これにあたる。

 このジャンルの紀行は蝦夷地のものほど多数ではないが、同様に江戸中期において、科学的で客観的な観察と描写に基づく紀行を完成させるという大きな役割を果たした。

 

〔橘南谿の山岳観〕

 古松軒と南谿は、ともに貝原益軒が江戸時代前期に確立した、客観的で正確な情報伝達を旨とする、平明な俗文で記す紀行を、江戸時代中期において継承発展させた点で大きな功績をあげた。ただし両者の差異は、古松軒があくまでも事実を正確に伝えることを創作の基本としたのに対し、南谿は読者に理解しやすい誇張や省略を行うことをためらわなかった点にある。

 先の二書も紹介する、「東遊記」中の「名山論」は、そのような南谿の豊富な知識と均衡のとれた判断、明快で達意の表現をよく伝える。

 

 余、幼(いとけなき)より山水を好み、他邦の人に逢へば必(かならず)名山大川を問ふに、皆、各、其国  の山川を自賛して天下第一といふ、甚だ信じ難し。既に天下をめぐりて、公心を以て是を論ずるに、山の高きもの富士を第一とす、又余論なし。其次は加賀の白山なるべし。其次は越中の立山、其次、日向の霧島山、肥前の雲仙嶽、信濃の駒が嶽、出羽の鳥海山、月山、奥州の岩城山、岩鷲山也。是に次で豊前の彦山、肥後の阿蘇山、同国久住山、豊後の姥が嶽、薩摩の海門嶽、伊予の高峯、美濃の恵那嶽、御嶽、近江の伊吹山、越後の妙高山、信濃の戸隠山、甲斐の地蔵嶽、常陸の筑波山、奥州の幸田山、御駒が嶽等也。

 其余は碌々論ずるに不足(たらず)。伯耆の大山、上野の妙義山は余いまだ是をみず、其高低を知らず。出羽の羽黒山のごとき、其名甚(はなはだ)高けれども、其山は甚(はなはだ)低し。都の鞍馬山程にも及びがたし。湯殿山も叡山よりは低かるべくみゆ。是は仏神垂跡の地ゆゑに、参詣の者多きによりて、其名高き也。

 山の姿峨々として、嶮岨画のごとくなるは、越中立山の剱峯に勝れるものなし。立山は登る事十八里、彼国の人は「富士よりも高し」と云う。然れども越中に入りて初めて立山を望むに、甚(はなはだ)高きを覚えず。数月見て漸々に高きを知る。是は連峯参差たるゆゑ也。最(もつとも)高く聳え、たがいに相争ふ程なる峯、五つあり。剱峯も其一也。其外にも峯々甚だ多く連り、波濤のごとく連り、皆立山なり。此ゆえに、たとへば都の北山を望むがごとし。遠くより見るに、何れを鞍馬山とも称しがたきがごとし。是をみても、人の能なる者は反て其名を失ふを慎むべし。白山は只一峯にて、根張(ねばり)も大に、殊に雪四時ありて、白玉を削れるがごとく、見るより目覚る心地す。又、山の姿のよきは鳥海山、月山、岩城山、彦山、海門嶽なり。皆、甚(はなはだ)富士に似て一峯秀(ひいで)出(で)、画がけるがごとし。又景色無双なるは薩摩の桜嶋山也。蒼海の真中に只壱ツ離れて独立し、最(もつとも)嶮峻なるに、日光映ずれば山の色紫に見え、絶頂より白雲を蒸(むす)がごとく、煙り常に立登る、たとへば青畳の上に香炉を置たるがごとし。大抵、海内の名山、是等に留るべし。其山内の奇絶は又別に書あり。今、此所には仰望む所を論ずるのみ。(橘南谿「東遊記」後編巻五 「名山論」)

 

 これに先立つ寛保三年に菊岡□涼は「諸国里人談」巻三の五「山野部」で、日本の山の代表として、

 

○富士(駿河) ○浅間(信濃) ○阿蘇(肥後) ○妙義(上野) ○焼山(陸奥) ○立山(越中) ○雲仙(肥前) ○彦山(豊前) ○白峰(讃岐)

 

をあげ、谷文□「名山図譜」(文化元)に、絵図とともに登場する山々は記載順に、

 

 金峰山(大和) 富士山(駿河) 妙儀山(上毛) 浅間山(信濃) 磐梯山(陸奥) 吾田多良山(陸奥) 巌□山(陸奥) 鳥海山(出羽) 金剛山(河内) 高野山(紀伊) 比叡山(近江) 白山(加賀) 秋葉山(遠江) 駒嶽(信濃) 御嶽(信濃) 七時雨山(陸奥) 愛宕山(山城) 胆吹山(近江) 大山(相模) 那須山(下野) 天城山(伊豆) 彦山(豊前) 笠置山(山城) 葛城山(河内) □山(安房) 加納山(上総) 中嶽石門(上野) 碓井峠(上野) 天岳(伊賀) 箱根嶺(相模) 日光山(下野) 無終山(紀伊) 大刈田山(陸奥) 半田山(陸奥) 三上山(近江) 那智山(紀伊) 象頭山(讃岐) 書写山(播磨) 春日山(大和) 摩耶山(摂津) 足高山(駿河) 多度山(伊勢) 鳳来寺山(三河) 足柄山(相模) 二上山(大和) 八岳(甲斐) 先山(淡路) 南昌山(陸奥) 臥釜山(陸奥) 御駒岳(陸奥) 早池峯(陸奥) 

内浦岳(蝦夷) 臼岳(蝦夷) 恵山(蝦夷) □□渉(蝦夷) 志利辺津山(蝦夷) 赤城山(上野) 恵奈山(美濃) 金華山(陸奥) 百丈岳(伊勢) 六甲山(摂津) 立山(越中) 仏通寺山(安芸) 雲仙岳(肥前) 巌木山(陸奥) 霧島山(日向) 雲鳥嶺(紀伊) 筑波山(常陸) 武光山(武蔵) 清水山(丹波) 阿蘇山(肥後) 吉備中山(備中) 高峯(伊勢)朝熊山(伊勢) 比良山(近江) 屋島山(讃岐) 高原山(下野) 塩原山(下野) 吉野山(大和) 小野岳(陸奥) 米山(越後) 御嶽(薩摩) 雄鹿山(出羽) 大山(伯耆) 磐手山(奥州) 玉東山一名姫岳(奥州)

 

 である。当時の山岳観の一端を知ることができよう。

 

〔遊覧記の精神〕

 蝦夷地に赴いた渋江長伯には「官遊紀勝」という連作の長編紀行の名作がある。採薬のために甲府地方を廻ったもので、「峡中行」「酒折湯嶋記」「岩堂記」「大泉記」「遊御嶽記」「遊韮崎記」の六編八冊から成り、「甲府紀行」の別名を有する。挿画を多用し、後半になるほど記述は詳しく、御嶽登山を含み、高度の高い土地を歩いているが、登山の厳しさというよりは、名所遊覧の楽しさが伝わる作品となっている。詳しくは私の論文「渋江長伯『官遊紀勝』について ―紀行と遊覧記の合体― 」(「福岡教育大学紀要」第三十三号)をごらんいただきたい。同様の雰囲気を持ち、更に低い山を歩く、のどかな山旅の紀行も江戸時代には多い。この巻に収録した「山つと」もその一つである。

 

〔近世紀行文学史の中で〕

 全体として、江戸時代の山岳紀行は、蝦夷地紀行や採薬紀行による客観的な描写、行動的な旅人像の表出など、近世紀行全体にとって重要な要素の影響を同じように受け、登山における宗教性の希薄化や日常的な生活描写の増加などとともに、近世紀行の大きな流れの中にあると見てよい。これらについては、各編の解説でまたあらためて述べたい。

 なお、『日本登山史』が述べた、山林の管理のための旅は、これといった紀行作品を残していないようである。農村の水利を管理した役人たちのすぐれた紀行がいくつかあるのに比べると、これは不思議で残念だ。山林管理を行う人々のすぐれた紀行か、それが残らなかった理由か、どちらかを発見するのが私の今後の課題である。

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