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紀行全集のために(2) 村々編解説

もうあまりにも長いことほったらかして、出版社に迷惑かけまくりの「紀行全集」の解説原稿です。

もうこのまま使うかどうかわかりませんが、とにかく、この種の原稿を片っぱしからアップします。なお、まだ表記の整理もしていないのでお見苦しいですが、すみません。いずれ訂正しますが、とにかく急ぎます。(20023.3.30.)

 

村々編・解説

 

1 村を出て行く

 小野不由美の長編小説『屍鬼』(一九九八 新潮社)は、山間の小村を舞台に起こる奇怪な事件の連続を題材に、疎外され追われつづける異分子の哀しみを主題にしている。だが、作者自身もどこまで意識して描いたのかわからない、この小説のもう一つの主題は、生まれ育った小さな狭い村を嫌悪し、村の外から訪れるものにあこがれ、いつか自分も村から出て行きたいと夢見ながら、それをかなえることができない若者たちの悲劇である。

 

 くだらない、くだらない、くだらない。

 野暮ったい住人、野暮ったい村。それを少しも恥ずかしいと思っていない。それどころか、それでいいと思っているのだ。

 

 けれども恵は、その村に囚われているのだ。出たくても出られない。このままこの村で就職して、村の誰かと結婚して、村の一部になるのだろうか。-それだけは御免だった。

 大学に行きたい、都会で就職したい。けれども家族も、近所の連中も、女の子は家にいるのが一番だと口を揃えて説教する。

 

 彼らの村は最悪のかたちで内部から崩壊する。それ以前に彼らも滅んでいる。だが、村がそのような不運に遭遇することなく、それまでと同じかたちで存在しつづけていたとしても、彼らにとってそれは決して幸福でも安定でもなかったはずだった。この小説が描くのは、「幸福な場所が破壊された」単純な悲劇ではなく、かといって、むろん、「幸福でない場所が破壊された」痛快な活劇でもあり得ない。

 不満を抱き、逃走したいと思いつつ、とらわれていた場所が外部からの暴力によって無惨に破壊され、そのことに自分でも予想外の苦痛や恐怖を感じながら、しかもなお、そうやって破壊され失われた場所を素直に悼むことはできない。この小説では彼らの悩みは中心ではなく、主題としては脇役だが、あるいは作者の体験や実感も反映するのかもしれない、この複雑な絶望の構造が「屍鬼」という作品をひどく苦いものにしている。

 

2 失われた故郷

 戦争反対を訴える絵画や文学の中には、しばしば、爆撃や戦闘によって破壊され消滅してしまった村が描かれる。当然ながら、それらの村は例外なく美しくて平和で幸福で、人々はつつましく楽しく暮らしていたことになっている。もちろんそれは事実だろう。だが、そのような村の生粋の一員でありながら、村を嫌悪し、むしろ村を破壊した敵の世界も含めた別の文化圏から来る訪問者を待ち望み、あこがれていた人もいたとしたら、村という名の共同体にひとくくりにされることを拒否したいと願いながら、その共同体の一員であることだけを理由に村とともに滅びたその人たちの悲劇は更に救われないものになる。

 外部からの破壊者が訪れない時、彼らは村を出て行くか、不本意ながらとどまるかの選択を迫られる。そんな両者の間にくりひろげられる心の葛藤は、上田秋成「雨月物語」中の「浅茅が宿」の、故郷で夫を待ち続けた妻から、歌謡曲「木綿のハンカチーフ」の、都会に出た恋人を信じる少女まで、数多くの物語や歌の題材となった。それらの多くの場合では村を出るのは男である。しかし、中島みゆき「ファイト!」の、多分女性を想定して書かれている歌詞は、現実には昔から多く存在しても描かれ歌われることは男性に比べて少なかった女性たちにも、村を捨てたい願望や挫折があることを示している。

 

薄情もんが田舎の町にあと足で砂ばかけるって言われてさ
出てくならおまえの身内も住めんようにしちゃるって言われてさ
うっかり燃やしたことにしてやっぱり燃やせんかったこの切符
あんたに送るけん持っとってよ 滲んだ文字 東京ゆき

 

また、「大分文学」12号(二〇〇八年一月)の下村幸生「冬の桜」では、親の介護などのために田舎にとどまらざるを得なかった四十二才の昇が、老いた両親の死を契機に自宅を燃やして歌手になるため都会に出ていく姿を、同級生の友人である亮の目を通して描く。両親の事故死は実は自殺で、自分はそれを知っていて見逃したのではないかと悩む昇を、亮は力づけようとする。

 

親友だ、昇は俺のかけがえのない親友だ。二年の間引きずって来た罪の意識に震えおののく昇を更に強く抱きしめた。

殺されてたまるか。こいつはいつか喋る。喋ったら最後、冥土の土産話にされてしまう。死ぬまで人差し指つきつけて情け深い村人の餌食にされてしまう。

「出て行け。左官仕事は五十歳が限界だ。ボロボロの体になる前にこの村を出て行け。今ならまだ他の道が拓けるかもしれん。百姓なんかでこんなとこ、生きてゆけやせん。あと十年もたてばこの村には誰もいやしないさ」

亮はいつしか己に言い続けていた。

「嫁さんもいないし、昇はいま最高の切符を手にしているんだ。今なら、お前なら充分やり直しが出来るさ」

その切符は両親の死によるものだとは亮はあえて言わなかったが、昇にはわかっていることだ。

「亮、お前は・・」

「俺の親は生きてる」

「フフ、そうだな」

二つの事実は二人のこれからを惑うことなく決定付けた。手にとってわかるぐらい身近なすぐ目の前に横たわる運命というものに導かれるように。

 

荒削りな文体が描き出す農村の生々しい現実は、現代では中年になっても、このような選択があり得ることをおのずと浮かび上がらせる。

ロバート・ジェームス・ウォラー『マディソン郡の橋』(文春文庫)のアメリカの田舎に住む中年の主婦も、取材旅行中のカメラマンと運命的な四日間の恋をし、結局、村と家庭にとどまるが、その選択にいたるまでの過程は丁寧に細かく描かれる。女性や一定の年齢を過ぎた者なら村にとどまるのが当然だった時代は、洋の東西を問わず文学の中で終わりかけていると言えよう。

 

3 予言者の故郷

 このような人たちに比べると、「赤毛のアン」シリーズで知られるモンゴメリの作品の登場人物の多くは、男性も女性も自らの住む小さな村に親しみと信頼しか感じていない。特にシリーズ中のアンを主人公としない短編では、「都会に出て行っても出身地である田舎とそこに住む人々に象徴される自分の原点を決して忘れない」という姿勢が、かなり意識的に強調されている。

夢見るような小説を書き、「アヴォンリーは世界じゅうでいちばん好きな場所だけど、物語の舞台にするほどロマンチックじゃないんですもの」と言う少女時代のアンに、隣人の男性は「アヴォンリーにだってロマンスはたくさんあったし-悲劇もたくさんあったことだろうよ」と反論する。そこには、「ミス・マープルが一貫してこだわり、推理の法則としているのは、(略)大都会であろうと片田舎の村であろうと、人間のやることに大きな違いはないという物の見方だ」(ハヤカワ文庫 アガサ・クリスティー『牧師館の殺人』 吉野仁氏解説)のように、小さな村の暮らしを観察し応用することで、どんな国際的な大事件でも解決できる名探偵ミス・マーブルと共通する発想がある。

だがモンゴメリの場合、先の小野不由美の場合と異なり、あまりにもその問題点と解決が明確に示される分、かえって彼女はそのような発想を現実に悩み迷ったあげくに選択したかにも見える。「赤毛のアン」と並ぶ、作家志望の少女エミリーを主役にしたシリーズ中の『エミリーはのぼる』(新潮文庫)では、エミリーの才能を認めて大都会に出て実力を試すように勧める現地出身の著名な女流作家が登場する。その勧めにしたがって村を離れるべきかどうか深く悩んだエミリーから「(小説の)材料と言いますけれど、人の生活はここもよそも同じで-みんな同じように苦しみ、楽しみ、罪を犯し、絶望する、それはニューヨークだってここだって同じだと思います」と申し出を断られた彼女は言う。

 

「エミリー、あなたは文学的自殺をしているのよ。あなたはそれをある真夜中の三時に気がつくでしょうよ(略)毎晩三時が来るのよ、おぼえてらっしゃい」

 

「わたしはあしたまっすぐニューヨークへ帰ります。(略)わたしがゲームが下手で結婚のふだをひきそこなったとしか考えない人ばかり住んでいる土地にいるのは大きらいです」

 

 この作家に限らず、生まれ育った村と訣別して「中央」に出て力を試し、そして成功した有名人にとって、故郷とどう再会し融和するかはイエス・キリストの昔からひとつの課題だった。筒井康隆が悪夢のような短編小説のいくつかで描いたように、偉大な人物が故郷では歓迎されず、拒絶して背後に残した村は、永遠に彼らとはとけ合えない時もある。封印した過去と向き合うことは、どんなにささやかな成功と安定であれ現在持っているすべての破滅につながる危険も持っている。

 

4 村へ抱く夢

 村に生まれ育ったのではなく、外部から村を訪れる人にとっての村の魅力と恐怖も、有名無名さまざまの数知れない作品によって描かれてきた。それは時には中国の「桃花源記」に代表されるように素朴な人たちの住む理想郷であり、時には映画「ブッシュマン」や西鶴の「傘の御託宣」(「西鶴諸国咄」所収)、落語に登場する愚か者の村などまったく異なる価値観を持つ人たちの滑稽で奇妙な愛すべき世界であり、更には童話「ウォーターシップダウンのうさぎたち」(リチャード・アダムス 評論社文庫)に登場するストローベリーといううさぎたちの村のように一見したところ楽園に見えても恐るべき秘密を隠して維持されている共同体だった。

 これらの文学作品の中で、村はしばしばユートピアとして描かれる。その理由は多くの場合、自然の豊かさと、単純で基本的な自給自足の生活様式である。最先端の文明と文化を満喫するのに疲れると、人はそのような自然に近い生き方を求める。岩波書店『ユートピア旅行記叢書』全十五巻に収められた諸作品を見ても、昔は太陽や月に旅して理想郷を発見するといった内容のものが多いが、時代が下るにしたがって、アメリカ大陸や南太平洋など、当時の辺境に生活する先住民たちの生活がそれにとってかわる。

だが、苛酷な自然や、変化のない毎日がそこに生きる人々を美しくするとは限らない。映画や小説はしばしば、村や村人たちの醜さをあばき、そこで生きることがきれいごとではすまないことを伝える。黒澤明の映画「七人の侍」では、愚鈍で狡猾な村人に怒りを抱く侍たちに向かって、村人たちと同じ農民出身の侍が叫ぶ。

 

「おい、お前達…一体百姓を何だと思ってたんだ…え?…仏様だとでも思ってたのかっ…笑わしちゃいけねえや…百姓位悪ずれした生物はねえんだぜ」

 

「よく聞きな…百姓ってのはな…けちんぼで、ずるくて、泣虫で、意地悪で、間抜けで、人殺しだア!!」

 

「でもな…そんなけち臭いけだものつくったのは誰だ?…お前達だぜ!…侍だってんだよッ!」

 

「ヘッ!…戦の度に…村ア焼く…田畑踏ン潰す…喰物ア取上げる…人夫にこき使う…女アあさる…手向やア殺す…おい…どうすりゃいいんだ…百姓はどうすりゃいいんだよう」

 

こう叫ぶ彼は、農民の出自を隠して侍になろうとしている、いわば「村を出て行く」若者たちの一人であり、彼はここで、侍と村人双方への怒りを融合させ爆発させる。

とは言え、この映画の描く農民の姿については、映画評論家佐藤忠男が映画全体の魅力と「いま読みかえしてみて、私はこの文章がいささか感情に支配されすぎたものであることを認める」ことを確認した上で、『黒澤明の世界』(朝日文庫)の中で紹介した、自身の「黒澤明論」で次のように述べており、同様の批判は他にもあった。

 

しかしあの百姓たちはいったい何だ!あの卑屈さ、貧相さ、へっぴり腰、臆病、無智、へつらい顔、だらしなさ、等々々。私はくそっ!と思ってスクリーンと私の心の間に無意識のうちに一種のフィルターをかけてしまう。

 

リアリズムに徹しようとすればするほど、百姓たちを卑屈で狡猾で臆病で、おしなべて個性なんてありはしないものとして描かざるを得なかったのかも知れない。「正直で素朴な百姓」とか、「純朴な農民」などといういい気な伝説に反対し、真実を描こうと思ったのであろう。(略)が、しかし、それならばなぜ侍たちだけを偏愛するのだ。

 

佐藤氏が他の部分で、「百姓の中にも、結構、強力無双な若者とか、にやにや笑いをうかべた智恵者とか、巧みな組織者などもいたに違いない」と述べたような、より多彩な農民の群像を描きつつ、「七人の侍」の映画が表現した農民の醜さや愚かさも詳しく描いている小説には、たとえば社会主義革命後のソビエト連邦の農村を描く長編小説、ショーロホフ「開かれた処女地」がある。主人公ダヴィドフは、モスクワから村を改革するために派遣された共産党員で、社会主義や共産党の理想に基づいて農民や農村を理解している都会の工場労働者である。村は彼の努力によって変化し新しくなっていくものの、反革命の将校らと内通しつつも一方でダヴィドフの改革に魅せられて協力してしまう村人ヤーコフ・ルキッチや、絶望的なまでに愚鈍なシチュカーリ爺さんなどの熱のこもった長い描写でもわかるように、この作品は決して単純に民衆への信頼だけを謳ってはいない。

作者自身が共産党町会議員だった体験に基づいて、「ノリソダ騒動記」など東海地方の漁村を舞台にした一連の作品を書いた杉浦民平も、「田園組曲」(『杉浦明平著作選 下』 講談社文庫)で、隣接した土地を浸食する「境荒し」の手法について、自身の体験や農民の話を次のように紹介する。

 

するといつのまにか、かなり大きな境石が鬼公さの牛に掘りおこされて、道にころがり出ているのを見たと思ったら、翌年から一(うな)ずつ鬼公さの畑がひろがってくる。石のかわりにちょうど境界とおぼしきあたりに肥甕がいけられる。そこで進出はとまるのかと思っていたら、次の年は甕の横に一(うな)分が鋤きおこされた。そういう侵攻をおもんぱかって、わたしが畑境に植えておいたラッキョウなどみんな掘り捨てられてしまう。四、五年たつと、二メートルもこちらに入ってきた。と、肥甕がこちらに移される。

 

「畑も高い低いがあるもんだが、高い畑が進出しようとおもえば、土どめにまずチンチン玉(リュウノヒゲ)を植えておいて、そのチンチン玉に土をかぶせる。とチンチン玉は土の中から葉を出してきて、前へ出ていく、一年に五分か一寸せいぜいだが、毎年丹念にすこしずつ土をかぶせていけば、十年にゃ五寸なり一尺なり下の畑を侵すことができる。反対に低い土地が上の畑を侵略したいと考えたら(略)」

 

村は美しい自然と素朴な人々に満ちあふれた、のどかで幸せな場所という都会人の夢を、これらの小説は強烈に否定する。丸山健二『田舎暮らしに殺されない法』(二〇〇八 朝日新聞出版)が哲学的な考察も根底におきつつ、田舎暮らしの危険や不快を克明に記しているのを見てもわかるように、「田園組曲」の文章は決して誇張でもなく過去のことでもない。

丸山氏は、マスメディアなどが描き出す素朴で優雅な田舎暮らしという幻想に踊らされないようにとくり返し警告する。しかし、プロヴァンスブームを引き起こしたとされるピーター・メイル「南仏プロヴァンスの12か月」(一九八九 河出書房新社)「南仏プロヴァンスの木陰から」(一九九三 同上)には、のどかな村にある不便や矛盾ははっきりと描かれていて、モンゴメリの「アン」シリーズ同様、村で暮らす楽しさとともに、そこに住む人々の醜さも決して隠していない。軽やかで楽しげな筆致が、観察の鋭さや描写の厳しさを読者に簡単に気づかせないだけだ。これらを読んで南仏の田舎暮らしにあこがれる人がいるということがにわかには信じがたいほど、時にその描写は痛烈で辛辣である。

 

5 都会と村の間で

 「開かれた処女地」や杉浦明平の著作では、このような農民の昔から続く利己的な態度は改革されるべきものとして描かれていた。やや古くは白樺派の作家武者小路実篤らによって大正七年に作られた「新しい村」の試みも、戦後では茨木のり子の詩「六月」(昭和三三年発表)の第一連も、そういった昔からの村とは異なる、新しい感覚の農村をめざしていただろう。

 

どこかに美しい村はないか

 一日の仕事の終りには一杯の黒麦酒

 鍬を立てかけ 籠を置き

 男も女も大きなジョッキをかたむける(「六月」より)

 

 だが、旧来の村のあり方はそう簡単に払拭できるものではなく、近年ではむしろ、そのような村の状況を理解しながら、都会や日本全体のこれからの方向を探ろうとする傾向も生まれてきている。

一九七八年に出版された守田志郎『日本の村』(朝日選書)の序文で鶴見俊輔は、日本の村に深い関心を持った戦後の知識人として、雑誌『サークル村』の活動を行った谷川雁、田中正造の研究に没頭した林竹二、小説「気違ひ部落周遊紀行」を書いたきだ・みのるの三人をあげ、これらの人々が日本の村に対して持つ関心と、守田の『日本の村』には共通する姿勢があって、それは「国家主義と軍国主義のためにかつて利用された農本主義的な見方」や「日本の農村の思想構造を、ヨーロッパの近代のモデルにくらべておくれたものとしてきめつけた上で考えをすすめていく流儀」とはちがうと指摘する。

 『日本の村』は、ある聡明で温厚な農民が、さきにあげた「田園組曲」の農民たちのような荒っぽさとは比較にもならない、精緻ともいうべき手回しのよさで、自分の田畑を増やしていく過程を細かく描いて、農村の持つ諸問題を明らかにする。この農民のやり方にある程度の悪知恵や不合理があるとしても、それは徹底的に相手をほろぼす都会のやり方とはちがうと著者は考える。おそらく、そのような曖昧模糊とした村の論理が、堪えられない人にとっては村に住む上でどれだけ苦痛かということも著者はわかっているだろう。

 

都市人間ができていく過程は、一人の人間が具体的な動機をもって村を出るといった個別的な姿をとってはいるが、根底的には、おおむねその人つまり都市人間となるべきものを余計ものとしてはみださせていく作用が、部落(今でいう集落のこと。板坂註)のなかで不断にはたらいていることの結果だ。

 

だからこそ、「自分をはみださせた部落に恨みの一言ぐらいあってもよさそうなもの」なのに、懐かしさしか口にしない都市人間にはうそがあり、「恨まれるべき共同体なる部落にしても幸せなこととはかぎらないのではないか」「どちらにとっても不健康なはなし」ではないかと著者は言う。

 

 ふるさとを捨ててきたという心情、栄達をもとめての上京という意識、「故郷に錦をかざる」ということばの情緒、それらはおおむね都市を部落の上位に置き、都市の人間を部落の農家の人間よりも上等な地位に置かせる理念の、心情的な基礎となっているように私には思える。そのことが不可避的につくりだしている都市の思いあがりの不幸に思いをいたすとき、捨ててきたのではなくはみだしてきたのだという事実関係を、恨みをもってにせよ、確かめておくことになにがしかの意味を認めたくなる。つまりみずからの、はみださせた主体なる共同体としての部落にたいする位置づけを認識するということなのである。そしてそこにはみだしの論理をみることができるならば、都市人間としてのみずからの所在を確かめうることにもなろう。

 そこに得られるであろうはみだしの必然性の理解は、みずからの蟠踞する日本という社会の性質を知るのにも、またさらに、その日本という社会の中での都市を位置づけるのにも、このうえなく役にたとうと思うのである。

 

 これに少しだけ先立つ一九七四年に出版された山下惣一『日本の“村”再考』(現代教養文庫)は、日本政府の農業政策に振り回される農村の実態を、村の農協の役員でもあった著者の体験に基づいて詳細に描く。この中にも「そのズル賢さのなんとみみっちいことか。なんといじましいことか」と著者が感じないではいられないような、農民の行動は出てくる。また著者は、

 

 村が私はたまらなくいやであった。子供のころから、祖父や祖母、父や母の日々を通じて農民の一生というものを見て育った私は、自分がそうやって一生を終えることがたまらないことのように思われてならなかった。

 

 という心境で、二十歳の春に家出して都会の友人の下宿に転がり込むが、そこで見た大学生たちの生活に幻滅し、「二度と都市に対してなんの幻想も憧憬も抱かなくなった。自分の住む村を自分たちの力で住みやすい村に変えていく以外にない、と考えたからである」という過去を持つ。

しかし、守田氏の『日本の村』が「都市を部落の上位に置き、都市の人間を部落の農家の人間よりも上等な地位に置かせる理念」と指摘したのと同様に、自分たちのそうやって村を変えていく方向が「つねに都市的なものを下敷きとして考えられていた」のが大きな誤りを生んだと著者は考える。

 そして、農業政策にふり回されて、ミカンやキャベツを村の皆で作っては失敗してきたというのも、実は農村が内在させてきた「弱者の思想」によるのではないかと言う。前近代的で古くさいとされがちな昔からの村のあり方を、政府が推進しようとしている、競争や抜け駆けを肯定し、弱肉強食ですぐれたものが勝ち残るという強者の論理に対峙する弱者の論理としてとらえ、それを生かした方向に未来を見ようとするのである。

 

 富農も貧農も、賢も愚も、それぞれ能力に応じてふさわしい役割を分担し、平等に生きていこうとするのが村の理念だったように私は思う。そこでは、競走と相互扶助が、競争と連帯が、離反することなくみごとに併存し同居していた、と思う。

 

6 村の栄華

 同じ山下惣一の「ひこばえの歌」「身上不二の研究」をもとに高橋正圀が書いた戯曲「遺産らぷそでぃ」(一九九〇年)「菜の花らぷそでぃ」(二〇〇〇年)は、ともに佐賀県の田舎のある農家を舞台に、農村の現状を描く。作者が前者については八年間の公演で四、五回の手直しを入れ、後者にも同様の状況があると『高橋正圀戯曲集』(二〇〇二年 影書房)のあとがきで述べるほどに状況は変化しつづけているが、そういった時代の変遷の中でも、

 

 おれもおんじの話やマスコミの農業叩きにあって、百姓のつくづくアホらしうなったとです、自由化されたって、どうせ困るのは都会人だけんやめてしまおうかと考えたとです、ばってん、百姓が土地ば売ればいろんなもんが来ることに気付いたとです、地上げ屋、ゴルフ場、リゾート開発、原発も来れば、産業廃棄物もやって来る、つまり退けば押し込まれるとです、百姓が土地ば売るか売らないかは、地域全体、国全体の環境ば左右することに気がついたとです、やっぱり売ってはいけん…(「遺産らぷそでぃ」)

 

 ばってん、百姓仕事の楽しさば教わったとも親父からでしたい、努力すればするほど良かもんの獲れる、そいが楽しかけんなお力ば入れる、なお良うなる、こがん楽しかこつはなかばい、そいが口癖でしたとたい、苗代の時期の待ちきれんで、あいは雨の降って外に出られん日だったばい、ここに鼠色の毛布ば広げてモミ蒔きの練習ば始めたとよ、(「菜の花らぷそでぃ」)

 

 などという言葉は、おそらく当分変化することはあるまい。

 どちらの戯曲にも、前にあげたような、ずるがしこい農民は登場しない。都会に出て行った者や帰って来る者に対する「村を出て行けなかった者」の気持ちも真正面から語られ、それが隠れた主題となっていることは最初にあげた「屍鬼」と同じである。だが妖怪や悪霊は登場せず、都会や外国からやってくる者もまじえて、彼らは皆しごく普通の人たちであり、それぞれの課題と価値観が交錯する中に、日本や世界の抱えている問題が身近で等身大のものとして描かれる。

 そして、「菜の花らぷそでぃ」の最後で農家の主人が妻に、

 

 …春が来て、草木が芽吹いて、菜の花やレンゲの咲いた野良には、蝶々や蜜蜂の飛び交って、赤か帯なんかしめた娘たちが出て、そいだけでおいはドキドキしたもんたい…夏が来れば田圃は一面の緑たい、トンボが飛び、イナゴが跳ね、蛍が舞う…秋は村中が黄金色、祭りの太鼓が響き渡って、そして冬にはみかん山の色づく…昔は農村ば食糧の生産ばっかりじゃのうて、ほんなこつ多面的な働きばしとったとたい、おいはもう一度そがん、みんなの財産になるごたる農業ばしたかと思うたとよ…老いてなお、農の明日に見果てぬ夢ば見る、とでも言うか…

 

 と語る労働の喜びは、石牟礼通子が『苦海浄土』(一九七二 講談社文庫)で、

 

 どのようにこまんか島でも、島の根つけに岩の中から清水の湧く割れ目の必ずある。そのような真水と、海のつよい潮のまじる所の岩に、うつくしかあをさの、春にさきがけて付く。磯の香りのなかでも、春の色濃くなったあをさが、岩の上で、潮の干いたあとの陽にあぶられる匂いは、ほんになつかしか。

 そんな日なたくさいあをさを、ぱりぱり剥いで、あをさの下についとる牡蠣を剥いで帰って、そのようなだしで、うすい醤油の、熱いおつゆば吸うてごらんよ。都の衆たちにゃとてもわからん栄華ばい。あをさの汁をふうふういうて、舌をやくごとすすらんことには春はこん。

 

 と水俣病に苦しむ漁婦のことばを借りてうたいあげる心境とも共通するだろう。この作品の他の部分で、同じように妻と自分の舟の上で採った魚を食べる楽しさを憑かれたようにうっとりと語って「あねさん、魚は天のくれらすもんでござす。天のくれらすもんをただで、わが要ると思うしことってその日を暮らす。これより上の栄華のどこにゆけばあろうかい」と述懐する、別の水俣の漁民のことばを引用して丸谷才一は『遊び時間』(一九八一 中公文庫)の中で、

 

 左翼的とは言はないまでも、社会的な関心を持ってゐる日本の文学者がいちばん不得手なことは、みじめな運命にさいなまれてゐる登場人物たちが、それにもかかわらずなぜ生きつづけるかといふ条件をつひに示し得ないことであった。石牟礼はそこのところを、一葉舟での貧しくてしかも豪奢きはまりない饗宴といふ至福の思ひ出を描くことで一気にくぐり抜けた。彼らの生の根拠を示したのである。

 

と評した。

「苦海浄土」は、その表現の文学的虚構ということがしばしば問題にされる。しかし、それを考慮に入れてもなお、「苦海浄土」全三部作は、被害の発生から裁判闘争まで、日本の一隅の村に生きた人々が、国の頂点近い中央にいる人々と直接に対峙して互いの姿を見つめ合うという、多くの人々がそんな機会にはまず恵まれない、あるいは避けつづけている体験の貴重な記録である。両者がこれほど大がかりに密接に対決し邂逅することも、それがこれだけ濃密に凝縮されて描かれることも稀だろう。そこにいたる過程はこの上なく不幸だし、その交流はあらゆる意味で悲惨であるが、それでもそこに描き出される世界は両者の醜さや愚かさも含めてなお、雄大に力強く脈動している。

私たちの誰にとっても、村という存在を見つめることは、日本や世界、自分自身を考える上で欠かせまい。そのためには、現在の村のかたちがほぼ作られていたという江戸時代の村について知ることも貴重な手がかりとなるはずである。

 

7 江戸文学に見る村

江戸時代の紀行には、どの作品にもむろん多くの村と村人が登場する。この巻には、その中から、さまざまな事情から、村々のみを旅しているものをとりあげた。各作品に関する事柄は、それぞれの解説で述べるとして、ここでは江戸時代の紀行を中心とした文学にあらわれる村の描写と、それを生む背景について簡単に述べたい。

中世以前の文学では、作者のほとんどが都の人であったこともあって、都から離れて地方へ赴くことも、そこに住むことも概ね嘆きの対象でしかない。たかが現在の神戸に隠棲しただけで、「源氏物語」の光源氏には不遇の時期である。

だが、近世文学に見える村に、そのような印象はあまりない。浄瑠璃や歌舞伎に登場する都市近郊の村々にしても、小説類に描かれる農産漁村にしても、村や村人たちは決して軽蔑や恐怖の対象ではなく、聡明で情け深い。「仮名手本忠臣蔵」で勘平の動揺を鋭く見抜いて彼を問いただし追いつめるお軽の老母かやは、決して愚鈍な老婆ではない。

松尾芭蕉の俳諧でも、有名な「猿蓑」中の歌仙「市中の巻」で、「この筋は銀も見知らず不自由さよ」(この街道筋では銀貨も知らないため、銅銭しか通用しないで不便なことだ)と地方の無知をあざわらう句にはすぐ「ただとひょうしに長き脇差」(とっぴょうしもなく長い脇差しをこけおどしのように腰に差している人だ)と、前句の発言者としてからいばりの侠客が連想されている。一方的に村をおとしめる言辞を弄する人として自然に連想されるのは、そのような人物でしかなかった。

秋成や馬琴の場合、物語の背景となる時代は中世であることも多く、「雨月物語」や「南総里見八犬伝」に登場する村について、彼らがどれだけ時代的なものを配慮しているかはにわかには判断しがたい。秋成はあるいは江戸時代の村とは異なる村を描こうとしているかもしれない。だが馬琴は「南総里見八犬伝」で意図的に時代考証を無視し、読者の理解しやすさや親しみやすさを意識して、中世が舞台のこの小説に江戸時代そのものの村を登場させているようだ。そこで描かれる村や村人たちの自治組織としての充実した活動や村人たちの活力は、当時の現実をある程度反映しているだろう。

近世初期の都会を描く名所記類には田舎者を軽侮する文章も時に登場する。しかし、江戸時代後半に書かれた十返舎一九「東海道中膝栗毛」では、江戸っ子の主人公二人が旅先の田舎で失敗をして土地の人々に嘲笑され、ここにも田舎への軽蔑はない。

 

8 「東西遊記」の特徴

このように近世文学の各分野で村や村人へのさげすみが少なく、江戸を初めとした大都市と比べてもそれなりの評価をされている理由は、大きく言って二つある。

一つは雅俗の会編『西国大名の文事』(一九九五 葦書房)が序文をはじめ随所で指摘するように、江戸時代には参勤交代をはじめとした中央と地方の文化の交流が盛んに行われ、また各藩の大名も地域の発展に力を注いだため、中央から遠く離れた地方でも、それなりの文化的な生活は実際に存在したということである。

塚本学『地方文人』(一九七七 教育社歴史新書)も、日本各地の村々に多くの知識人がいたことを詳しい資料と細かな描写とでわかりやすく伝える。しかも、そのような文人たちには、すでに前に述べたような近現代の村における少数者、異端者の苦しみが同じかたちで存在していたことも明らかにしている。

もう一つは、江戸時代中期から盛んになった古文辞学や国学によって、古代の文物や生活が理想化され、そうした昔の風俗は、既に中央の都会では失われて地方の村に今はかろうじて残っているという考えが知識人の中に生まれてくることである。江戸時代の紀行の代表作の一つである橘南谿の「東西遊記」にも、「辺境の村に古代の美風が残る」という発想がいたる所でくり返され、作品全体をかたちづくる骨格の一つとさえなっている。

このような傾向はすでに江戸時代の前期からあり、松尾芭蕉が「おくのほそ道」で東北をめざすのも、「辺鄙な土地には失われた物語の世界がある」という、非日常の世界へのあこがれである。文明化した日常が卑俗と感じられる時、野蛮なはずの鄙の地が非日常ゆえに優雅に見えてくるという逆転現象が起こるのだ。芭蕉の東北への旅は、そのような非日常のロマンを求めた旅であったが、その結果、そのような辺境の世界でも人々の日常はあるという実感が、今度は大都市をはじめとした卑俗な日常への慈しみとなり、後年の「かるみ」の境地を誘い出すのである。

 

9 閉ざされた小世界

「東西遊記」には、もうひとつの特徴がある。この紀行は旅先の土地で見聞したものを短い文章にまとめた話を集めた奇談集のかたちをとるのだが、その話の中には、洞窟や奥まった谷などに不思議な異世界が存在するというものが多い。明らかに、ある種の隠れ里的なものへの興味を作者は抱いている。九州の五家庄に関して、平家の落人たちの隠れ里伝説を長く記しているのにも、それは示されている。

もちろん、軍記物への関心の深さは江戸時代の紀行の持つ一つの特徴であるから、平家の落人伝説への興味とも結びついて、山間の小村へ赴く紀行はしばしば書かれた。だが、「隠れ里」のような存在への興味は、軍記物への関心というだけではすまされない。たとえば岡野蓬原「阿寺・持方の記」が常陸の山奥の二つの小村の風俗について述べ、それを収録した書『三十□』の中で編者の大田南畝は、柴田宗伯「米沢三面の記」という三面という小村についての記事を紹介している。

ここには先に述べた「辺境に古代が残る」という感覚もあるが、それだけでなく、幕府の支配する秩序ある世界が広範囲に広がったため、芭蕉がめざしたような非日常の神秘に満ちた辺境というものを従来のように文字通りの中央から遠く離れた場所にしたのでは、あまりに遠方になりすぎ、手軽に行けなくなったため、安定した日常の中に突然開ける不思議な世界という発想が生まれてくるのであろう。近世前期の西鶴の作品にも、「好色五人女」でおさんと茂右衛門が逃亡中に身を寄せる山奥の村、初めにあげた「西鶴諸国咄」中の「傘の御託宣」の舞台となる九州の村など、いくつかの奇妙な村が登場する。同時代の近松門左衛門の作品にはこのような閉ざされた小世界としての村が登場しないのは、それ自体が独自の空間である演劇では、こういった世界が表現しにくいからかもしれないが、あるいは西鶴に南谿と同様、このような日常の中の異世界という存在を好む傾向があるのかもしれない。

辺境がそのように遠くに押しやられ、幕府の管理する秩序ある世界が広範囲で維持されるためには、幕府の役人たちのたゆまぬ活動が欠かせなかった。特に治水に関しての彼らの仕事ぶりは、この巻に収録した彼ら自身が記した紀行からも見てとれる。詳しくは各編の解説に記す。

 

10 消えてゆく地名

 最後にひとつだけ、つけ加えておきたい。村を描く作品に限らず、江戸時代の紀行を調べていて、旅人の行程をたどっていると、突然ぷっつり足跡がとだえてしまって、めざす相手が川に飛びこんだ警察犬のように途方に暮れてうろうろすることがある。本当に不意に、かき消すように旅人の足跡が地図の上から消えるのだ。あきらめて先へ進み、一定の地域を過ぎるとまた見覚えのある地名があらわれて、胸をなでおろす。

もうおわかりのことと思うが、そういう地域では昔の地名がなくなってカタカナの洒落た名前や、どこにでもあるような一般的な名前になっている。変わる時にはその付近一帯が全部変わっているので、それなりの事情や方針があるのだろう。いかにも古めかしい田舎っぽい名前でバカにされたくないという、住民の切実な声も反映しているのかもしれない。

 だが、研究者にとって不便だから言うのではなく、地元の人にとっても、たとえばこの全集に収録した紀行のような古い文学作品を読んでいて、自分が手紙や書類にいつも書いているのと同じ地名が登場するのを見ることは楽しいものではないだろうか。地名の多くは江戸時代のまま引き継がれていて、まだまだ昔の通りにたどれる。万葉の昔から歌にも詠まれ、多くの旅人が書き残した紀行に記されて、長く守られてきた地名はやはりそれぞれの地域にとって貴重な財産であろう。地元の方々の希望が最優先されるべきなのは当然だが、古くからの地名の変更にあたっては、どうか慎重に考慮してほしい。有名でない、どうでもしていい地名など、本当は全国にひとつもないのだと思う。

                            (2008.11.23.)

 

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