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連想、もひとつ。

つづけます。

◇あと、警戒区域の救援活動についちゃ、今はもう原発の是非もペットをおいて来た人の是非も言うてる場合じゃないけれど、特に、後者についちゃ、キャラママさんも言ってたけど、ほんとに、絶対、責められんと思うのね。だって、あわただしい避難の際に、猫や犬やカメやウサギを連れていくのと残すのと、どっちがより安全か誰にもわかるはずがないんだから。

むかーし、会田雄次だっけかの書いた本で、外国と日本の母親の決定的なちがいは、正面から猛獣や車が来たとき、連れている幼い子どもをどうするかってことで、日本人の母親は背を向けて、子どもを抱きしめてうつぶせになってかばう、欧米人の母親は子どもを遠くに突き飛ばし、自分は仁王立ちになって襲ってくるものに立ち向かう、ってあった。

こんなのは怪しいもんで、現に私や友人の誰も、「背を向ける、うつぶせになる」という発想はまったくなかった。だけど、できるだけ遠くに突き飛ばすというのは、さすがにちょっと…だった気がする。

後になって「愛と哀しみのボレロ」って映画を見たとき、ナチスドイツに収容所につれて行かれる母親が、途中停車した駅で、列車の最後部からこっそり自分の赤ん坊を捨てて、救おうとする場面があった。結局彼女と夫は収容所で死に、赤ん坊は駅の近くの人に拾われて無事に育つ。私はそこで、なるほど会田雄次が言ってたのはこれかと納得した。なかなかできるこっちゃない。自分の行く手に望みがないからと行って、赤ん坊を「できるだけ遠くに突き飛ばす」みたいな決断をするのは。

だから、ペットの場合でも、自分がいつも手放さず行動をともにするのは、最善だとは決して言えない。家に残しておくのが、より安全で、危険で先が見えない避難所に同行させるのがまちがっていたという結果だって十分にあり得たことだ。
ペットを連れて行かなかった人は愚かでもなければ、愛情が薄かったのでもない。そんな事態になったときの行動や判断の結果は、誰にも予測なんかつかない。

それにしても、私はホロコーストの映画とか見るたびに、ユダヤ人が皆こんなにぞろぞろ収容所に抵抗もしないで連れて行かれたのも、外国へ逃げるタイミングを失った人が多かったのも、あの当時だったからこそで、今みたいにネットやその他の情報がダダ漏れだったら、絶対にあり得ないよなと、よく考えてたものだったが、とんでもなかったなー。ネットがいくら発達してても、グローバル化が進んでても、肝心なときに逃げだすかとどまるか、その他もろもろ身の振り方をどう決めるかは、この今も、「アンネの日記」や「シンドラーのリスト」なみに、各自が出たとこ勝負のばくちを打つしかないんじゃないか。それを毎日、痛感している。

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カツジ猫