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鎌田慧「六ヶ所村の記録」の感想

これは重苦しい本である。

同じ放射能問題の告発でも、広瀬隆「ジョン・ウェインはなぜ死んだか」は、(私自身にもある傾向のような気がしてひやひやするが)恐ろしい事実を豊富な資料と的確な分析で、何よりごまかしのない勇敢さで描いているのが、実にわかりやすくてすじが通って、それがかえって怪しげな感じさえしてしまう。そして、読んでいると、次々にくりひろげられる情報と論理に、読み物として血沸き肉躍る爽快ささえ感じてしまう。

一方で水俣病を告発した石牟礼道子の「苦界浄土」は、これまた事件の本質をえぐり、文学として見事に昇華させているが、それだけに悲惨な公害事件が、無残ななりに美しい世界をかたちづくって、なつかしい不思議な夢の世界にさまよいこんだような気がする時がある。

どちらも文学としてすぐれている。どちらも真実を告げている。だが、まったくちがう方向ではあるが、どちらも読んでいて、ある「作品」を読む快感がある。そこには作者の強固な意志によって作られた一つの世界があって、それに身をまかせる楽しさがある。

「六ヶ所村の記録」には、そういう意味での面白さや快感はない。わかりやすい、誠実な文章で、放射能廃棄物の置き場所となった地域と、そこに住む人々の歴史が語られる。どういうか、これを読んで「だから原発は悪いんだ!」と怒りに燃えたり涙にくれたりすることさえできない。そういうものを求めてこれを読んだら、すごく欲求不満になり、不完全燃焼の気分になるだろう。

著者は何しろ(あまり知る人もいない)江戸時代の紀行から、この村の歴史をときおこす。古川古松軒と菅江真澄。前者について私は「江戸の紀行文」の中で、(ちょっと広瀬隆のような)橘南谿のあまりにもわっかりやすくめりはりがきいた紀行に比べて、古松軒の紀行は良心的なだけに資料が多すぎて、読者が明確な印象を持ちにくいと述べた。
鎌田慧のこの本は、まるで古松軒のようだ。多くの要素がつめこまれ、その分、読者は簡単にカッコよくまとめて理解し感動できない。豊富すぎる現実の前に、ただ呆然と立ちつくすのだ。

だがそれだけに、まさに「一口には言えない」重い現実をさしつけられる。
私のこの本の読後感は、もちろん著者が言っているような「原発は放射能の危険ももたらすと同時に、自治体の民主主義を破壊する」という実態は充分にわかったものの、そのことさえも「別に原発が特別にそうなのではない」という印象だった。
もちろん、核廃棄物の処理場の建設が決まるまでには、金や暴力やでっちあげ事件や嘘の報道など、あらゆる手段が使われている。しかし、あえて言うと、それはその時に始まったことではない。核廃棄物処理場がふってわいたように突然来たのではなく、さまざまな企業や会社の誘致が長い年月くりかえされた最後に、それはやって来た。

「原発が安全なら東京のまん中に作れ」とは、よく言われるし、その通りだ。しかし、それがなぜ、六ヶ所村をはじめとする地方に作られるかについては、原発や核廃棄物処理場が受け入れ先をさがしてうろつくということと同じか、それ以上に、過疎化していく地方では、何か村を再生し活性化させるものを求め探しつづけているという事情が、この本を読んでいると、あらためて重く実感させられる。

水俣がそうであったように、六ヶ所村にも美しい自然がある。人々はそこで平和に暮らしている。だが、そんな村に核廃棄物処理場を押しつけたことを反省し、それを廃止して引き上げても(そんなことができるとしても)、それでは問題は半分しか解決しない。日本全国にある、そのような農山漁村の住民が、彼らの望む豊かで文化的な暮らしができるよう、若い人が村に住んで賑やかな毎日が訪れるよう、保障しなければ充分ではない。

(長過ぎたので、わける。)

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カツジ猫