映画「グラディエーター」小説編アカデミアにて-1

アカデミアにて ー大学総長マキシマスー

もしも老皇帝の亡骸を前に、コモドゥスのさし出した手をマキシマスがとって、忠誠の誓いをたてていたら?その時、彼が失わないですんだものは?失うことになったものは?

これは、私自身の職場のごたごたも盛り込んで、徹底的にパロディにしています。でも、このマキシマスもたしかにマキシマスだし、コモドゥスもルッシラも…。「生きのびて、家族を守る」道を選択した時、マキシマスにふりかかる試練の数々は、同じ道を選んで生きのびている私たちの悩みや苦しみとも重なると思います。そして、この話の結末は、十年間愚帝としてローマを混乱させ、反乱を起こした姉ルッシラを死刑にし、ついに自らも部下に暗殺されるコモドゥスという、現実の歴史とおそらくは一致するはず、なのですが…。

「まちがいのもとは、船に乗ったことだ。もちろん、おれたちは、動けるし、方向をかえ、歩きまわることもできる。だが、その動きは、風や潮の流れと同じように容赦なくおれたちを運んでゆく、より大きなものによって限定されているのだ…」

「おれたちの名前が、ある夜明けに、大きな声で呼ばれた…使い…呼び出し…はじめにどこかで、言えるときがあったに違いない…『いやだ』と。しかし、どういうわけか、おれたちはのがしたのだ、それを。」
(トム・ストッパード「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」より)

その1 かわいそうな将軍

ああ、あの時に皇帝のさし出す手なんかとらないで、黙ってテントを出て行っておけばよかった。そのあと、どんな恐ろしいことがおこるにせよ、今のこの状態よりはその方がずっと、きっと、はるかに、まだましだった。
アエリウス・マキシマス・デシマス・メレディウス総長は、深い深いため息をつき、ローマの町はずれの丘の上にあるアカデミアのどっしりとした建物の奥の、広々とした総長室の、ぴかぴか光る机の上にほおづえをついて、窓の外の青い空を舞っている鳥の群を見つめた。
彼はまだ三十になったばかり。伝統あるアカデミアの総長としては異例を通りこして異様に若い。だが当人は気づいてないのだが、晴れがましい儀式の場で総長の椅子に座っていても、こんな堂々としたへやを一人じめしていても、実はそれほど不自然でない風格と品威が彼にはあった。無理もない。数ヶ月前まではゲルマニアの最前線で数個の軍団を指揮して戦う将軍だったのだ。
人殺しが商売の軍人を、知性と文化の殿堂のアカデミアに、それも総長として送りこむとは、と眉をひそめて舌うちしていた白ひげの老教師たちが、彼のしなやかな手足やたくましい身体が、少しも殺伐とした雰囲気をたたえず、また場ちがいなところに来たという緊張を少しも見せずにのびのびと心地よげにくつろいでいること、武器を握りなれて固くなっている太い指がいとも楽々と愛情をこめて古い本をめくり、巻物をほどくこと、天井までとどく書架にぎっしりと巻物がつまった図書館にふみこんだ時、もの静かで端正な顔が少年のように抑えきれない喜びに輝いたこと、などを見て、ひそかに、おや?と首をかしげていることも彼はまったく知らなかった。実は彼は、哲学者としても知られる先帝マルクス・アウレリウスの愛弟子で、幼い頃から帝に学問を学んでおり、読書や思索はもともと大好きだったのだ。先帝が亡くなり、あとをついだ息子のコモドゥス新皇帝が、都に凱旋して間もなく、アカデミアの総長になるよう命じた時も正直言って、あれ?と思った。どうせ、とことん意地悪されて、いやな場所に行かされるものと覚悟していたのだ。たとえばコロセウムの支配人とか。
前線にいた時に副官だったクイントゥスは、「いいなあ、アカデミアの総長か」と露骨にうらやましがった。「おまえって本当に運のいいやつだよ」
そういう自分だって近衛隊長になったんじゃないか、と総長は吐息をつく。だが昔からクイントゥスはそういう風だった。マキシマスが何かになると、いつもそれをうらやましがって、我が身の不遇をかこつのだ。そうしないと落着かないらしかった。
だが今回だけはマキシマスはクイントゥスにうらやましがられてもしかたがないかなあと思った。ここに来て数日の間は特に。図書館にあふれる書物、巻物をかかえて行き交う老教師、熱心に木蔭や石段に座って本に読みふける若者たちを見ていると、こんなに幸せでは罰があたりそうな気がしたものだ。

だが今はそうではなかった。
マキシマスはコモドゥス新皇帝を幸か不幸か、子どもの頃からよく知っている。いろいろ欠点は多いが、愚かではない。とりわけ、人をいじめる才能にかけてはなかなかのものがある。これは姉のルッシラ皇女も同じだった。子どものころは、手をかえ品をかえして二人にいじめられた気がする。あまりにもいじめの手がこんでいたので、二年か三年したあとでやっと、ああ、あれは意地悪されていたんだ、と気がつくほどである。
で、そういう新皇帝が何というか、マキシマスに対して今さら、いじめまちがいをするわけもないのである。
アカデミアに来て数ヶ月、マキシマス総長はようやく、しみじみ、コモドゥス新皇帝の意図がわかりはじめたような気がしていた。
ここは戦場以上に大変なところだし、どう考えても落着いて学問なんかできる場所ではない。
窓の外をぼんやり見ている総長の目はもの哀しげにくもっていた。男らしい意志の強さをみなぎらせたたのもしい指揮官の顔でありながら、戦友や上官や女たちからともすれば女子どもを評するように、かわいいとか色っぽいとかすねた目つきとか言われてしまう彼の目鼻立ちは、それでなくてもふだんから、素朴で聡明な動物のような人なつっこさや、森の大きな木々のような穏やかな寂しさをただよわせている。今、一人きりで空を見ているそのまなざしは、いちだんとまた、そういう深い、甘い憂いにあふれていた。

鳥が舞う向こうにはローマの町がかすんでいた。春がすみにはもう遅い。きっと都の周辺に広がる畑がまきあげる土ぼこりなのだろう。総長はまたため息をつき、その灰色がかった青い目は、ますますやるせない切ない色をたたえた。
ああ、畑仕事がしたい。馬の背をなでたい、小麦をまきたい。幼い息子の髪にふれたい、妻の身体を抱きしめたい。
本をめくるのとどっちかというぐらい、彼は土いじりも好きだった。春風の運んでくる草と水と土のかすかな微妙な香りを、野ウサギのように目を閉じて鼻をひくひくさせながら、彼は的確にかぎとった。そうするとひとりでに、身体に力がみなぎってくるのだが、その力にはやりばがない。畑をたがやし種をまきたい、妻を抱いて子どもをつくりたい、そんな思いがいっぱいにあふれて手足がしびれそうになってくる。
なのにまあ、その妻と子に自分はいったい、いつ会えるのだろう?
あの時、新皇帝のさし出す手をとって、とにもかくにも忠誠を誓ったのは、ローマのためを思ったとともに、妻子を危険にさらしたくなかったからだ。忠実な若い従僕キケロに命じて、その夜も明けぬうちに彼はすぐ、遠く離れたスペインに住む妻子のもとへ、即座に身をかくすよう伝言を送った。かくれる先は自分にも当分告げないでよいと伝え、いずれ安全が確認されたら呼びよせると連絡したのだ。従僕からは命令どおりにしているから心配ないとの手紙が届き、彼は読んですぐ、それを焼きすてた。したがって妻子が今どこにいるかは彼自身も知らない。その方がいいと思っている。コモドゥス新皇帝の心は読めない。自分をどうするか、知れたものではない。何しろ彼にタブーはない。何だってするのだ。
妻子を呼びよせるほど安心できるのなんて、いったい、いつのことか。総長はまた首をふった。

まあ、それにしても、と身体をそらして伸びをしながら総長は思う。この窓からのながめは抜群だ。
最初、この建物が丘の上にあると知った時、ひそかに喜んだことを彼は思い出していた。宮殿の一室に皇帝が設けてくれた、趣味の悪いぜいたくな部屋から、毎日ここまで走ってきて坂道をかけ上がったら気分もいいし、身体もなまらないと思って。ところが学部長や事務官たちは口をそろえて、「総長がチュニック姿で朝の町を走るなど、アカデミアの権威にかかわります」と言った。「専用の輿があって、毎日お出迎えとお送りをいたしますから、それをお使いになって下さい」
「それでは私は町を見る機会がない」総長は抗弁した。「人々の心を知ることができない」
今考えると、来たばかりの時だったからあんな勇気があったのだと思う。今なら恐くて、とても言えない。
「あなたは皇帝ではないのだから、下々の者の心を知る必要などはございません」第一学部長は、あわれむような笑いをうかべた。「変に下情に通じていると、むほんの下心があるとみなされて、コロセウムにひき出されてトラと戦わされるはめになりますぞ」
こんな連中と議論するよりトラと戦う方がよっぽどすっきりするのではないかと、その時とっさに総長は思ったが、むろん口には出さなかった。
「どうしても歩いて来たい」彼はそう言ってみた。
軍にいた時はこれで通じたのだ。しかたありませんなあと苦笑しながら、彼のわがままを皆が聞いてくれた。しかし、ここではだめだった。
「総長がどうしてもそのような意地を通されますと」第二学部長がしめやかな声で言った。「輿のかつぎ手六人が職を失うことになりますが?家族ともども路頭に迷う、それでもよろしいのですかな?」
「彼らに他に仕事はないのか?」総長はくい下がった。「学内は草がぼうぼうではないか。この前、タヌキが走っているのを見たぞ。輿などかかせず、草刈りをさせるとよい」
「タヌキなどで驚かれていてはいけません。ここにはイノシシもよく出ます。それはともかく、初日にお渡しした書類にはとっくに目をお通しになっていることと存じますが」第三学部長がじろりとにらんだ。「学内の職員の仕事はそれぞれ決まっておりまして、勝手にちがった仕事につかせることは禁じられています。よって…」
「そんなことを誰が決めたのだ?」初日にもらった書類なんか、あれきりどこへやったっけと、どきどきしながら、それでも恐いもの知らずの総長はそう口走ってしまい、四人の学部長の八つの目から一度にじろりとにらまれた。
「国家が決めた省令です」第四学部長が深いため息をついた。「ご存じないわけがないでしょう?」
「誰であれ何であれ、決まったものは変えられるはずだ」やけになった総長は言った。「そうではないか?」
四人の学部長は顔を見合わせて上品に笑い、それから第四学部長がおもむろに「冗談はさておくといたしまして、そのへんで話を戻しますと」と言った。「輿をお使いになっていただけるのでしょうな?」

んなこと言ったって、と総長は思い出してまたため息をつく。
丘の上のせいもあって、このアカデミアの敷地は広いようでせまい。学内いたるところ斜面だらけで、下の方の建物の屋上がそのまま上の方の建物の地下室につながっている。上から入ると一階だが、下から入ると五階で、横から入ると三階で、などという構造は珍しくもなく、歩けば歩くほどわからなくなるのはまるで迷路のようである。敵を迎え撃つのには案外いいかもしれないが、などと歩きながら総長は思わず作戦をたててしまうのだった。
したがって、輿をとめたり馬をつないだりしておく敷地なんて実はろくにない。それなのに、学生も教師も皆、輿や馬で来たがる。学生は本当はどちらの使用も禁じられているのに、それでも乗って来る。特にローマの市内では馬に乗ってはいけないのに、どうかこうかして乗ってきてあちこちの木や彫刻にこそこそつないでいる。おかげで広場という広場が馬と輿と座って待っている担ぎ手たちで埋まって、文字通り立錐の余地もない。何でもとめる場所を確保しようとして朝暗い内からやってきて、講義にも出ず昼まで寝ている学生がいるという話だが、いくら何でもこれは嘘だろう。
第一、このアカデミアの連中ときたら、総長にはもう信じられないぐらい朝に弱い。それだけ馬や輿でかけつけなくてはならないというのも、ちょっと早く起きてゆっくり坂を登ってくれば何ということもないのに、ぎりぎりまで寝ているらしく、会議や授業に遅刻しそうな寸前になってかけこんで来るから、速い乗り物が必要になるわけなのである。そして、そうやってかけつけて来るには、たしかにこの丘の坂道は急だし長い。朝、輿の中から見ていると、白髪をふり乱した老教師たちが息せききって上がって行く姿には、何やら鬼気せまるものがある。ばったり倒れて死にはしないか、見ているだけで心配になり、若くて元気な自分が輿に乗っているのが総長は、みっともなくて気がとがめてしかたがない。そう言ったら、歩いてきてもいいと言われるかもしれないと淡い期待を抱いてほのめかしてみると、第二学部長が鼻で笑って「気にすることはありませんよ」と言った。「あれはだいたい、第一部の連中です。彼らは自分たちの教室や研究室が丘の上の一番高いところにあるのに、そこの広場の美観を重視して、輿をとめることを禁止しているから、あんなことになるのです」
「ミネルバ神の像のあるあの一帯の広場のことか?」
そう言えばあそこは輿が少なくて、比較的いつもすっきりしている。あまり高いところだからあそこまで馬や輿で上がるのは大変だからだろうと何となく思っていたが、そうかなるほど、考えて見ればあそここそ、一番歩いて上がりたくないところである。
「でもあそこにも時々輿はとまっているではないか」
「だから第一部の教師たちは見つけ次第移動させているのですよ。この前からそれで学生たちと教師とがつかみあいのけんかになっているようで。おかげで他の部の広場に第一部の連中の輿や馬までがとめられて、迷惑もはなはだしい。あそこはそういう得手勝手な部です。それで倫理学だの政治学などを教えているのだから、まったくあきれたものですな」
ふうん、と総長はあいまいな返事をした。彼は第一部に何人かいる白髪のがんこそうな老教師たちが好きだった。見た目がそれぞれどことなく、先帝のマルクス・アウレリウスに似ていたのだ。ある日、その中の一人が談話室でかしかし音をたててパピルスに何か熱心に書いているのを見た時は、前線のテントでよくそうしていた先帝を思い出し、なつかしさに思わず近づいて行って「何かお手伝いしましょうか?」と声をかけてしまった。
「いや、何々」老教師は苦しそうにせきこんだ。「わしも病であと少しの命じゃと医師に言われておるのですが、これだけはきちんとしておかんことには、死ぬに死ねませんでな」
老学者は皆同じだなあと、総長はますますなつかしくなってほほえんだ。「ご著作ですか?」
「いや、広場に輿をとめていた違反の回数です。毎日見回ってチェックしておるのですが」老教師はうっとりと書きとめた文字の列をながめた。「ヴァレリウスが二十二回、これが最高ですな。誰も知らんと思うてからに、注意されるたびにすみませんすみません、二度としませんなどと言うておるが、動かぬ証拠をこうやってそろえておるとも知らずに。最近の学生は生意気だから、資料をそろえて説教しないと効果がありません」
総長は唖然とし、思わず第一部は人文系の学部ということを忘れて聞いた。「ご専門は統計学ですか?」
「修辞学です」こともなげに老教師は答え、朗々とパピルスの文字を読み上げた。「マルシアスは十八回、センプロニウスは十六回、ガレリウスは十一回…」

ああ、いやだいやだ。こんな毎日はもういやだ。
総長は机を押しやって立ち上がり、壁の大きな水時計を見た。
会議のはじまる時間である。
軍にいた時から彼は会議と儀式が大きらいだった。スピーチをさせられるのも大きらいだった。それがここアカデミアでは朝から晩までその二つしかないと言っても過言ではない。そしてどちらでも必ず「総長から一言」と最初にしゃべらされ、あとは黙っていなければならない。時には、「ではここで総長はご退席になります」と出て行かされてしまう。
「最後まで会議に出ていてはいけないのか?」と一度言ってみた。
「総長は会議がお好きなのですか?」第一学部長は目をむいた。「ほうう。変わっておられますなあ」
もはや、そのくらいのいやみでめげている総長ではなかった。「別に好きではないが」と言い返した。「学内の皆が何を考えているか知りたい」
「それは私ども各学部の部長がきちんと毎月、お伝えしております。そのために補佐会議というものがあるのです」
「知ってるよ」総長はため息をついた。「あのウェスタの巫女のカルパニアさんがお見えになる、あれだね」
「それは運営諮問会議です」第一学部長はにべもなく訂正した。
「あ、いや、もちろんそうだ」総長は笑ってごまかした。「先週、第一会議室であった、あれだな、補佐会議は」
「それは基本構想委員会でしょう」
しまった。総長はほぞをかんだ。しかし、それではあの第四会議室であった、いやにあっさりすぐに終わった会議はいったい何だった?代議員会?常任委員会?研究科委員会?将来構想検討委員会?自己評価委員会?

いや、いや、そんなことはいいのだ。
さしあたり、今からある会議だけでも何の会議かわかっておかなければいけない。
多分、パンと競技共同事業参画検討委員会だったと思うのだが、ひょっとしたらガレー船就航五ヵ年祝賀計画実行委員会だったかもしれない。
もう、どっちだっていいや、と総長はトーガを腕にまきつけながら思うのだった。
それにしても、このアカデミアの教師たちは、こんなにたくさんの会議に、これほど日夜のべつまくなし出席していて、いったいいつ、授業や自分の研究などをしているのだろう?

それも、これも、と長い回廊を会議室へと歩いて行きながら総長は思う。あの時に、皇帝のあの手をとってしまったからだ。
何もかも、すべてがそこから始まっている。

その2 総長の夜の過ごし方

長い一日が終わって、宮殿の一角の自分のへやに戻ると、総長はほっとした。
壁も柱もベッドも、ふんだんに金が使ってあって、派手で趣味が悪くて、最初に入った時は目まいがしてこんなところでは絶対眠れないと思ったものだが、恐ろしいもので今ではなれてしまった。
ごてごてと彫刻のついた、すわり心地のとことんよくない椅子に座って総長は第四学部長が渡してよこしたぶあつい書類の束をめくった。
だが、あっという間に眠くなった。
どうしてか、第四部の教師たちのよこしてくる報告書というのは、どれもこれも皆ひどくわかりにくくて、すぐ眠くなる。
何でなんだろうな?
太い指でまぶたをこすって総長は、何かを目でさがすようにふと床を見た。
自分が、ベッドの下からのっそりとはい出てくる大きな毛むくじゃらの頭と、足もとにはらばったまま、ぱたぱた音をたてて床を打つ、ふさふさと太いしっぽをなつかしがっているのに気がつく。
「ペルセウス」とつぶやいてみた。「どうしてるんだろうなあ」
ペルセウスは森で兵士たちが拾ってきたオオカミだ。手のひらに入ってしまうような子犬のときから総長と…そのころは将軍だったが…のベッドでいっしょに寝ていた。大きくなってからは戦いにもついてきて敵にとびかかって、ひとかみで倒し、敵のゲルマニア人たちからは灰色の悪魔と恐れられていた。「悪魔」は飼い主の総長には従順で素直な甘えん坊だった。うっかりしゃがみこんでいると、太い前足を背中にかけてのしかかってきて顔をなめたり、そうかと思うと変にしかつめらしく、うやうやしいあこがれをこめた目で遠くからじっとながめていたりした。金色がかった目に浮かんでいた無邪気で無心な手ばなしの尊敬と献身。思い出すたびに吐息をついて総長は、今の自分は孤独だとしみじみ思ってしまう。
ギリシャ神話の英雄たちはアキレウスにしろヘラクレスにしろ、皆、悲劇的な死をとげる。その中で怪物メドゥーサと戦ったペルセウスだけは、海の怪物から救った美しい王女アンドロメダと結婚し、幸せな家族に囲まれて立派な王として長生きし、平和の中に死ぬ。このオオカミもそうであってほしいなという願いをこめて、総長はその名をつけた。彼がいないと淋しくなることはわかっていた。せめて彼だけでも都に連れてこようかと最後までどれだけ迷ったかしれない。
だが、コモドゥス新皇帝は何をするかわからなかった。幼い時、マキシマスがかわいがっていた馬や犬や鳥を、面白半分のようにして彼はいじめ、時には死なせたこともある。そのあとでマキシマスが悲しみに口もきけなくなっていると、コモドゥスはいつもびっくりし、自分が深く傷つけられたような顔をするのだった。顔だけではなく多分本当に傷つけられていたのだろう。自分以外の何ものかの苦しみや死がそうやって重くうけとめられることに。
ペルセウスがもし、自分と皇帝の対立の中で何かの犠牲を払うことになったら。そうなった時、自分はきっと皇帝を許すことができず、何か恐ろしく愚かなことをしてしまいそうな気が総長はして、最後の最後で結局従僕のキケロに「彼も連れて行ってくれ」と言った。「妻に、私の身がわりと思ってよくめんどうをみるように言ってくれ」
そう言いながら彼は顔をそむけてしまい、キケロは気がかりそうに「本当によろしいのでしょうか」と念を押した。「ペルセウスがおそばにいた方が安全なのではありませんか」
「こいつに命を守ってもらうようでは私もおしまいだよ、キケロ」マキシマスはしいて笑った。
「お命やお身体のことだけではなくて」キケロは口ごもった。「誰もおそばにいないのでは…」
「大丈夫」そう言われてかえって何かがふっきれたような気がした総長は、ひざをついてペルセウスを抱きよせ、その太い首に妻からもらった首かざりを、自分の首からはずしてかけ、オオカミの目の上に口づけした。「ペル、きっとまた会うからな。私の妻と子を守っていてくれ」
ペルセウスはしっぽをふって答えた。彼は時々、自分のことばを理解しているのではないかと総長はいつも思っていた。朝もやの中を、キケロに連れられて、何度もふり返りながら彼は去って行った。
奥さまにかわいがられ、坊ちゃまと仲よしになって、とても元気にしています、とキケロの手紙にはあって、ひとまず安心したのだが。
それにしても、キケロの手前、恥ずかしくてできなかったのだが、毛のひとふさでも切りとって持っておけばよかった、と総長はふと思い、すぐに女の子ではあるまいし、と思い直した。第一、妻や子どもの髪の毛だってくれと言ったこともないのに、そんなこと知ったら、妻はきっと気を悪くする。

ああ、そんなことを考えている場合ではなかった。
気をとり直して総長は指の間からすべり落ちそうになっている書類をもう一度、きちんとそろえて読みはじめた。
だがあいかわらずさっぱり意味がわからなかった。
戦う前に通訳つきで和平交渉を何度かこころみた、ひげもじゃの大男たちのゲルマニア語の方が何だかよっぽどわかりやすかった気さえしてきた。
多分これは何か、自分も含めた第三者には決してわからない暗号というか約束ごとというか、暗黙の諒解の上に成りたっている共通の論理体系のようなものが何かあるのにちがいないな、と総長はぼんやり考えた。
しかもそれは、約束ごとといった、きっちりと決められたものではなく、長い間になーんとなく、ひとりでに成立した村のしきたり、みたようなもので、それがわからずうろうろしている者はよそ者だときっと一目で見破られるのにちがいない。
何という恐ろしいことだ。
しかしまあ、別にいいのだが、第四学部というのはたしか、教師となる人間に、その心がまえや教育方法を教えることになっている学部である。
それがこういうことではいけないのではないだろうか、と恐いもの知らずの総長は、誰も恐ろしくて考えられないようなことを、また考えてみるのだった。
報告書だけではない。そう思ってみると、第四部の教師たちの話はいつも、ていねいだがわかりにくい。茶のみ話はそうではない。皆、ふつうの魅力ある人々である。しかし、会議の発言はちょっとわかりにくくなる。公式の長いスピーチとなるとますます何を言っているのかわからない。いや、聞いているときはわかるのだが、あとで何を言ったか思い出そうとすると何ひとつ思い出せない。あれはあれで一つの技術かもしれない。
きっと、まんべんなく、すべてにわたって落ち度ない話をしようとするからだろうなあ。
と考えていて、ふと気がつくと、またしても総長は今たしかに読んだ二枚の書類に何が書いてあったかわからなくなっているのに気がついて、呆然とした。
まるで、魔法にかけられているようだった。

自分はとても頭が悪いのかもしれない。そうひるみかけて総長は何を、と思い直した。
いかん、敵にのまれかけている。それは敗北の第一歩である。
わからなくなった二枚前に戻って読み直しはじめた。今度こそ、わかってやる、と思って読みはじめたのだが、そうすると、「だから何なんだよ」「それがどうしたんだよ」と自分でも気づかずに、ほとんど一行おきにつぶやいてしまう。
召使いが入ってきて、ワインをついでくれたのには気づいたが、声をかける余裕もなかった。だが、召使いがなかなか出て行かないようだったので、顔を上げないまま、「ありがとう」とねぎらった。「今夜はもう特に用はないから、下がってよいぞ」
「仕事熱心だな、総長」
そのからかうような、いらだったような声に総長は凍りついた。しばらく動かずにいてから、ゆっくり書類を横において、そちらを向くと、テーブルのそばに立っていたのは、やはり、新皇帝のコモドゥスだった。夜中近いというのに盛装をして、よろいを着て、いつもの変にきらきら光る目でじっとこちらを見つめているのだ。

総長は立ち上がった。チュニカすらもう脱いで、ねまきがわりのガウンをまとっているだけなのを、かたちだけでもかきあわせた。
「陛下」とようやくのことで言ったが、声がのどにつまってかすれた。
「おまえは私を陛下と呼ぶ時、いつも非常に呼びにくそうだな」グラスを手の中でもてあそびながら、ここちよさそうに皇帝は言った。「それとも私の気のせいか?」
何でもう、一日くたくたに疲れて帰ってきたあとに、こんなアホの相手まで私はしなくてはならないのか。総長はつくづく情けなかった。
「何かご用でございましょうか」あまりにも気のきかないせりふだとは思いつつ、とりあえずそう言った。
「父上がよく言っていた」コモドゥスは繊細そうな唇のはしを、ぴりっとゆがめるようにした。「おまえの部下や上官たちもよく言っていたな」
そこでことばを切ってじらすように総長を見たが、総長が床のモザイクを見つめたままじっとしていると、ことばをついで歌うように「マキシマスは目でものを言う」とつづけた。「思っていることが皆、顔に出る」
総長は沈黙を守った。自分ではそんなつもりもないが、そうかもしれない。
「何かご用でしょうか、とおまえの唇と舌は言う」ここちよさそうに皇帝は続けた。「だがおまえの目と顔と全身は、あーもうやめてくれんかこの忙しいのに、何だもうこのバカ皇帝はと言っている」
「おたわむれを」にこりともしないで総長は言った。
「まあいい」皇帝はくつくつ笑い、マントをひるがえしてベッドに座ると、かたわらを手で軽くたたいて「座れ」と命じた。
総長は座ったが、その前にことさらにゆっくり書類を片づけた。人の心は勝手なものだ。今や彼はヴェルギリウスの詩句よりホメロスの物語より、その書類の文句が魅力的に見え、先が読みたくてしょうがなかった。皇帝のとなりに座って、並んで話をするよりは。
それにしても、とぐさりと胸にこたえる思いで総長は、皇帝が何げなくベッドをたたいたしぐさが父のアウレリウス先帝にそっくりなのを、よろめくような苦々しさと空しさの中でかみしめていた。まだ幼かった少年兵の自分を基地のテントでかたわらに座らせて、先帝は楽しそうに目を細めて、読み書きや計算、哲学や天文学を教えてくれたのだ。
新皇帝の前では絶対に、先帝のことなど思い出すまい。そう決めていたのに不意をうたれた総長は鼻の奥がつんとし、のどが痛くなっていた。必死でそっとこぶしをにぎって、つめを手のひらにくいこませて耐えた。
この人は、あの方のお子なのだ。
たとえ、どんなあやまちをおかしたとしても。

「そう傷ついた目をするな」そっと隣りに腰を下ろした総長をまじまじと見て、皇帝は面白そうに言った。「何をそう、ふくれている?」
「私は別に、何も」
「そうか、まあよい」皇帝は宙を見つめた。「さっき、何と言っていた?そう、用事だ。おまえと話がしたかった」
「誠に光栄でございます」
皇帝はまたまじまじと総長を見た。「まったくおまえというやつは」感心したような声だった。「心のこもらないことばを言わせたら、どんな競技大会でも月桂冠をとれるな」
「あいすみません」
総長は前を見たままそう答えた。
「都に帰ってきてから何度となく私は、夜におまえに使いをやって話しに来ぬかと誘ったが、おまえはいつも忙しいの一点ばり」皇帝は首をふった。「先日などは疲れているからと断ってきた。疲れているだと?マキシマス、余はこの国の皇帝だ。その者が会いたいと言ってきたのを疲れたと臣下がことわる。何かおかしいとは思わぬか?そういうことでは、この帝国の秩序はどうなる?」
「聞きまちがいをいたしておりました」総長は固苦しく答えた。「もし、気がむいたら、というように言われたと思ったものですから」
「そうか。余もそう思った。だがおまえのようなすぐれた軍人が聞きまちがいなどするはずはない。そうではないか?」
微笑して皇帝はことばを切る。総長ははっと思いあたって皇帝を見つめた。「いえ、私の聞きまちがいです」と思わず早口になった。「伝えに来た召使いには何の落ち度も…彼はちゃんと…私がうっかり…」
「早く言ってくれればよかった」紅玉の指輪をはめた手を見下ろして皇帝は悲しげに首をふった。
「まさか、陛下…」
「あの者は一晩鞭で打たせたあと、コロセウムに送った。クマのエサにするように命じてな。今ごろはもう食われていよう」
総長は立った。「あなたは気が狂ったのですか?すぐに助命の命令をお出しになって下さい!」
「遅いと言っているだろう?」コモドゥスはものうげに言った。「クマは一日二度食事する。食事の時間はもう過ぎている」
「万一ということがございます。私が命令を持って行きますから、即刻赦免のお沙汰をいただきたい!」
「あの召使いに気があったのか?」皇帝はあくびをした。「かわいい若者だったからな。ああいうのが好みなら、余の奴隷の中から見つくろって…」
「殿下!いいかげんになさいませんと窓から放り出しますよ。人の命をあなたは何と思っていらっしゃるのです?」総長は全身を火のような怒りでふるわせていた。「あなたがお父上をどうなさろうとそれはもう私の知ったことではありません。しかし、お父上があんなに大切にされていたこの国と、そこに住む一人一人の人の命を、あなたのような自分のことしか考えないおっちょこちょいの気まぐれで勝手気ままにもてあそぶのは、それだけは、私が死んでも許しません!」
コモドゥスは大声で笑った。「もう遅いと思うがな」そして指輪の一つをはずしてさし出した。「余の紋章が入っている。コロセウムの牢獄の係の者に見せて、余の命令だと言ってあの者をもらいうけてくるがいい。ひょっとしたら、つめの先ぐらいは残っておるかもな。それから、何か着ていけよ。おまえの肉体美をさらして夜の町を走ったら、ならず者たちがよだれをたらしておそいかかってくるぞ。あの者の名はたしかティブルティヌスとかいったと思うが」コモドゥスは心地よげに両腕をのばして、あくびをしてみせた。「健闘を祈るぞ、総長」

その3 謎のプール

ね、眠い…
総長は必死で睡魔と戦っていた。会議はまだ始まってどのくらいもたっていない。まだまだきっと先は長い。ここで眠ったら…とは思っても、ちょっと気をゆるめたら、ばったり前のめりにテーブルの上につっぷして日が沈むまで、そのあと夜があけるまで、こんこんと眠ってしまいそうである。そんなことになったらテーブルの回りをぐるりととりまいて重々しい顔で座っているアカデミアの教師たちから、いったい何と言われることか。
とはいえ、まぶたがひとりでに下りてくる。ただでさえわからないややこしい話が、ますます、全然わからない。
私はこんなに頭が悪かったのかなあ。やるせない気持ちで総長は自問自答した。

「ここの会議がわかりにくい?はっはっは、総長。それは甘いですな」代議員の一人の歴史学の教授は、総長がおそるおそる、何が話しあわれているかさっぱりわからない、とこっそり告白した時、そう言って笑った。「ここの連中はまだ単純ですからな。見ていてわかりやすい。私が以前いたシラクサの大学の会議ときた日には、すごかったですぞう。十人ぐらいの講座で会議をするのですが、何が話しあわれているかはもちろんわかりません。誰と誰が対立しているかもほとんどわかりません。ただ、議論を聞いていますと、時々、闇の中で決闘が行われているように、ぴかっと白刃がひらめいて、誰かがばたっと倒れる音がするのです…いいですか、もののたとえですぞ。そういう感じがするのですわ。話し合いを聞いていると。しかし、誰が勝ったのか、誰がとどめをさされて死んだのかは皆目わからん。ただ、そういう決戦があったということだけが何となく伝わってくる」
なるほどそれはすごそうだと思いながら総長はうなずいた。
「あれに比べりゃ、ここの会議なんて単純なもんだ。基本的には皆、お人よしで脳みそにひだが少ないですからな。かけひきと言ってもしれていて、半分寝ててもわかります」
いつか自分も、そういう境地に達することができるものだろうか、と総長はあくびをかみ殺しながら、ぼんやり思った。

まだせめて、ゆうべたっぷり寝ていれば、わからない話といっても少しはわかるかもしれないのに、と総長は思った。あのバカ皇帝!
思い出したら腹がたって、少しだけ目がさめるのに気づいた総長は、ゆうべのことをことさら思い出すように、さっきから努力していた。
でも、たしかに目はさめるのだが、すごく情けなくもなってくるのである。
ありあわせのものを身につけて、皇帝の指輪をにぎりしめて全力疾走でコロセウムにかけつけると、むろん扉は固く閉まっていて、無気味なけもののほえ声だけが地の底からとどろいていた。
こんなところにとじこめられているけものは、囚人はどんな思いがするのだろう、とぞっとしながら総長は、しかし、その中の一人だけは救い出してやれるのだと思って、荒々しく、激しく扉をたたき、声を限りにどなりつづけて、番兵たちをたたき起こした。 寝ぼけまなこのまま、不きげんそのもので扉を開けた番兵たちは険悪な顔で槍や剣をつきつけて総長をぐるりととりまいたが、そんなことには総長はかまってなかった。激しく息をきらせながら、とぎれとぎれに彼は、クマのえさにするために宮殿から送りこまれた召使いをひきわたせと命令し、皇帝の指輪を見せた。
そのへんにあった服をひっかけてきたとはいえ、チュニカは上等の絹地で手のこんだふちどりがしてあり、指輪はたしかに本物だし、何より人に命令しなれた彼の威厳と迫力は番兵たちを圧倒した。ふしょうぶしょうにだが、ひとりでに彼らの態度はうやうやしくなったが、それでもどこかけげんそうで「クマは今いませんぜ」と言った。「十日前、囚人たちの死刑に使ったあと、ライオンと戦わせて、皆、殺しちまったから。何かのまちがいじゃないんですかい?」
「見せろ」総長は命じた。「けものたちのいるところへ案内するんだ。いや、その前に囚人たちがいるなら会わせろ」
番兵たちは何か言いかけたが、総長の断固たる表情に結局口をつぐんで、うすぐらい階段をたいまつをかかげて地下へと下りて行った。

見よい場所ではなかった。意外にきちんと管理されているのが、かえってどこか息づまる感じがした。こもった空気の中に、けものや血の匂いがたちこめている。絶望と死の匂いだ、と総長は思いながら、囚人たちの房の前を行きつ戻りつして大声で叫んでみた。「ティブルティヌス!ティブルティヌス!いるんだったら返事をしろ!助けに来たぞ!」
暗い房のあちこちで人のうごめく気配がして、やせこけた手が何本も格子の間からのばされるのを、ぞっとして総長は見つめた。「おれだ」「おれがティブルティヌスだ」という弱々しい声もいくつもした。
「この三日間、ここに直接つれて来られた囚人はいませんや」番兵がにやにやしながら言った。「夢でも見なすったんじゃあ…」
「うるさい」総長は歯をくいしばってそう言うと、けものたちの檻へ案内しろと命じた。
けものたちは皆起きていた。闇の中で目をぎらぎらと光らせながら歩き回っていた。傷だらけのライオンが生肉のかたまりをうばいあっていた。ペルセウスそっくりのオオカミたちが肩を並べて格子の前にやってきて、敵意をこめて低くうなった。総長は悲しくなった。いったいどこでつかまって、ここまでつれて来られたのだろう?
「人間なんか食わせませんや」かぎ束をじゃらじゃら鳴らして、総長の後ろからついてきていた年とった牢番が勝ちほこったように言った。「毛がぬけちまいます。アリーナに出すまではちゃんと健康管理してねえと…動物も、人間も」
納得できない思いのまま、それでもひきかえすしかないとようやくあきらめて総長がしぶしぶきびすをかえした時、びいい、というしゃがれた鳴き声がして、何かが、ちらばってかきよせられた、こわれた武器のがらくたや、死んだ囚人たちのものらしいすりきれた衣服や、わらくずの中から、ちょこちょことかけ出してきて、総長の足の前でとまった。確信ありげにかけ出してきたわりには、そこで足をとめて、あてもなくまたびいいと鳴いている。
足もとは暗がりでよくわからなかったが、身体をかがめて見ると、猫ぐらいの大きさの、黄色がかった金色の毛のかたまりだった。かたちも何やら猫に似ている。
「これ、何なんだ?」総長は聞いた。
「トラの子でさ」牢番は面白くもなさそうに言った。「母トラがここで生んだらしいんで。親たちが皆アリーナで死んだあと、房の掃除をしていたら、そいつがわらの中にいたんです」牢番は荒っぽいしぐさで、その生きものの首すじをつかんで持ち上げ、総長の鼻先につきつけた。「持っていきますか?手ぶらで帰るのもつまらんでしょう」

さっきから「プール」ということばが何度も耳につく。プールの枠がどうだの、プールに出すのはもう無理だの。
おかしいなあ。総長は思った。このアカデミアにプールなんてあったのかなあ。
丘の斜面に広がっているこのアカデミアは周辺が森や崖で入りくんでいて、その間にどんどん建てましした建物がまったく何の脈絡もなく存在していた。円盤投げ研究センターにしてもカタパルト開発実験センターにしてもアグリッパ天文台にしてもトンボ玉工芸史料館にしても弁論術競技場にしても、どうして、なぜ、そこにあるのか、どう理屈を考えてみてもわからないような位置に平然と鎮座している。
総長は軍人生活が長い。つまり前線の基地の暮らしが長い。そして、ローマ軍の基地こそは、広大で真四角な敷地の中に、幾何学的なまでに整然と構築された、風呂場も馬小屋も病棟も最も的確な位置に正確に配置されている、いやらしいほど徹底して合理的で無駄のない空間だった。そこを見なれ、そこに住みなれている総長にとって、このアカデミアのような、あらゆる論理と機能性を否定しているとしか思えない建物の配置は見ているだけで精神的に苦痛だし、その中を動いているだけで悪夢を見ているような気がして実際に頭が痛くなってくる。できた時にはきっと何か意味があったのだろうが、今ではどうしてそこがらせん階段でないといけないのか、何の理由も見出せないらせん階段だの、絶対に何の必要もないのに一段高くなっている教室の入口だのが、ほとんどもう数歩おきにあらわれるのだ。
そもそも、ここに来て半年近いのに総長は実はまだ、アカデミアの敷地のはしをきわめていない。いや、きわめたのかもしれないが、どこがはしだかわからないのだ。へいもなければ門もない。「学問の府はすべてに対して開かれているのです」と第一学部長は胸をはっていたが、これでは、それは夜中にイノシシものしのし歩くだろうし、昼間からタヌキも走ろうというものだ。
だから、これはもうとっくにアカデミアの外だな、と思って森の中を歩いていると、何だか炭焼き小屋のような小屋があって、近づいてみると、そこは鉄工学講座の特別32号室で、教師がおごそかに剣の刃の成分を生徒たちに説明している授業のまっ最中だったりする。それで、どうしてそこが特別32号室なのかが、これまた死んでもわからない。31号教室も33号教室もないのだ。「なぜなんだ?」とうっかり次の日何げなく施設課長に聞いてみると、うっとことばにつまって「調べておきます」と誇りを傷つけられたような不きげんな声を出した。
「いいよ、別に。ちょっと気になっただけだから」と言って総長はそれきり忘れてしまった。

そうしたら十日ほどして、げっそりやつれた施設課長が奴隷二人に重い書字板を山のようにかつがせて総長室にやってきて、「いろいろ調べてみましたが、今の時点ではこれしかわかりません」と息もたえだえに言った。「ドミティアヌス皇帝のご治世に、三つの流星がティベレ川に落ちた夢を皇后がごらんになり、それを記念して下賜された予算でたてられた建物の教室には皆30という数字がつけられたのです。30号教室から38号教室まで当時はあったのですが、31と35は落雷で、33、34、38号教室は火事で、37号教室は白アリでいずれも倒壊し、今は32号教室だけが残っております」
「わ、わかった、もういい」総長は恐縮してしどろもどろになった。「いいのだ、そんなにくわしく調べてくれなくても、ちょっと聞いてみただけなんだから。で、森の中にあるから特別というわけだな?」
「いや、そこが問題です。帳簿をごらんになりますか?」施設課長は奴隷をうながし、それこそ白アリの巣になりかけていそうな古びた蝋板を、ほこりをたててがたがたどさどさ、総長の机の上において並べた。「どうもよくわかりませんのが、35と38だけ特別と呼んだ記録がここにこうして残っているのです。それから31号教室は常に特31と呼ばれていて、特別31ではありません。この理由として考えられるのは以下の五つ…」
「も、もういい」総長は必死でさえぎった。「私が悪かった。もういいから」
「では理由の説明は省くとして」施設課長は言った。「32と35と38だけが特別と呼ばれるのは、おそらくこの教室ではマントを着たままで授業をうけることが許されていたのではないかと思われます。そして特31というのはサンダルをぬいで入るのが規則になっていたのではないかと」
説明をすませた施設課長は、あー、仕事をしたというような充実した顔で帰って行ったが、総長はおかげでそのあとすぐ会議に走って行かねばならず、昼食を食べそこねて死にそうになった。
しかもその何日かあとで、細長くうすぐらい地下の教室の一つのとびらに「特32教室」と書かれた古い古い銅版がはめこんであるのを見つけてしまった。恐ろしくて、そのわけはまだ誰にも聞けていない。
私の知的好奇心は減退しつつある、と総長は悲しく考えるのだった。

このアカデミアとはそういうところで、だからひょっとしたら、どこか奥まった森の中や、地下の通路にまだ総長が見たことのない巨大なプールがあるのかもしれない。その枠がくさったから、とりかえようという話なのだろうか。
「しかし、うちの講座からは一昨年プールに四人も出したのです」一人が不満そうに言っていた。「それが、帰ってきたのは二人だけでした。おかしいでしょう、どう考えても」
「それをおっしゃるなら、うちが去年出した一人もそのままだ」別の教師が鋭い声で指摘した。「いったい、どこに消えたのでしょうね?」
総長はびっくりした。そんなに次々、人が消えて、どうして皆こんなに落ちついていられるのだろう?プールに行ったらいなくなるということは、殺人事件、それとも事故?あるいは何かの呪いだろうか?
質問するのもはばかられる。第一、そんな初歩的な質問を許してもらえる雰囲気ではない。三十人あまりの教師たちはトーガの肩をいからせて、とげとげしい表情でにらみあい、誰も総長のことなど気にとめてなかった。
誰かの発言を聞いていたら何か手がかりがつかめるかもしれない。そう思った総長は、誰かが何か言うたびに、髪を短く刈った丸いかたちのいい頭を、こころもちかたむけながら、つい、すがるようなまなざしになって、しゃべる相手の顔をじっと見ていた。
「あなたは何もわかっておられませんな!」一人が舌うちした。「さっきから私が言っていることの意味を!」
「そちらこそですよ!」言われた方は平手でテーブルをたたきまくった。「こんなことでは、そもそもプールを作った意味は何だったのかということです!私はそれが言いたいんですよ!」
「問題はなぜいつもこうやって、何人かが消えてしまうかです」別の一人が腕組みして、うなるように言った。
「消えてはおらんと言うとるでしょうが?あなたがそう思っておられるだけで!」
気まずい沈黙が広がる。皆がたがいにそっぽを向き合い、何人かがこの事態を収拾するのはあんたの役目と思うんですがというように、総長の方をちらちらと見た。
「あの…」しかたなく総長はせきばらいした。「ええとその、とにかくこの場合は…そうだな、まず何と言ってもこれは、事実をはっきりさせることからはじめないといけないと思う」
そっぽを向き合ったまま、何人かがうなずいたので、少しだけ勇気の出た総長は言った。「それで、ええと…誰が溺れたのだ?」
皆がふりむいて総長を見た。あっけにとられた顔をしている。
総長はあいまいに手を動かした。「消えたのだろう?…何人も…プールで?」
沈黙がしばらく続き、それから会議室の丸天井が吹きとぶほどの大爆笑が、どっとあたりをゆるがせた。

「総長、なかなかやりますな」会議がおわって皆が解散したあとで四人の学部長と記録のまとめをしていると、第一学部長が感心したように言った。「みごとなおとぼけぶりでした」
「本当に知らなかったんだ」総長はしおれていた。
「まあそれも当然ですよ。苦にすることはありません」第三学部長がなぐさめた。「プールの話はだいたいがややこしすぎます。私も実は今日の話は半分もわかりませんでした」
「書類は前もってさし上げていたはずですがね」第二学部長はぶすっとしてひとり言のように言った。
第四学部長は鼻歌を歌いながら、パピルスをめくっている。
早く家に帰りたいなあ、と総長は思った。

そしてすぐ、そう思った理由に気がついて、また何だかどっと気が重くなった。
最近私は何かにつけて、うっかり手をさし出してしまいすぎる。そう思った。
皇帝が忠誠を誓えとさし出した、あの手をとってしまった、あれも最悪だった。
しかし、ゆうべのあれだって、そうだ。バカさかげんでは甲乙つけがたい。
何でふらふら手をのばして、あの子トラをうけとってしまったのだろう?
番兵につり下げられて、太い四本の脚を宙にもぞもぞさせていた子トラは、総長の腕に抱きとられると、あまり気乗りのしないような、むっつりとした様子で、それでもしがみついてきて、前脚を総長の首に回すようにかけた。
けものの匂いというよりは、ふしぎな香料のような異国の匂いがした。
ペルセウスを初めて抱いたときより重いなと総長はぼんやり思った。そりゃそうだろう。トラだもんな。
ということは、いずれこいつ、トラになるのか。いや、今でもトラなわけだが、あの大きな、しまもようの…ローマに来てすぐ、皇帝に連れられて、いやいや行ったコロセウムで見た動物のパレードの中で、ひときわ巨大で凶暴そうにみえたけものの姿を思い出して総長はうんざりした。あんなになってしまったら、どうやって飼うんだ?ペルセウスの十倍はあるじゃないか。
そう思ったときは、もう番兵たちからうやうやしくだが否応なしに街路に押し出されていて、背後でコロセウムの扉はぴったり閉まり、子トラを抱いたまま、暗い通りに総長は一人で立っていた。
どうしよう。途方にくれて彼は思った。
昔、子どものころ、ひろってきた子犬を抱いたまま、もとのところに捨てておいでと怒られて家を追い出され、日ぐれの前庭でべそをかいていた時のことまで思い出してしまった。
そして、皇帝のことも思った。いっさい弱みを持たずに彼と対決しつづけるためにも、愛するものを身近に持ってはならないと、あんなにまで決意していたのではなかったか。
トラなんか育てて、これ以上、気になることをふやしたら…
そのへんにほっぽって行こうかと総長が、できそうにもないことを思っていると、子トラはふちにぽよぽよ毛のはみだした、丸いやわらかい耳のくっついた大きな頭を眠そうに動かして総長のほおに押しつけてきた。何も心配している様子のない横着な手つきで総長の首にしがみつき、頭を左右に動かしていたが、やがて総長の耳たぶをさがしあてて乳首をくわえるようにそれをくわえた。何度かくわえ直して都合よい位置にすると、力をこめてちゅうちゅうとしゃぶりはじめた。
総長は降服したような深いため息をついた。そして子トラを耳にしゃぶりつかせたまま抱き直して、夜の町を宮殿のあるパランティヌス丘の方へと歩きはじめた。

宮殿に帰りつくと、もっと腹のたつことが待っていた。彼のへやには灯がともり、花が飾られ、冷やしたワインがおいてあった。召使いが一人、入口に立っていて、うやうやしく「お帰りなさいませ」と言った。
「おまえ…は…」総長は口ごもった。「ひょっとして、ティブルティヌス?」
「さようで」はしっこそうな若者は笑った。「お出迎えするようにとの陛下のご命令でした」
彼は何も知らないらしかった。総長はためらいながら聞いてみた。
「最近、鞭で打たれなかったか?」
「私がですか?」若者は目を丸くした。「いいえ」
「クマなんか見てないよな?」
「クマ?はあ?いえ…」若者は聞きたくてたまらなそうに、総長の耳をくわえたまま眠りかけている子トラをじっと見ていた。「それは、クマではないですよね。何ですか…トラ?」
「うん」
「お疲れになって戻られるだろうから、マッサージでもしてさしあげるようにと陛下から言いつかっておりますが」
「ありがたいが、いいよ」総長はがっくりとベッドのはしに腰を下ろした。「ご苦労だった。あ…もしよければ、ミルクか何か持ってきてくれないだろうか、こいつに」
「いいですとも」ティブルティヌスは大喜びで走って行った。
ベッドの上に下ろされた子トラは、絹のふとんが自分の身体の重みで沈むのが珍しいのか、おぼつかない足どりで歩き回っていたが、ティブルティヌスがミルクとパンを入れたわんを持って戻ってくると、目ざとく見つけて床にどさんと飛び下りた。ゆっくり歩みより鼻をわんにつっこんでみるみるたいらげると、ぺろぺろと舌で口のあたりをなめながら、総長の足に手をかけてまたベッドによじのぼった。そして一番気持ちがよさそうなクッションの上にどさりと横になると、身体を丸めて眠りはじめた。
な、何という落ち着きぶりか。総長は見ていてあきれた。
「トイレを作ってやらないといけませんね」ティブルティヌスがうれしそうに言った。「それに、名前もつけないと」
「うん」総長は生返事をした。
「こいつ、牡ですよね。ジュピターとかどうです?バルカンでもいいなあ」
子トラはいつの間にか前足の上に顔をのせ、気楽な寝息をたてていた。

早く家に帰りたい、と思うのは、私はあれに会いたいのだな。
四人の学部長が去ったへやで、書類をたばねて紐でしばりながら総長はため息をついた。
もう情がうつってしまっている。あの子トラに。
こんなことでいいのだろうか。まったく先が思いやられるではないか。
お留守の間はちゃんと世話をしておきますよ、と今朝出かける時、ティブルティヌスはうけあってくれた。子トラはそんなことはまるで気にしていないようで、庭に出てしっぽを山形にかまえながら、蝶を追っかけて、ななめに走ってはぴたっと止まったりして、はしゃぎ回っていた。初めて浴びる日の光がうれしいのだろう。オレンジ色の淡い毛皮が金色に輝いていた。
名前はつけないようにしよう、と総長は思った。いついなくなるのかわからないのだから。

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