映画「グラディエーター」小説編アカデミアにて-3

その6 コロセウムへのお誘い

総長は剣闘士奴隷になってコロセウムにひき出された夢を見ていた。貴賓席からコモドゥスがにやにや笑って見下ろしていた。腹がたったので、持っていた剣を投げつけて玉座の前の丸テーブルの上の水差しをまっぷたつにしてやると、コモドゥスは怒って大きなトラになってとびかかってきて、総長を地面におさえつけた。そして太い前足で総長の首を抱きかかえ、キスしようとするので総長は剣でつきさしてやろうと思ったが、さっき投げつけてしまったのでもう剣はなく、コモドゥスはトラの顔でうれしそうに笑ってあごをすりよせてきて、鳴いた。
びいいいい。
総長はうんざりして目をさました。夢の中と目がさめてからと、どちらがよりうんざりしたかは判断がつけがたかった。朝である。やわらかなふとんの上に、やわらかい陽射しがさしこみ、やわらかい枕の上に総長の頭は沈みこみ、その胸の上からのどにかけて、四本の足をべたりと広げるようにして、子トラが寝ていた。もう相当に大きくなって、頭の大きさなど総長のそれとあまりかわらない気さえする。
「どいてくれ」総長は身体を動かさないまま、声だけ出した。
子トラは金色の目をぱちつかせて総長を見た。針金のように太いひげが、ぴんぴんと左右に張って小さく動いている。
「たのむから」総長はうめいた。「重いんだ」
ああ、妻にも同じことを言ったことがあったなあと思って総長は目を閉じた。長い髪を乱しながら総長の肩に顔を伏せ、くぐもった声で低く笑った声とともに妻の身体の感触が思い出されて、なつかしさに全身がうずくようだった。いったい今、どうしているのだろう?そろそろキケロが何か知らせを持ってこないかなあ。
子トラは庭の方で何か気になる音でもしたのか、顔を起こして耳をすませていたが、やがて太い前足で総長の胸を思いきりふみつけて、ベッドをとび下り、走って行ってしまった。

こんなくだらない夢を見たというのも、と総長は金ぴかの彫刻がほどこされた天井を見まいとして、太い腕を曲げて目の上にのせながら思った。昨日、コモドゥス新皇帝にむりやりにコロセウムに連れて行かれて、剣闘士競技を一日たっぷり見物させられたからにちがいない。
四五日前、アカデミアに出かけるしたくをしていると新皇帝がやってきて、背中で腕を組みながら「どうだ、アカデミアにはもう慣れたか?」と慈悲深そうな声でたずねた。
何と答えたものか総長が迷って黙って見返していると、コモドゥスはますます情け深げに「困っていることがあったら何でも言え」と言った。「大抵のことなら、かなえてやるぞ。あそこの門をもっと大きく立派にして金を張ってみたらどうだろう?丘の上だし朝日に輝いてきれいだと思うのだが」
「いったんそういうものを作っていただくと、あとの維持管理が大変ですので」総長は言った。「それより人手をもっと増やしていただきたいのですが。学内は草ぼうぼうで、キャンパスクリーンデーと言って、授業も休んで教師と学生が草刈りをしているのが現状です」
「よいではないか。教育上有効だ」皇帝は天井を見上げてうそぶいた。「最近の若い者は甘やかされているからな」
「お言葉ですが」総長は言い返した。「都の大抵の家にはある日除けさえ、アカデミアの教室には予算がないのでつけられなくて、学生は焼け死にそうになりながら講義を受けています。図書室の本は皆十年以上も前のものばかり、新しい研究書はまったく買えません。薬草、楽器、武器、測量器具、すべてが不足しています」
「わが帝国は今、貧しいのだ」コモドゥスは深刻な顔をした。「財源の確保で私は日夜苦心している。頭が割れるように痛い。この苦労を誰もわかろうとしてくれぬ。余はもう限界だ。いっそもう何もかも投げ出そうかと思う時がある」
そうしてくれたら皆がどんなに助かることかと総長は陰鬱な気持ちで考えた。
「あまりご無理をなさいませんように」と言いながら、自分にも相手にも心の底からうんざりした。
「まったくだ。まったくだ」皇帝はうなずいた。「時には息抜きもしなくてはと余も思う」
そんなこと言ってないぞと総長は思った。
「それでだな」皇帝はもったいぶった声でたずねた。「おまえ、明日、ひまか?」
「会議が三つございます」
「あさっては?」
「会議と式典と、改修工事の打ち合わせが」
「その次の日は?」
「予算委員会と人事委員会…」
「おまえなあ」コモドゥスはすごんだ。「余とつきあうのがいやなのか?」
そういう問題ではないだろうと総長は思った。だいたいコモドゥスは皇帝なのだから命令すればそれまでなのに、それに気づいてないのだろうか。
いや、昔からそうだったなあと総長は思い出した。

幼い、ひよわな少年だったコモドゥスは、父や姉に連れられて、ローマの郊外にあった小さな駐屯地によくマキシマスを訪ねてきた。一人で来ることもよくあった。皇太子として何でも命令できるのに、彼は上官の前でマキシマスに「どうしたい?」と聞くことがしばしばあった。「御意のままに」とでも答えようものなら、たちまち不機嫌になり暗い目をした。「ごいっしょしたいと思います」とでも言おうものなら、哀れなぐらいに目を輝かせ、上官に「彼もああ言っているし、一日借りてもいいかな?」と聞く。どうぞ、と笑いをかみ殺しながら上官がうなずく。何度かくり返される内にそれは儀式のようになり、マキシマスも「おともしたいです」「私がそうしたいのです」と言うようになった。
私はあの頃から、と総長はちょっと吐息をついて思う。いいかげんなところがあった。コモドゥスが本当はしたいことを、こちらがしたがっているように示す、それを聞き入れてやっているという風にするのがそんなにうれしがられるのなら、そういうようにしてやればいい、そうあっさり思うようなところが。
そして時々、コモドゥスがあからさまにそれでうれしそうにするのが、泣きたいぐらいに切なかった。顔をそむけたいぐらいに恥ずかしかった。何と淋しい方だろう。何と哀しい方なのだろう。
姉のルッシラがいつも昂然と顔を上げ、きっぱりと「こちらに来なさい、マキシマス」「これを食べなさい」「もういいから帰りなさい」と命令するのが、何と対照的だったことか。しかも、それは常に、マキシマスを見ていて、彼が望んでいることを見てとって、それをかなえるかたちで下される命令だった。時には命令されて初めて、あ、自分はそうしたかったのだ、と自分で気づいて驚くことさえあった。
生まれながらの皇帝の器だ、この姫は。
そう思う一方で、そのあまりの鋭さと、先へ先へと人をだしぬくすばやさが、恐ろしく不安な気もしたのだった。

「コロセウムに行こうと思っているのだ」じれったそうに新皇帝は言った。「必ずしも息抜きにはならない、あそこに行ったからと行って…民衆が余を見たがっているのに応えてやらなくてはならんから、やむを得ず行くのだが。それでおまえもたまにはああいうところに顔を出しておいた方が、アカデミアのためにも何かとよかろうと思ってな。民衆に顔を売っておけば、予算もとりやすくなるぞ。元老院のバカどもからな」
「お心づかい、感謝いたします」
でもコロセウムなんか行きたくないと総長は猛烈に思った。だいたい、あそこに連れて来られるライオン一匹にかかる費用でアカデミアの教師が十人は雇えるのではないだろうか。
「あれこそはローマの栄光を示すものだよ」誇らしげに皇帝は言った。「これだけのぜいたくをしてもローマはびくともしないということを世界に示す、どんな防壁よりもすぐれた防壁だ」
アカデミアには草がぼうぼうでもですかと、のどまで出かけたことばを総長はのみこんだ。私が蛮族の長だったら、学問の府を荒れ放題にしてコロセウムに熱狂している国民など尊敬も畏怖もする気にはなれまい。
「あれを見ないと、ローマはわからない」皇帝が言っていた。「民衆の心もな」
「一度、つれて行っていただきました」総長は気弱にほほえんだ。「ローマに来てすぐ。お忘れですか?」
「動物のパレードだけだったろ?」
「死刑も見物いたしました」
「あんなもの退屈なだけだよ」コモドゥスはうれしそうに後ろ手に手を組んだまま、部屋の中を歩き回った。「剣闘士競技を見なくては!」
「はあ」総長は目を伏せ、ため息とも返事ともつかない声を出した。
「見たことないだろ?」
「ありません」
「一度見たら、やみつきになる」皇帝は楽しそうだった。「おまえはきっと夢中になるよ」
「そうでしょうか」
「行きたいだろう?見たいよな?」
行きたくもないし、見たくもない、という思いをこめて総長は訴えるように皇帝を見た。そして子トラが時々するように、声を出さずに口のかたちだけで「…はあ」と言った。
「そうか」皇帝はにこにこした。「ではコロセウムの支配人に聞いて、よいだし物のありそうな日の席を準備させておくぞ」
そして紫色のマントをひるがえして、はずんだ足どりで去って行った。
どうしてこうなるんだ、とがっくりしてそれを見送りながら総長は思った。

総長はこのごろよく、いつも仏頂面できげんが悪く、兄たちをなぐっていた父親のことを思い出すのである。どうしていつもあんなに怒っているんだろう、と子ども心にふしぎだったが、何となく今ではその気持ちがわかるのである。
特に、まだそんなに年でもないのに、ぼけてるんじゃないかと心配になるぐらい、母や近所の人や世話になっている人とした約束を、かぱっと忘れてしまっていることがあった。そして、すまなそうな顔をするどころか、ますます不きげんになって、いきなり椅子を壁にたたきつけてこわしてしまったりしていた。慣れているから家族はもう誰も恐がりもせず、またかよーという目で皆で冷やかに見ていた、それも思い出す。
今思うと、しみじみわかる。あれは、断ろうにも断りようがなく、いやいや、しぶしぶ、ひきうけた人間の潜在意識下の最後の抵抗なのである。相手が忘れてくれないかなあ、忘れてくれたらいいなあと願っている内、かわりに自分が忘れるのだ。結婚前、妻が珍しく料理を作ってくれた時、あまり待たせるものだから腹ぺこになり、皿を目の前におかれたとたん「ありがとう」というつもりが間違えて「おまちどおさま」と言ってしまい、妻を泣かせたことがあった、あれと似た心理である。相手にしてほしいことや言うべきだと感じていることを、代わりにこちらが言ったりしたりしてしまうのだ。そして、そうやって忘れていたことをまた思い出させられると、こんなに自分がいやがってるということに気づかず約束させて、まだこうなってもそれに気づかない相手が、しんそこ、うとましいのである。
今回、総長は完璧にそんな父親の気持ちを理解した。
皇帝と交わしていたコロセウム行きの約束をみごとに忘れた。忘れきってしまったのである。

軍人で、人の上に立つ立場の人間に、言いわけや愚痴は許されない。将軍として数千人の軍団の生命を一手ににぎり、判断を下し命令してきた総長は、それが今でも肌身にしみつき、だから言いわけなどは頭の中でさえ考えつかない。だから作者の私が代わって弁解してやると、総長がコロセウム行きを忘れてしまったというのも、実は無理がなかったのだ。
その日の朝、総長が子トラが乗っていないか、クッションというクッションを充分にはたいてみてから輿に乗り込んでアカデミアに行くと、ひびわれたところに蔦や雑草が生えかけている大理石の門柱のところに、四人の学部長が立っていて、総長が輿を下りるなり近づいてきて、「まことにゆゆしい事態です」と声をひそめて報告した。「皇帝陛下はついに、わがアカデミアをとりつぶしにかかりはじめましたぞ」
「アカデミア?」総長は四人の顔を見回した。「元老院ではなかったのか?」
言ってからすぐ、あっ、それは機密事項だったのかなとあわてたが、幸い学部長たちは気づかなかったようだった。だいたい彼らは自分が何か話したい時は、ほとんど他人の話を聞かない。きっと講義の間、黙って聞いている学生に一方的にしゃべりまくるのが癖になっているのだろう。でもまあこの際それでよかったと総長はひそかに胸をなでおろし、重々しい顔を作ってたずねた。「それは、いったい、どういうことだ?」
「まあどうか、この巻物をごらん下さい」第一学部長は、手にした巻物を総長の前に広げ、その上に門柱の上のバラの花がひらひらと花びらを散らすのを見上げて「じゃまだな」とつぶやいた。「ごらん下さい。今朝届いた予算案です」
総長は真剣に見つめるふりをした。これでも軍の兵器や馬の予算ならざっと見ただけですぐわかるのだが、このアカデミアの予算ときたら、どういう形式になっているのか見てもさっぱりわからない。
「もう、この綴りと文法がまちがいだらけでして」第一学部長は鼻を鳴らした。
「計算もまちがっていまして」第二学部長がわきから、指差して教えた。「初等の簿記を習った人間なら、こんな間違いはしないはずですがなあ」
「元老院にもはかっていないそうですから、きっと皇帝が一人で作ったのでしょう」第三学部長は、もはや敬語も省いている。
まさか、と言いかけて総長は、あり得るかも、と思い直した。数日前にコモドゥスが寝不足の赤い目で、でも妙に満足そうな顔をして、あー、ゆうべはよく仕事をした、山ほど書類を書いた、私がいなければ本当にこの国はどうなることやらとか言ってなかったっけか?
総長はため息と動揺をおさえようとして、まぶしくふりそそぐ木洩れ日を見上げて目を細めた。
「どこかでゆっくり話を聞こうか」
「どうぞこちらへ」第四学部長がトーガをひらめかせて、手を大きく一方へのばして振った。「特501教室で皆で話し合いをしていたところです」
そして四人は総長をとりかこむようにして、総長が大32教室とずっと思っていた大きな階段教室へ入って行った。

こんもり茂った木々の緑を透かしたやわらかい金色の光が、この教室にも流れこんでいた。季節はもう初夏に近い、と総長はぼんやり思った。教室のあちこちに白や青や薄茶色のトーガに身をつつんだアカデミアの教師たちがいて、何人かづつのかたまりになって熱心に何かを話し合ったり、手にした書類をのぞきこんだりしている。ふだん総長直属の会議にはあまり出てこない(つまりまだそれほど地位が高くない)若い教師たちの顔もたくさん見えた。
「そもそも、このアカデミアを改革する趣旨という書き付けをごらん下さい」第二学部長が椅子に座った総長の前に、するすると長い巻物を広げてみせた。「市民の金を使って広大な敷地を占有し、日がな一日遊んで暮らして高給をとっているアカデミアの教師たちに、もっと効率よく働いて世の中の役に立つ仕事をしてもらうという内容です」
総長はあいまいにうなずいた。
「我々が高給?笑わせますな」第一学部長が首をふった。「それはさておき、効率よく働いてもらうために、六年ごとの中期目標・中期計画というのを出させ、その計画が実行できない教師はクビにし、学部は廃止しようというのです」
「それで今、あちこちで大騒ぎ」第四学部長が顔をしかめた。「大きな計画を出して実行できなかったら評価が低くなる。しかし、それを怖れてけちな計画を出すと、これまた評価が低くなる。あまり努力しなくても達成できて、しかもそれなりに何かやったように見えるぎりぎりの線はどこか、皆が必死で模索しています」
「そんなものを一律に六年間の計画にして出せと押しつけてくるのがそもそも、皇帝には学問の何たるかがまったくわかっていないということです」第二学部長が舌打ちした。
「だが、アカデミアをもっと市民に役立つようなよいものに変えようということ自体は悪いことではあるまい」総長は一応言ってみた。
「そんなのは、ただの口実」第三学部長が首をすくめた。「皇帝は、ただ我々に与える予算を削って、大規模なコロセウム建設や、その他バカなものに回したいだけです」
「学部長、ちょっとこれを見て下さい」若い教師の一人が歩みよってきた。「何かおかしいと思ったら、この計算が変なんです。ごまかしですよ。元老院が認めて、アカデミアに与えることにした予算の原案と、こんなにくいちがっています」
「うむうむ、なるほど」第二学部長は目を光らせて書類を手にとった。「ちなみに私は初めに見た時から、この、退職する教師のあとに新しく雇われてくる若い教師を同じ給料で計算しているのが、おかしいと思っておったのだが」
「こちらも見ていただけますか」中年の教師が近づいてきた。「この第三条の解釈ですが、ローマ法のこの部分と照らし合わせると明らかに矛盾が生じてきませんかね。私の読み方が悪いのかな」
「それに、この委員会の構成も変ですよ。何を基準に決めたものやら」
「それはですね、近衛隊長をどうしてもメンバーに入れたいから、こういう構成にしてしまってるのです」
「なるほど、何とも姑息な手段だ」
「これでは実際に動けませんよ。ここで決定したことを、どういう経緯で実際に流すのか、何も考えられていない」
彼らの会話はきびきびと活気にあふれていて、総長は何だかこれと似たものを見たなあと思っていてようやく気づくと、前線で出陣する前、テントで部下の将官たちと作戦会議をしている時とそっくりなのだった。「なあ、ちょっと聞くが」と彼は思わず第一学部長に身体をよせてささやいた。「この人たちは皆、教師だよな?あの人は天文学、こちらの人は倫理学…ではなかったか?」
「そうですとも」相手はふしぎそうに総長の顔を見直した。「それがどうかいたしましたか?」

いやまあ、どういたしましたかと聞かれるとそれは困るのだが。
しかし何となく総長は、イメージとしてはアカデミアの教師というのは、金のこととか規則のこととか、そういうことには関心がなくて、朝から晩まで本ばかり読んでいるものなんじゃないのかなあと思っていたのだ。その合間にはせいぜいが、ぼーっと空を見とれたり、わけのわからん虫をつかまえてにこにこしていたりとか。
たしかに毎日会議ばかりで、金や規則や役職のことを皆がせっせと議論していたが、どれもがあまりに細かくて総長の感覚では正気の沙汰とは思えなかったため、何となくどことなく総長は、あれは一種の知的ゲームで、ひまつぶしで、遊んでいるのだろうと感じていたのだった。よもやまさか真剣にこうやって、実際の給料や規則のことに彼らが関心があるのだとは、どうしても心のどこかで信じられない。そして、彼らのあのような議論が実際の規則やアカデミアの運営の役にたつのだということも。
なのに、この教師たちのてきぱきと有能そうな会話はどうだろう。聞いていると、白昼夢の世界にさまよいこんだような気がしてくる。
「ええと、その」総長は首をかしげた。「こうしたことは本来その…書記官や代書人が詳しいのでは…そういう者たちがする仕事なのでは」
「そうですよ」若い生意気そうな教師の一人が面白くもなさそうに書類をめくりながら吐き捨てた。「昔はね、そうだったんです。我々は学問だけしてればよかった。ところがこのところ十年ばかり、予算が削られ、アカデミアにいた書記官も代書人も皆いなくなって、しょーがないから、我々が皆、書類仕事をさせられてたんです。予算も、人事も、カリキュラムもね」
「こわれた建物の修理、泥棒の撃退も」別の教師がつけ加えた。「ですから今やアカデミアの教師は、事務も大工も家事も商売も戦闘も、何でもやれるようになってるんです。皇帝も、その周辺のへなちょこ書記官どもも、アカデミアの教師は世間知らずだから、金の計算や条文作りは苦手だろうと思ってるんでしょうが、とんでもない。予算削って、書記官減らして、我々に仕事を押しつけてきたつけが回ってきたと思ってほしいな。おいそれとはだませない、マルチ集団を自分たちが長年かかってアカデミアの中に養成したんだ。もっと我々に学問だけさせて、いい環境においといてくれれば、赤子の手をねじるように簡単にだませてアカデミア改革なんて自分たちの都合いいようにいくらでもできたんでしょうがね。おあいにくさまってやつですよ」
でも、教師たちがそんな風になってしまってること自体、ひょっとしてそれはもう、アカデミアの崩壊なのじゃないかと総長はひそかに思ったが、むろん口には出せなかった。「そうか」とだけ言った。「ではもう君たちには恐いものはないわけだな」
「ええ、皇帝でも元老院でも近衛隊でも何でもこいですよ。あ、それで思い出したが」若い教師がひざを打った。「皆さん知ってますか?皇帝がよこした、この新しいアカデミアの組織図とやらを見て下さい。これまであった委員会という名前が廃されて、皆、戦略室という名前になってるんですよ。学問と教育の世界に戦略という用語ほどなじまないものはないのに、まったく何を考えているんでしょうか」

「ふん、我々を軍隊組織にしたいのだろうよ。幼稚なやつに限って戦争ごっこが好きだからな」老教師の一人が皮肉っぽく言った。「どうせその内に教室は前線、生徒は兵士、総長は将軍とでも呼べと言い出すのだろう。おや、これは失礼、総長はもともと将軍であらせられた」
いやみかよと総長は鼻白んだ。それには気づかないように別の教師が「僕は皇帝にはそんな深い考えはないと思いますよ」と言い出した。「おそらく、ギリシャのアカデミアについての本から組織図をそのまま丸写しして翻訳する時、辞書ひいて、最初に出てきた意味を何も考えずにあてはめたんだ。その程度ですよ、皇帝の頭も、言語感覚も」
「なるほどそうかもしれないね。ともかく、ここは一刻も早く対案を作って元老院に提出することだな」
「まかせて下さい、昼までには草稿を作れます」
「では、それは君に頼むとして、ここの数字のチェックはどうするかだ」
何だかだって、これこそ戦略室そのものじゃないかと総長が思っていると、いきなりあけはなしになっていた扉の方から、「マキシマス!」とせっぱつまった声がした。「何をしてるんだ、こんなとこで、まだ!?」
ふりむくと、近衛隊長のクイントゥスだった。汗びっしょりになって息を切らしている。「陛下がお待ちだぞ!」と彼は言った。「宮殿で、もうずっと前から!」
抑えた声音だったが、戦場できたえた声はよくとおる。その場にいあわせた教師たちは皆、一度にふりむいた。

あー、まずいととっさに総長は思った。教師たちは皆、変にしらっとした冷たい目で総長と近衛隊長を見比べている。クイントゥスがまた、こういう時いつもするように、一番してはいけないことをした。マントをひるがえして教室の中に踏み込んできながら、じろりと皆を見渡して「勤務時間中なのじゃないのか」とひとり言のように言ったのだ。「授業もしないで、皆で集まって何をしているのだ?」
「アカデミアの未来を考えているのだ」総長はとりあえず、とっさにそう言った。「皆、真剣に…」
「未来?そんなことぐずぐず話し合ってると、未来なんてなくなるぞ」クイントゥスは苦々しげに言った。「しっかりしてほしいものだな。私はここの出身だ。政界、教育界、軍関係の同窓生が、最近のアカデミアの低迷ぶりにどれだけ心を痛めているかわかるかね?四千人の同窓生の総意として君たちに言っておくが、皇帝と不要な対立などしないで…」
「あ、三九九九人にしておいて下さい」若い教師の一人が恐れ気もなく口をはさんだ。「私もここの卒業生です」
「いや、三九九八人ですよ」もう一人がつけ加えた。「僕もここの卒業生だから」
クイントゥスは剣に手をかけ、一歩踏み出しかけた。総長はその前に立ちふさがった。
「陛下が待っておられるんだろ?」そう言って、まだ何か言い返そうとしている旧友を、むりやり教室の外に押し出した。教師たちの不信と疑惑にみちた視線を痛いほど背中に感じながら。

その7 皇帝の画期的発想

息を切らせて宮殿の控えの間に現れた総長と近衛隊長を、皇帝はじろりと見たが、何でこんなに遅かったとか、待ちくたびれたぞとは言わなかった。かわりに、冠を取り替えてくるから待つようにと不機嫌そうに言いおいて、奥に入って行ってしまった。
マキシマスとクイントゥスはちょっとほっとした、拍子抜けした顔を見合わせた。
「やれやれ」とクイントゥスが誰にともなく言って、かぶとを抱え直した。「てっきり雷が落ちると思っていたが」
「待たされたことを認めたら沽券にかかわると思ったんだろ」総長は壁によりかかりながら言った。「こっちを待たせて、皇帝らしくしたかったんだ」
クイントゥスは首をふった。「おまえはふだん、あんまり意地悪な方でもないし、気がつく方でもないと思うが、彼の…陛下のこととなると、不思議なくらいうがったことを言うんだな。何だかだ言っても気心が知れているというか」
そういうことを言うのは、おまえも陛下とかなり気心の知れあう仲になったという自信か余裕が出てきたんだなと思いかけて総長は吐息をついた。自分はクイントゥスが思っているより、本当はとても意地悪な性格なのかもしれない。
「なあ」彼は、手持ち無沙汰そうに壁の浮き彫りをながめている旧友に声をかけてみた。
「ん?」クイントゥスはふり向いた。
「アカデミアの教師って、事務仕事に詳しいので驚いてるんだが、あれは最近のことなのか?」
「ああ、まあな」クイントゥスはゆううつそうに言った。
「皇帝がろくに予算をよこさないから、何から何まで教師たちが自分でしなければならなくなって大工仕事も書類仕事も何でもござれ、恐いものなどないと彼らは豪語していたが」
「そのとおりだ」クイントゥスはあっさり認め、吐息をついて髪をかきあげた。「書記官が書類の書き方がわからなくて、教師の研究室の前に何人も並んで立ってたという話もあるぐらい、アカデミアの事務は錯綜をきわめ、専門に担当している教師にしかわからんのだよ」
「んなこと言っても、もともと彼らの仕事じゃないだろ」
「そりゃあ、二十年も前ならなあ」クイントゥスは遠い目をした。「アカデミアの教師は世間知らずの専門バカでよかったさ。だが、この十何年というもの、戦争のための費用とか、大規模な土木建築とか、エジプト王朝とのおつきあいとか、何だかだと国庫がものいりでな、そのしわよせがアカデミアにもきてる」
「でも先帝はいつもおっしゃっていた。学問は国の基本だと…」
「口ではな」クイントゥスはそう言ってから、マキシマスの目の青い色がかすかに濃くなったのに気づいたのか、首をふって言い直した。「お気持としてはそうだったのだろうさ。だが現実はそうはいかない。事実として、軍事関係、建築関係の予算が高騰してるのにひきかえりゃ、アカデミアの予算は増えてないし、人減らしが進んでる。おれの家なんか代々アカデミアの出身だから、寄付ばかりとられてたまったものじゃないと、おやじが悲鳴をあげている」

「人減らしってことは、書記官や代書人がいなくなるってこと?」
「その前に、掃除や草取りをする奴隷たちが削られた。警備兵たちもな」クイントゥスが説明した。「だから、あんなに草ぼうぼうだし、授業のための資料なども皆、教師が自分で印刷してる。書類も全部自分で書く。だから最近のあそこの教師たちときたら、いつでも秘書や書記官になれるぐらいの事務能力がある。詩を作るより、自分たちが損しない契約書を書くのがお得意だ」
そりゃまあなあ、あれだけ毎日会議ばっかりしていればなあ。そういうことに詳しくもなるよな。総長はため息をついた。
「それにしても大学っていうところは、どうしてこう書類が多いんだろう。軍隊はこうじゃなかったのにな」
「バカ言え」クイントゥスはうんざりしたように答えた。「軍隊だって書類は多かったさ。おまえが書かなかっただけだ」
二人の目が合い、総長は思わず「すまん」と口走った。「そういうことだったのか」
「まあ、キケロもかなり書いてたがな」クイントゥスは恐ろしいことをさらりと言ってのけた。「馬のえさ代とか橋の工事の代金とか人夫をやとう契約とか。おまえの印を勝手にぼんぼん押してたぞ。いいのかと一度聞いたら、このようなことでお心をわずらわせたくありません、もっと大事なことだけを考えていていただきたいのですと、びくともせずに答えやがった。そりゃ将軍にもなるわなあと思ったもんだよ、あん時、おれは、おまえのことを」そしてクイントゥスは思い出したように総長を見た。「元気か、キケロ?今どうしてる?どこにいるんだ?」
「さあ…どうなんだろうな」総長はことばを濁した。
「犬もつれて行ったのか?」クイントゥスは聞いた。「あのでかい…狼だか犬だか知らんが。ペルセウスとかいってたやつ」
「うん」思い出して総長はしょんぼりした。
「かわりの犬は飼わんのか?」
向こうの入口を、子トラがどさどさ横切って走って行ったのが見えて、総長はぎょっとした。クイントゥスは幸い気づかなかったようだ。「遅いな、皇帝は」と身体をよじってふり向きながら、奥の方を気にした。「あの冠でかまわない、大変似合っておられますと申し上げたらよかったのだが」

ようやくコモドゥスが現れた。黒いうねった髪の頭に、細い金の月桂冠をいかにもさりげなく、ちょっとのせてみたという風情でかぶっている。そのように見えるために、ずいぶん前髪の位置とかに気をつけたにちがいないと総長は思った。「マキシマス」と彼はさっき会ったことを忘れたような言い方をした。「ずいぶん遅かったではないか」
待たせてカッコつけようと思っていたのではなくて、こちらに文句をつける言い方を考えていたのかもしれない。コモドゥスは変なところでマキシマスに遠慮して、それを気づかれないように工夫することがある。だからと言って、それで図にのると危ない。総長は神妙に一礼した。
「会議が…」
「もうそれには聞き飽きたぞ」皆まで言わせず皇帝はせきこんで言った。「おまえは二言めには会議会議と言うけれど、何でそうまで会議ごときに時間をとられるか、余には何としてもわからぬ。おまえは総長なのだぞ。立派な辞令と権限を余がそちに与えているのだ。もっとじゃんじゃん、好きなように指導力を発揮できぬのか。迂遠な議論ばかりして、トップダウンのできぬアカデミアなど、早晩苔が生えて滅びるにちがいないと、あそこの白ひげじじいどもに言ってやれ。何なら二三人、死刑にしようか?その方がおまえがやりやすいなら」
「いえ、お気持ちだけで」総長は一礼した。「何といってもあれだけの大きな組織を動かすわけですから、現場の者たちの声を聞かなくてはやってはいけません。私はアカデミアのことはまだ仕組みも伝統も何も知りませぬゆえ、前からいる教師たちの話を聞きながら進めないことには」
「そこが不思議でならんというのだ」皇帝は腕組みした。「余も皇帝になったけれど、帝国の政治のしくみも法律も何も知らぬぞ」
「何かそれが自慢になるのですか」総長は思わず言い返した。
クイントゥスが隣りでぎくっと、かぶとを抱え直したのを目のはしに感じた。だが皇帝は怒った風でもなく、「最後まで聞け」と言った。「そういうことは知らなくっても少しも困らないということを、おまえに教えてやりたいのだ」
ご親切かたじけなく、といやみを言いかけた総長は、クイントゥスにかぶとのはしで思いきり背中をこづかれて思いとどまった。
「委員会だの会議だのに出たら、これまでの議事録や資料を、象でも運べそうにないほどたくさん、どさっと渡される」皇帝は不愉快そうに鼻にしわをよせた。「こっちはそれを全部読んでからでないと、議論にも加われない。新参者は圧倒的に不利だ。そうは思わぬか?」
「しかたがございませんでしょう。これまで皆が討論してきた、その積み上げというものがあるのですから」
「そんなことは理不尽だ。不合理だ。時間の無駄だ」皇帝は言った。「だから、余はどんな会議でも行った最初に宣言することにした。これまでの議論は皆なかったことにしよう。すべて一から考え直しだ」唖然とした総長を見て、皇帝は満足そうに目を細めた。「これで皆が同じスタートラインにたつわけで、時間は無駄にはならない」
「なってますよ」クイントゥスがトーガをひっぱっているようだったが、総長は無視した。「それまで皆が長いこと話しあって、ここまでは一致できるとか、合意できるとか、決めてきたのでしょうに。それに費やした時間と労力はどうなるのですか?」
「こんなこともご存じないのですかとか、それはもう去年話し合いましたとか、それにはこういういきさつがあってあーたらこーたらとか言って人を脅かし口を封じようとするやつらほど、私がむかつくものはない」コモドゥスは言った。「余が加わった時から歴史が始まる、そう思ってほしいものだ」
「それではかえって大変でしょう」総長は本気で心配した。「全部自分で何もかも考えて作らなくてはならなくなるのですから。そんな風だから…」言いかけてさすがにいったん口を閉ざしたが、皇帝は無邪気そうな顔で見つめ返しているので、こいつ何にもわかってないなと思った総長は、ままよと思って一気に続けた。「だからあのアカデミア関係の規程だって、歴史も伝統も現場の声もまったく無視したものになってしまうんです。どうしてもっと実際にたずさわっている人の考えを聞こうとされないのですか?それをとりまとめた方が結局、一番簡単ですよ」クイントゥスが壁の水時計をしきりに見ては足を踏みかえ、せきばらいして、早く出かけないとという顔を露骨にしてみせていたが、総長は無視した。「アカデミアでは、陛下の出された案に対抗する案を教師たちがまとめつつあります。数日中には元老院に提出されますでしょう。陛下の案が否決されたらどうなさるのです?早く、アカデミアの教師の代表を招いて、彼らの意見をとりいれて、少しでも修正した案を作ったらまだ間にあう…」
「そろそろ出かけませんと、道路がこみはじめますが」クイントゥスがひかえめに、しかし断固として口をはさんできた。
「おお、そうであったな」皇帝はにこにこした。「ではマキシマス、話の続きはコロセウムで死刑を見物しながらでも、ゆっくり聞くことにしようではないか」

道路は本当に混んでいた。コロセウムの少し手前のあたりで輿はつかえて、にっちもさっちも動かなくなった。死刑なんか見たくないからちょうどいいやと思って総長は、クッションにもたれて紫と金の房飾りを指でひっぱってもてあそんでいた。
アカデミアはどうなるのだろう?学生たちは何を考えているのだろう?
彼らと話す機会を作らなくてはと総長は思った。何か授業でもさせてもらうわけにはいかないだろうか。資格とか何とか、教師たちはやかましいことを言うだろうからむずかしいかなあ。
人々のざわめきが一段と大きくなり、聞きなれない獣のほえ声が、そのざわめきを圧倒してひびいてきた。たれ布の間からのぞくと、大きな鼻の長い獣がのっそりのっそり歩いている。あれが本で見た、昔アルプスを越えたという、象という動物ではないのだろうか。総長がそう思って見とれていると、ようやく輿がとまって、奴隷たちがうやうやしくたれ布をかかげた。
総長はトーガをからげて身軽に地面にとびおりた。皇帝はもう先に下りていて、きげんよくあたりを見回しながら人々の歓呼に応えている。
「姉上はまだかな」近寄って行ったマキシマスに、皇帝は話しかけた。
「お見えになるのですか」
「うむ、もう先に席についているかもしれない。ルシアスを連れてな」
総長は思わず眉をひそめた。「ルシアスさまを、ここに?」
「そうだ。こういう競技や死刑を幼いうちから見せておくことが、強いローマ人の養成につながるのだよ」皇帝は楽しそうに言った。
私の子どもには見せたくない。皇帝の後につづいてコロセウムの中に入っていきながら、総長はかたくなに心の中でつぶやいた。それにしても今ごろ、どうしているのだろう?最後に抱き上げてからもう一年になろうとしている。
ずいぶん重くなったんだろうな。
総長は悲しかった。年毎に、日毎に重くなっていく息子の体重を両手にたしかめていたかった。子どもの重さを知らない年がいくつもいくつも重なるなんて、何ともひどい話だと思う。

「今日のだし物は何ですか」階段を上りながらクイントゥスが皇帝に話しかけている。
皇帝はさっきコロセウムの支配人がうやうやしく手渡したプログラムを広げて、歩きながら見ていた。「田舎から出てきた興行師のところの奴隷たちが、ハンニバル軍になるらしいな」彼は言った。「それをスキピオの戦車が皆殺しにするのだそうだ。しかし、わからんな。劇場支配人のカッシウスのやることは、最近とみにえげつなくなっている。観客に受けようとする一心で、でたらめもいいところの予告ビラばかり作るから、ふたを開けてみたら、まったくちがったものだったりする」
「先ほどの話ですが」総長はくいさがった。「元老院への対応はどうなさるのです?あくまでも、あの案を出して押し切られるおつもりですか。アカデミアの教師たちの案と陛下の案を比べた場合、おそれながら彼らの案の方がはるかに整っているのではないかと思いますが」
「そなたが余のことを気にかけてくれているのは常日頃ありがたいと思っている」皇帝はまんざらでもない様子で言った。「しかし、心配するな、マキシマス。アカデミアの教師たちにごちゃごちゃ言わせない方法を私はちゃんと考えている」
聞きたいものだ、と総長は思ったが、聞きたくない気も一方でした。

だがコモドゥスは何となく聞かせたい風だった。急な階段を上りながら横目で総長の顔をちらちら見ている。総長は根負けしたのと、好奇心負けしたのとで、とうとう、「どういうことを考えていらっしゃるのでしょうか」とトーガのはしを腕にかけ直しながらさりげなく聞いてみた。「元老院を黙らせるために?」
「おお、簡単なことだ。コロンブスの卵だ」皇帝はほくほく顔で、時代も何も無視したことを言った。「元老院にはアカデミアについての案はかけない」
そんなことですかと総長はがっくりし、思わずその場に座りこみたくなった。
「提出しないのだ。承認を求めないのだ」皇帝はしつこくくりかえした。「わかるか?」
総長は立ちどまった。皇帝も立ちどまって少し上から総長を見下ろした。
「失礼ですが」総長は言った。「おかけになるべきです。元老院を無視するなどと前代未聞です」
「埒もない議論をしている時代は終わったのだ」皇帝は重々しく言った。「そなたもそう言っていたではないか」
「言っておりません」総長はきっぱり言った。
「そうか、どこかで言っていたような気がしたが」皇帝は首をかしげた。「まあいい。とにかくこの件は、元老院では審議しない」
「審議しない理由がありませんでしょう」
「あるとも」皇帝は言った。「審議したら否決される」
「あのですね!」
「そちだって、いや、そちが一番よく知っておろうに。アカデミアの連中ときたら、口が達者だ、商売柄な。理屈もうまい。私に勝ち目があるものか。確信がある」
「そんなこと確信を持ってどうするんですか」総長はため息をついた。「審議しても認めてもらえないとわかっている案をどうやって実行に移すんです。アカデミアの連中は、それこそ納得しませんよ。ローマ市民だって」
「おまえも、アカデミアの連中も、元老院も、重要なことを忘れておるな」皇帝は言った。
「何でしょう?」
「ローマを支えておるのは、市民だけではないぞ。アカデミアをどうするかを、彼らだけで決めてよいはずがない」
「他に誰がいるのです?」総長は眉をひそめた。
「思いつかんか?」
「いえ、不明にして」
「奴隷と属州民、それに女性がいるではないか」皇帝はおごそかに言った。

今度こそ総長は固まった。その直後、身体の力が抜けた。
「何とおおせられました?」
「奴隷たち、属州の者たち」皇帝はまじめな声で言った。「それに女性だ」
「その者たちの意見を聞くと?」
「そうとも」
「恐れながら、どうやってです?」
「奴隷たちには、もう、奴隷頭を通して質問させた。属州にも伝令を飛ばせてある。女性たちには、彼女らの代表を選んで、女性の元老院を作るよう命じた」
総長は唖然と口をなかば開いたまま立ちすくんでいた。
「あなたはまともですか?」思わずそう言ってしまった。
クイントゥスが皇帝の後ろで、観念したように目をつぶったのが見えた。だが皇帝は剣に手をかける風も衛兵を呼ぶ気配もなく、むしろ上機嫌だった。私を驚かせて満足しているな、と総長はぼんやり考えた。実際、皇帝はほとんどうれしそうに、つつましげに聞き返してきた。「どこがだ?」
「あらゆる意味でです」総長は断言した。「何から申し上げていいのかわからない。女の元老院!?」
「姉上は賛成したぞ」
「でしょーねー」総長はやけになって言った。
「そちは属州の出身だ。かの地の住民たちは不当に権利を制限されてきた。アカデミアをどうするかについてぐらい、彼らの意見を求めてもよいとは思わぬか」
「彼らに市民権を与える方が先でしょう」総長は言い返した。「それなら私も賛成します。奴隷たちもです。彼らの権利を認めてやって…」
「同感だな。ローマのあらゆる部分で彼らは働いてくれておる。彼らが仕事をやめたなら、この大都市は一日にして麻痺してしまうにちがいない。それなのに我々は、これまで彼らに正しくむくいてはおらぬ」
「私の言うことを最後までお聞き下さい」総長は怒りにふるえながら言った。「戦いの時に我々は兵士の意見など聞きません。それが指揮官としての責任です。意見を言える立場にない者の意見を言わせるのは無駄なだけではなく、残酷です。奴隷頭に意見を聞かれて、自分の意見を率直に開陳できる奴隷がいますか?」
「マキシマス、マキシマス」皇帝は悲しげに首をふった。「そちは帝国の奴隷たちをバカにするのか?彼らは臆病者でも嘘つきでもない。正しいことは正しいとはっきり判断し表明できる知恵も勇気も持っておる」
「そうですか。私が奴隷ならありません」総長は言い返した。「鎖につながれていて、主人の考えに反対すれば売り飛ばされるか鞭打たれるとわかっていて、それでも自分の考えをはっきり言うような勇気も良心も私は持ち合わせておりません」
「つまり、わが帝国の主人と家来、奴隷頭と奴隷の関係は、それほど不信に満ちているとそなたは信じておるのだな」
「そういう問題ではありませんでしょう!?」
ラッパが高々と鳴り渡った。
「おお、ほら、そろそろ行かなければ」皇帝は叫んだ。「皆が余を待ちかねておる」

勝手にしろと総長は思い、ふてくさって、しおしお皇帝の後から貴賓席に入って行った。がっくりし、いらだち、そして奇妙に混乱していた。皇帝の言っていることは話にならない。第一、コモドゥスが奴隷や女性や属州民のことを思いやるような人間とは、どこをどうとっても程遠いことをマキシマスほどよく知っている者はないだろう。
それでも、と総長は思った。こんなバカが苦し紛れに考えついたことにもせよ、奴隷や女性に我々と同じ権利を与えるという発想は、これまで誰も考えなかった、どこか目のくらむような輝かしさに満ちてはいないか?狂気の沙汰といえばそうだが、だがしかしもしかしたら…。
皇女はすでに席について、ルシアスと何か楽しそうにささやきあっている。クイントゥスはまだ立ったままで、気がかりそうに皇帝と総長をふり向いて見ていた。コロセウムを埋めつくした大群衆は皇帝を見て大歓声をあげてたたえ、皇帝はうれしそうに手をあげてそれに応えている。その歓声は皇帝が群衆に背を向けて、女官たちと話しながら席に腰を下ろす時にもまだ続いていて…それどころか、高まっている?
「早く!」皇女が鋭い低い声で注意するのが聞こえた。「早く座りなさい、マキシマス!」
は?皇女を見つめた総長に、皇女はコモドゥスの方を目で示しながらささやいた。「何をぼうっとしているの?!彼が気づかない内に、早く座りなさい、うつけもの!」
何て言われ方だと、むかっとしながら総長はクイントゥスの隣りに腰を下ろした。皇女はほっとしたように客席に目を戻しながら、やってられないわと言いたげに、小さく首を振っている。
どうしたんだろうなあと思いながら、まだざわめいて、こちらを見ている観衆をながめるともなくながめていて、総長はふと、なつかしい、あたたかい声を耳に聞いた気がした。
…気がつかないのかね。皆、おまえをたたえているのだよ。
そう、あれは戦場で、兵士たちの喝采を浴びる老皇帝につきそって歩いていた時だった。皆があなたをたたえています。そう言ったマキシマスに老皇帝が微笑んで言ったことばだ。おまえをたたえているのだよ。兵士たちは。
え、もしかして?総長はあわてて客席を見渡した。気のせいかもしれないが、皇帝よりも自分の方を見ている視線が多い気がする。
気のせいだよな。総長は椅子の中で大きな身体を小さくした。何となく、民衆が皇帝より自分に喝采したとしたら、コモドゥスはさっきのようにきげんよく笑って見逃してはくれない気がした…絶対に。

そしてもう、アリーナには、二十人近いたくましい男たちが、大きな盾と長い槍を手に歩み出して来ていた。戦車に蹂躙されることが決まっている、殺され役の奴隷たちだ。彼らが貴賓席のすぐ前に並んで立ち、高く右手を上げ、声をそろえて「我ら死にゆく者、陛下に忠誠を」とお定まりの誓いの文句を唱えるのを総長は見下ろしていた。
頭のしんが鈍く痛んだ。最前列の中央にすらりとひきしまった身体の黒人がいて、聡明そうな率直な顔をじっと総長に向けていた。彼と、その隣りのゲルマニア人らしい大男の間が少し空いていて、ちょうど人がもう一人立てるほどの空間で、そこを見ている内に総長は激しい目まいと吐き気を感じて、思わず椅子のひじを強く握りしめた。
この男たちも、皇帝の政策を支持するかどうか意見を聞かれたのだろうか。そんなことをぼんやり思った。
「さあ、ルシアス、きげんを直しなさい」皇女が言っているのが聞こえた。
「どうかなさったのですか」クイントゥスが聞いている。
「さっき、試合の前に剣闘士たちを見に行きたいと言ったのだけど、もう皇帝がおいでになるからだめと言って行かせなかったのよ」皇女が笑った。「それで、ごきげんななめなの」
ルシアスは顔をしかめて目をそらし、総長を見た。そしてすぐ、気がかりそうに眉をひそめて総長の顔をのぞきこんだ。「ご気分が悪いのですか?お顔の色が悪いけれど」
「日除けの色が映って見えているだけです」総長は笑ってごまかした。
ルシアスはまだ何か言いたそうにしていたが、その時どっと起こった大歓声にひかれて、アリーナの方にふりむいた。
四方の扉がいっせいに開かれて、八台の戦車がはね出すように躍りだしてきた。砂煙をあげて疾駆する車の上から、金色の鎧を着た女戦士たちが、次々に矢を放ち、槍を投げた。たちまち数名の剣闘士が地面に倒れて転がった。その上を戦車が走りぬけ、人々はずたずたになった身体を見て興奮し、絶叫した。
総長は息を深く吸い、目をそらそうと頭を後ろにひいたが、そらせなかった。激しい苦痛が身体を襲うような気がして、何かから逃げるように彼は首をふった。
縦横無尽に走り回る戦車の群の前に、剣闘士たちの集団は四分五裂した。闘えと誰かが叫ぶ声は戦車の走る轟音にかき消され、彼らは次々倒れて行った。最後まで巧みに飛んでくる槍や矢をよけながら闘っていたあの黒人とゲルマニア人の大男が、どちらもハリネズミのように全身に矢をつきたてて倒れたあとは、アリーナの砂の上にもう動いているものはなかった。わがもの顔で走り回る戦車の群に、観客たちはけだるい、まのびした拍手を送った。「いまひとつだな。迫力がなかった」と手をたたきながら皇帝が評し、劇場支配人のカッシウスは深々と頭を下げて、この次にはもっと刺激的なだし物を用意いたしますと言っている。
剣闘士たちのばらばらになった死骸が運び出されていくのを、総長は何かに憑かれたようにじっといつまでも見守っていた。

それはもう、昨日の話だ。
なのに、目を閉じると鮮やかにあの血に染まったアリーナの風景がよみがえってくる。
悲しみよりも恐怖よりも、総長の心には、たとえようもない淋しさがこみあげてくる。
おきざりにされてしまったような。ひとりぼっちで残されたような。
昔、幼い時に兄たちにからかわれていじめられて、村の中や家の中でよくおいてきぼりにされた、あの時のような心細さと人恋しさがふつふつとこみあげてくる。
あの、最前列でこちらを見ていた黒人のあたたかい賢そうなまなざしが思い出された。
誰かに会いたい、と総長は思ったが、それが誰だかはわからなかった。
心にぽっかり大きな穴をあけられたような、この空しさは何なのだろう。
テラスの向こうには噴水が、朝の光の中にまぶしく輝く白いしぶきをあげていた。

その8 女たちの元老院

横になったままぼんやりと噴水をながめていた総長は、枕にのせていた頭をふと起こした。
風に吹かれて、光とまじりあい、ゆれて広がるしぶきの向こうに人影のようなものを見た気がしたのだ。
総長はまぶたをこすりながら起き上がって、じっとそちらに目をこらした。
たしかに誰かがいる。立ち上がってそばの椅子にかけていたチュニカをとって頭からかぶると、総長はテラスからそのまま庭へと出て行った。
だが、噴水のそばに人の姿はない。光と水の作り出した、私にだけ見えた幻だったのだろうかと思いながら、それでも暖かい陽射しの中で顔にかかってくる、霧のように細かいしぶきがとても快くて、総長がそのままそこに立っていると、「あ、動かないで!」と誰かの声がした。
総長は声のした方を向いた。ひょろりと背の高い、やせぎすの男が、だぶだぶのチュニカを着て草の上にしゃがみこんでいた。四角く薄い灰色の板のようなものを両手で持って、それをすかすようにじっと地面をのぞきこんでいる。
「何をしてるんだ?」総長は首をかしげて聞いた。
「水の流れを調べている」男は熱心な口調で言った。
「そこには水はないんじゃないか」総長は言ってみた。
「地下に流れているんだよ」男は言った。「この板をのぞくと、反応があるんだ。あんたがそこに立ってると、身体の熱と重みが地面に伝わって、水脈がわかりやすくなる」
男の話は総長にはさっぱりわからなかった(作者にもわかりませんので追求しないで下さい)。ただ男の楽しそうで真剣な様子につりこまれて、言われるままにおとなしく、じっとそこに立ったままでいた。

「やあ、ご協力ありがとう」男はしばらくすると顔を上げ、長い手足をばたつかせるようにして、身軽にひょいと身を起こし、総長の方へ近寄ってきた。「あんた、ひょっとして皇帝?」
総長はぼうっと男を見つめたまま、あいまいに首をふった。私はなんだか小娘のようだなと、ぼんやり考えていた。
「ともかくありがとう」男は人なつこくほほえみながら手をのばして、何の警戒もなく総長の手をつかんだ。敵意も殺気もまったく感じなかったから、総長が何もしなかったとはまったく気づいてない気軽さで。「おかげで完璧にこのへんの水脈と水道管の問題点が読みとれました。しかし、ここの水道管の古さは問題だなあ。すぐにとりかえろと言ったって、どうせ予算がないんだろうが」
男は金色の髪で、眉もまつ毛も金色だった。肌の色は白く、全体に色素が薄い感じで、きれいなトカゲを思わせた。「どれだけ重大な事態かってことわかってますか?」彼は総長の腕をとり、熱心に噴水の方を指さした。「あの右側のしぶきの上がり方を見て下さい。誰が見たってわかるでしょう?水道管が古くなって、水圧が低くなってしまってるんです」
よくわからないが、さぞ大変なことなんだろうと思って、総長はうなずいた。
男はまた指さして何か言いかけ、手をとめて総長を見た。
「本当に皇帝じゃない?」
総長はほほえんで首をふった。「残念だが」
「残念だよ」男は言った。「ごらんになっていただければ一目でわかるんだが。しかし、皇帝でないんなら、あんた誰?こんな宮殿の奥に住んでて…」
「そういう君は?」総長は聞き返した。「朝からこんな奥庭で…」
「あっ、そうか」男はあわただしくチュニカのあちこちを手さぐりし、首をふって、今度は地面に投げ出していた袋をとりあげ、中をかきまわし、中身を草の上にぶちまけ、やっと、よれよれになった羊皮紙の書付を見つけ出し、それを広げてにこにこしながら総長の方にさし出した。

「水道局技術職員マティウス・ジェミナス?」総長はすりへって読みにくい文字を何とか声に出して読んだ。
「うん、そこに出入り許可の印が押してあるだろ?」マティウスはわきからのぞきこんで教えた。「我々はどんなお屋敷にでも宮殿にでも入れるんです。水道の点検作業のためならね」
「水道ね」総長はどこまで知っているふりをしようかと迷いながらつぶやいた。この手の技能が最近何と発達したことかと自己嫌悪に陥りかけながら。
だがマティウスは総長のそんなためらいをあっさり見抜いたようだった。「水道のこと知らないの?」と彼は聞いた。「驚いたなあ。あんた、ローマ育ちじゃないね。そりゃそうだよね、その言葉、イスパニアの訛りかな?最近、都に来たのかい?」
総長はうなずいた。
「ローマといったら、水道さ」男は嬉々として言った。「これこそ世界に誇るものだ。網の目のように水道管がはりめぐらされ、市民全体がその恩恵をうけている。それだけに、その維持管理は大変なんだよ。皇帝にはそこをわかってもらわなくちゃね。ほんとにあんた、皇帝じゃないのか?」
「ちがうよ」
「ふうん」マティウスはじろじろ総長を見た。
背後に人の気配を感じてふり向くと、奴隷のティブルティヌスだった。妙に神妙な顔でひっそり歩いてくる。皇帝が崩御したのだったらいいな、と総長は剣呑なことをちらと思った。総長と目が合うとティブルティヌスは立ちどまって一礼し、総長が近づいて行くまで動かなかった。
「何かあったのか?」
「皇女さまがお召しです」ひそめた声でティブルティヌスは言った。「至急、そして内密に、お目にかかりたいとのお言葉です」

「あなたに会わせたい人がいるのです」皇女は薄い紗のストールを美しい腕の手首にまきつけて、口の細い壷からワインを杯に注ぎながら言った。
総長は灰青色のトーガをかきあわせた。なぜ皇女はこんな宮殿のはしっこの、なかば地下室のような暗い、うすらさむいへやを選んだのだろう?なかば物置のような、ほこりの匂いのするへやの壁を、それとなく警戒するように総長は見回していた。
「弟がアカデミアの改革案を元老院にかけないことにしたのは聞きましたか」皇女はワインのグラスに目を落としたままたずねた。
「うかがいました」総長は短く答えた。
皇女はちらと目を上げて、いたずらっぽくほほえんだ。「憤懣やるかたないという顔に見えますね。女の元老院は気に入りませぬか」
「あなたが賛成なさったということはうかがっております」なるべく堅苦しく答えようとしたが、けんかごしの口調になった。
「そうね」皇女は面白がっているようだった。「着々と準備は進んでいますよ。わたくしが議長になります」
総長は黙って一礼した。
「カルパニアが…ウェスタの巫女のね」皇女は念を押した。「議長になりたがったのですけど、わたくしが阻止しました。あんな、オリンピック競技で男がすっぱだかで走るのを見るのが楽しみで巫女になったと噂のあるような女を議長にさせるわけには行かないわ」
知らないなあと総長は思った。あの、おごそかでいかめしい半白の髪の老女に、そんな噂があるなんて。
「そして、奴隷代表としては…」
「そんなものがあるのですか」総長は思わず口をはさんだ。
皇女は目を笑わせた。「わたくしたち女の元老院は、男たちのような差別はしません。属州からも奴隷からもちゃんと代表を出すのです」
総長は沈黙を守り、目にものを言わせた。それが得意だとよく人に言われるのだが、この姉弟にはさっぱり効き目がない。
「奴隷代表は」皇女は平然と続けた。「おまえも見たでしょう?コロセウムで戦車の上から矢を放って、ハンニバル軍に扮した剣闘士たちを皆殺しにした、みごとな腕の、あの女戦士です」
また強い目まいが襲ってきて、総長は目を閉じた。
「彼女は大変有能ですよ。その才能を発揮する機会を与えられたことを感謝して、皇帝に身も心も捧げる決意でいます」
「あなたにではないのですか」総長はつい言い返した。
「そうなるといいわね」皇女はにっこり笑った。「そうならないと、あの女の破滅でしょうからね」
皇女が本気でそう言っているのか、単に自分を怒らせたいのか、総長には何とも判断がつきかねた。

「あら、こんな話をしている時では」皇女は少女のようにかわいらしく目ばたきしてみせた。「わたくし、言いましたか?あなたに会わせたい人がいると」
「さきほどそうおっしゃいましたね」
「まあ、年はとりたくないものだわね」皇女はにっこり小さい白い歯を見せて笑った。「会ってくれますか?この国のことを真剣に考えて、弟と対抗しようとしている人物なのです」
「会って、私に何をしろと?」
「それは、その人が話すでしょうよ。マキシマス。一つ忠告しておくわ」皇女は初めてちらっといらだたしげな表情を見せ、多分本心からの怒りがのぞいた。「軍人が単純なものとは知っています。正義という大義をほしがるのも、敵と味方をわけたがるのも、都合の悪いことは何もかも敵のめぐらせた陰謀として片づけたがることも。でも、生きのびたかったら、人も生きのびさせたかったら、そんな単純な思いこみはやめなさい。今このローマに一番害を及ぼすのは、頭の悪い人間と心の狭い人間だわ。あなたはそのどちらでもないと思っていたけれど、わたくしの考えちがいだったかしら」
「何をおっしゃりたいのです?」
「わたくしが弟の味方と思っていらっしゃるのね」
「ちがうのですか」
「味方する部分もあります。だからと言って、わたくしを彼と同じ敵とみなしては、あなたのためにもならないわよ。それを言うなら、第一あなたも、いつどうやって彼と手を組むのやら。それも自分でも気づかずに」皇女は荒々しく首をふった。豪華なエメラルドの耳飾りが大きくゆれる。「言っておきますがマキシマス。弟に関するわたくしの意見はただひとつしかありません。あれはバカです」
「そうですか」総長はそっけなく言い返した。「どのへんがですか」
皇女はかすかに笑いをこらえるような目をした。だがすぐに言い返した。「少なくとも手近なところでは、アカデミア改革法案を元老院にかけないというのは、バカ者の考え以外の何ものでもありません」
「いいではありませんか。そのかわり女の意見も奴隷の意見も聞くのだから」吐きすてるように総長は言った。
「怒るのはおよしなさい」皇女は猫なで声を出した。「奴隷や女の意見を聞くのはけっこうです…特に女の意見を聞くのは。でも、それだからと言って、元老院をないがしろにし、無視する理由にはなりません。元老院にも意見を聞き、彼らの承認も得てこそ、奴隷や女の承認を得たことの意味も出てくるのです」
「ごもっともです」総長は言った。「しかし、その元老院で陛下の案が否決されたらどうするのですか?国論はまっぷたつとなり、これはこれで国は大混乱になるでしょう」
「否決させなければいいのです」
「どうやって?」
たれ幕の向こうで突然何度も、大きなくしゃみの音がした。

総長は緊張して、皇女にちらと目をやった。しかし皇女は落ち着いていた。「お入り下さい、グラックス議員」と、たれ幕の向こうに彼女は声をかけた。「すっかりお待たせしてしまいましたね」
ゆっくりと用心深くたれ布を上げて、白髪の堂々たる風格の老人が入ってきた。老人といっても頬はつやつやと桜色で血色はよく、威風堂々とあたりを払う威厳がある。それをやや損ねているのは髪にくっついている蜘蛛の巣で、彼は不快そうに手をあげてそれを落としながら、「宮殿にもこのようなところがあろうとは」とひとり言のように言った。「ハウスダストは私の花粉症に大変よくないのですが、これも民衆のためとあらば、やむを得ませんな」
「ようこそおいで下さいました」皇女はさりげなく手をふって椅子を勧めた。「総長、こちらは元老院のグラックス議員です」
総長は座ったままで一礼した。議員は品定めするようにじっと総長を見て、「総長」とおごそかに呼びかけた。「私がこうして一人でこっそり来たことで、元老院の意向というものは察していただけると思うが」
総長はとまどってまばたきした。いや、何もわかりませんと言いたかったが、何だか思い込みの強そうな老人だったから、逆らわないことにして沈黙を守った。
「弟は密偵を町にも、この宮殿の中にも大勢放っています」皇女は老議員にグラスをさし出しながら、弁解するようにしてさりげなく、総長に事情を伝えた。「こういう奥まった場所に、おしのびで来ていただかなければ、正しい目的のための相談すらできません」
「まったく、嘆かわしいことですな」議員は言った。
「それでも何とか、彼の案を通してやることを考えなければ」皇女は言った。「元老院の承認を得ないまま、法案が実行されるというローマの歴史上、前代未聞の事態が起こってしまうことになります」
「お言葉ですが」不機嫌そうに老議員はワインをすすった。「我々とて元老院が弱体化しているのは知っておる。ガイウスのような筋金入りはいざ知らず、民主制の限界は最近では多くの議員も感じておる。だから、皇帝がそれなりの言い方ややり方をすれば、片目どころか両目でもつぶって、提出された案に賛成してやろうというぐらいの気持は、多くの議員にあるのです。この私でさえそう思っておる」
皇女はいらだたしそうに顔をそらして、かすかに笑った。「そうだと思いますわ、グラックス」
「それを、あなたの弟君は」グラックスはうなるような吐息をついた。「意地でもこちらが賛成できないようなシチュエーションをわざわざ工夫して作り、そういう発言をなさる。反論した議員には『アジテーションが巧みだな』で片づける。投票の前には『さあ、皆、皇帝の案に一票を!』と笑いながら叫ぶ。あれで、どどっと票が減るのですよ。どちらの時も一票差で皇帝案が否決されてしまった。『こんな議会の時間など無駄だから、政治は私にまかせて、ゆっくり遊山でもしていてくれ』とおっしゃったこともありましたな。どうしてまた、よりによって、これだけは絶対言ってはまずかろうということを、今だけは言ってはいけないというタイミングで言ってしまわれるのか、まことに理解に苦しみます」
「あれは、場の緊張を救おうとする、あの子なりのサービスなのよ」皇女は投げやりな口調でフォローした。「父上にもあれで嫌われてしまったの。宴会の時や家族団欒の食事の時、うけをねらってはつまらないことをあえて言うから。ね、マキシマス?」
そんなこといきなり振られてもと総長はあわて、「そう言えば」ととっさに思い出した例を口にしてしまった。「ゲルマニアとの戦いが勝利した直後にかけつけて来られて、『お祝いに雄牛を百頭いけにえにします』と、いきなりおっしゃっていましたね」
「そうでしょ、そんな風なのよ」皇女は舌打ちせんばかりだった。「お父さまは牛がお好きなのよ。王女エウロペと雄牛に化けた大神ゼウスの絵を宮殿のおへやに飾らせたりしてらしたぐらいだもの。それを知らないわけじゃないのに、とっさにそういうことを言ってしまう才能が、どうしてかもうあの子にはあるのよねえ」
「どなたか注意をなさるべきです」グラックスは陰気に言った。
「したわよ」皇女は言った。「あなたのこういう発言がまずかった、ここが誰それの反感をかった、といちいち議会のあとで、蝋板に書いて指摘してやったわ」
「どのようにおっしゃいました?」グラックスは聞きたがった。

雄牛の時も、その他の時も、とても忠告できなかった総長は、自分もそれはぜひ知りたいと思って皇女の顔を見つめた。
「どう言ったと思う?」皇女は二人を交互に見た。「最初から私はそのつもりだった、彼らを怒らすつもりだった、と言い張るのよ、赤くなったり青くなったりしながら。そんなはずはないでしょうと、理路整然とぎゅうぎゅうにとっちめてやったら…」
あー、あなたはあなたでもうそういう時、ひき時ってものを知らないんだからなあと総長は頭をかかえたかった。
「そうしたらとうとう、どうせもう自分の意見はわかってもらえないんだから、元老院にはかけないと言い出したの」
「要するに、彼をびびらせたのはあなたなんですね」総長は思わずそう言った。
「そうよ。だから責任を感じて彼をもう一度元老院にひっぱり出したいと思っているのじゃありませんか」皇女は平然として言い返した。
「何が何でもあなたの法案は通してやるから、安心して、となだめてですか」総長はついまたつられて言ってしまった。「何でそう、彼を甘やかさなくてはいけないのか、私にはわからない」
「個人的な家庭内の問題はここではしばらくおきましょう。あとでゆっくり話し合うとして」
「誰とですか」総長は言った。「申し上げておきますが、私はあなた方の家族ではありませんからね」
「まあまあ、お二人ともおさえて」グラックスが妙に分別くさく割って入った。「これが民主制にとってローマにとってゆゆしい事態という点では私もまったく同感なのです」

総長はすっかりふきげんになってアカデミアに行った。グラックスと皇女の話し合いは結局あまりはかばかしい案も出ないまま終わり、クイントゥスの話ではないが、電光石火だけがとりえの皇帝は、さっさと勝手にアカデミア改革法案を押しつけて来そうだった。奴隷と属州民、それに女性が支持しているのだからとか言って。
「そもそも、市民の代表だって、あなたたち元老院ではないと、あの子は言い出しかねなくってよ」皇女はそう言ってグラックスをおどかしていた。「この前の議会の時、あの子が言っていたのを聞いたでしょ?民衆はあなたのように豪華な屋敷に住んでいない、ガイウス議員のように妾を大勢かこってはいない…」
「詭弁ですな。そういうご自身は宮廷に住んで日夜贅沢三昧をしておられるのに」グラックスはせせら笑った。
「あの子は民衆に支持されているという自信があるのです。庶民感覚というか、庶民なみの趣味の悪さといおうか、そういうものがありますからね」皇女は唇に指をあてて考えこんでいた。「だから実際に民衆の心をつかむのがうまいの。何をしたら民衆が喜ぶか、よく察知しているの」
「同感ですな。民衆の愚かさ、残酷さ、幼稚さはそのままあの方のものですから」グラックスは冷やかに、だが沈痛な面持ちで言った。「私はコロセウムに行ったことがなかった。あのような愚劣であさましい見世物の数々を行う場所を軽蔑し、足を踏み入れないようにしようと思ってきた。それを今、後悔しています。低級な見世物とさげすんで無視していた間に、それは帝国を動かす巨大な力を持つ怪物へと成長した。巨大な胃袋と残忍な歯をそなえた、だが目は見えない、盲目の獣です。そして、それにふさわしい、愚かで危険な指導者をいただくにいたった。コモドゥスとコロセウム。それは互いに支えあい、この国のよいものをすべて虐殺して行くだろう。その前に我々は無力です」
「アカデミアがあるわ」皇女が静かに言った。「知恵と正義の殿堂はまだ残っています。だからこそ決して、この改革法案を皇帝の思うままに実施させてはならないのです、グラックス」
ふさふさとした白い眉を、さげすむようにグラックスはぴくりと上げた。
「軍人を総長にいただいて?それだけでもう、アカデミアの精神は崩壊していますぞ」
「彼は父の最高の弟子です。皇帝ではなく哲学者マルクス・アウレリアスの」皇女は力をこめて言った。「それに彼は、コモドゥス以上に、コロセウムを支配する力があるかもしれません」

「どういうことですか?」
グラックスはけげんそうに皇女を見、総長もそうした。皇女が何を言っているのかわからなかった。だが何となくいやな予感のようなものはした。
「昨日、コロセウムにおいでになっていたらわかったわ」皇女は総長の方を値踏みするようにじっと見た。奴隷市場でせり台の上に上げられたらきっとこんな気持がするんだ、と総長は思って、そっぽを向いた。「彼が人前に出たのはまだほんの数回なのです。それなのに、女たちの間で、すでに噂になりかけている」
「ほほう」グラックスも総長を見たようだった。「なるほど、そう言えばうちの奴隷たちも何やら言っていましたな。アカデミアの総長はなかなかよい、と。学識や発言のことかと思って聞き流しておりましたが」
「あなたのお屋敷の奴隷?男しかいないのではありませんでしたか?」
「そうです」グラックスはあっさり答えた。「たしかに彼には一種の魅力…カリスマ性があるかもしれない」
「黙って立っていてもいいけど、これでしゃべるとなかなかですの」皇女は身をかがめてワインをつぎながら、さりげなく言った。「怒った顔も、笑った顔も」
ベッドの中でも、とまさか言うのではあるまいなと総長は思った。彼は二人から顔をそむけたままだったが、怒りのために息がかすかにはずんでくるのがわかった。自分の容姿や性格を目の前で語られるのが、もともと彼は好きではなかった。ほめられるのでもいやだった。老皇帝と妻はそれを知っていたのか、どうしてもそうしたい時は、いつも少し思いきったように、あるいはひかえめに彼を賞賛した。ところが、この二人にだけは総長はいくらでも、ほめてほしかったし、ほめられなければ不安だったし、でもそれを口には出せなかったのだ。
「この人なら」皇女はワインの杯を唇に運びながら、じっと上目づかいに総長を見て言った。「弟に対抗する、もう一つのシンボルとなり得ますわ、きっと、民衆たちの」

冗談じゃない、と首をふりながら大またに総長はアカデミアの玄関に入って行った。そんな存在になるということは、自分と家族の死刑執行命令に署名するのとなんら変わりはないではないか。絶対にそんな計画にまきこまれてなるものか。
怒って歩いていたし、いつも歩く廊下だったから、何かに思いきりはじきとばされて、後ろへころげて尻もちをつくまで総長は何の警戒もしていなかった。ぶつけた頭と鼻が燃えるように痛くて涙が出た。でも何にぶつかったのだ?何も見えないではないか。
うすぐらい廊下の向こうから、四人の学部長たちが何か叫びながら走って来る。その声が妙に遠くに聞こえるのは耳までおかしくなったのか?
「…丈夫ですか!?総長!?」
途中から声が聞こえた。目の前に来た学部長たちが何かをひきあけるしぐさをしたのだ。総長は目をこらして、暗い廊下いっぱいにかすかに光っている透明な扉をようやく見分けた。いつのまにか、大きな厚いガラスのドアがそこに作られていたのである。

「これは何だ?」総長は四人の学部長に助け起こされながら、思わずうなるような声を出した。「誰がいつ、こんなもの作った?作れと言った?」
「皇帝ですよ」第一学部長が答えた。「昨日、近衛隊が来て、皇帝のご命令だと言って、突貫工事でしあげて行ったんです。廊下の向こうのはしにもこれと同じような鉄の扉を作って行きました」
「そっちは鉄なのか、ガラスじゃなくて」
「予算がなくなったらしいです」
そうだろう。ガラスといったら高価な貴重品、杯や首飾りに使うぜいたくなものだ。それを、こんなでかい扉を。
しかも、宮廷ならともかく、このアカデミアの天井の低い、暗い廊下では、恐ろしく場違いで異様に見える。
「いったい何のために、こんな扉を作ったんだ?いざという時、閉じ込められて焼き殺されでもしたらどうする?」
「この廊下の両側に理事と副学長のへやを六つ、それも突貫工事で作って行ったのですよ」第二学部長が教えた。「そういう役職を護衛するのに、近衛隊を常駐させなければならないが、人手不足だから、代わりにこのドアを作るのだそうです」
「我々の許しも得ずに?そもそも諸君はそれを黙って見ていたのか?」
「そんなことぐらいで驚いていては」第三学部長がよろよろしながら丸太ん棒のように大きく太い巻物を両手でかかえてさし出した。「彼らはこれもいっしょに持ってきました。アカデミアの新しい規則だそうで」
「君たち、これを読んだのか?」総長はうけとりながら、おそるおそる聞いた。
「誰がもう」第四学部長が吐き捨てた。「最初の何行かを読んだだけで頭が痛くなってやめました。何が何だかまったくわからない組織図です。アカデミアのことも規則のことも何もわかっていない人間が作ったとしか思えません」
「しかもこのやたらな量の多さときたら」第二学部長がののしった。「さっき物差しではかったら半径だけで二・五センチありましたぞ」
「これに関して教授会はどう言ってるんだ?」
「教授会も委員会も皆解散です」第一学部長が言った。「そして、学部もなくなりました。かわりに理事が四人に副学長が二人できるそうです。我々が二人づつ、理事と副学長になれとのことで」
「それでへやが六つなのだな。あとの二人の理事は誰だ?」
「学外理事ということで、ウェスタの巫女のカルパニアと、女剣闘士のゾナです」
総長は絶句した。
「いまどき、役職に女が一人もいないのなどみっともないとの皇帝のおことばで」第三学部長がつけくわえる。
どうせ皇女へのごきげんとりだなと総長は思った。まあ、カルパニアは見たところ老女だし、ゾナとやらもコロセウムでその内、戦死してくれるかもしれないが…。

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