江戸紀行備忘録徳永信之「寄生木草紙」(3)

とりあえず、全体の概要を

まだまだ紹介したい話はあるのだが、きりがないから、とりあえず項目ごとに大まかな内容を記して、そこから見える全体の特徴をまとめておこう。なお、これは、全体の骨組みを書いてから随時あちこち補充するので、「一応おわり」の文字が出るまでは、全部発達形態の途中経過と思って見ていていただきたい。

序文

乾の巻

奇才の幼童 優秀な子どもがいて、その家に養子に来た子はもっとすごかった。兄は養子の弟に少し反感も抱いていたが、弟は将棋にことよせて兄への感謝を示すなど徹底的にできるやつで、兄も憎むことができなかった。この弟が幼いのに中国の二十四孝話を非合理だと批判したり、飛んで来た蚊を見てその一生と運命について語ったり、天才ぶりを発揮する。

言馴れし謬 結婚式の衣装が白衣である理由について諸説を紹介する。

兵法の認可 妻についた狐の殺し方など。(すまん、メモにこれしかない。)

かしこ渕 枕草子に出る地名の考察。仙台にある渕の怪談。枕草子の「かしこ渕」という地名は注釈者も特定できていないが、自分が聞いた話では、仙台にそういう名の渕があって、次のような伝説がある。しかし歌人にそれを話すと、根拠がないものは安易に信用しない方がいいとの意見だった。その説も紹介した上で、この話も書きとどめて、のちの人の判断にまかすという作者の姿勢も、作品中で一貫したものである。

仙台侯の藩中の士、子細有て浪人し、江戸へ出て其頃芝居唄に妙音と聞えし松永忠五郎が門弟となり、松永貞五郎といひしが、雑談のつゐでに、「我等本国御城内に大きなる渕あり。かしこ渕といふ。昔、此此(ママ)渕に臨んで釣する者有しが、忽水上よりひとつの蜘蛛うかみ出て見る<釣糸より竿をつたひ、彼者も手の大指へ糸をかけ水底へ沈む。かくする事数度なれば、かの者あやしく思ひて糸をかたへの柳の大木へかけ置はるかにしりぞき見居たるに、頓て晨動し地さけて、かの柳の大木を根ともに水中に引入たるが、水そこにて「かしこい<」といふ声せしより「かしこ渕」と名付しとぞ。今は御城内なれど、むかしは野外なりしに、今も殺生禁断也と申けるにぞ、「かしこ渕」は奥州なる事うたがひなく思ひて、ある古学の歌人に此物語をせしかば、其人のいふ、「すべてかゝる事は好事のものゝ作り設たる事有物也。八雲にも『国みえず」とあれば、しゐてせんさくに及べからず。土俗の説、拠なし」と申されけれど、いつの昔よりかいひ伝へぬれば必定なるべしとも思はるゝ也。後人の説を待のみ。

人麻呂の像 人丸は若死にしたのに、なぜ絵は老人か?について考察。諸説を並べて結論を出さず、俗説もむげに否定しない。

北風の異名 北と比の字の混乱から「ならひ」という呼び名が生じたかどうかを考察。
「しゐて、せんさくなさんも人わらへのわざ成べけれど、是もわがやまひのひとつにて、おもひ出るまゝに、しるし置ぬ」と判断は保留。

四悪十悪 四目十目と夜目遠目の混乱に触れ、十二支にまつわる迷信を批判。親が迷信にこだわって良縁を逃した実話をものすごく長く紹介。

されば、かゝる愚昧の事に泥んで良縁を破るにいたるは嘆かはしき事ならずや。近頃予が見及びたる事あり。商家何がしの惣領廿一歳也しが、人品ンよく孝心にして売買の道にかしこく、算筆もよく人望ありて親の身代を譲り受しより、弥(いよいよ)とくゐもふえ身上も一倍よく仕上たれば、近所にても若き男子を持ざるものは、うらやみけるに、両親は相応なる娵を迎えん事を斗り、常に立入る医師をたのみ置しに、此家の隣町に豪家有て、ことし十八歳の娘あり。此両親厳しき人にて幼き頃より手跡よみ物を習はせ、茶香の隙には琴三絃をもをしへ、十三四歳に成ては縫針の業を励ませ、下女はしたと共に水仕わざをも勤めさせし程に、近所の口さがなき姥嬶は「身上もよく容儀芸能もすぐれたる娘を持ながら、いくたりもある下女同前に追遣ふとは、いかなる親たちの心ぞや」と、そしる程にても在しとぞ。
然るに彼医師、此家へも立入るゆへ、かの縁談の事いひ出たくも思ひしが、娘はひとり子也、まして身代も聟の方は大きにおとりたれば口をつぐみて居たりしが、ふと噺の序に、かの息子の孝心にして利発なるよしを物語りければ、両親のいふ、「我等兼て此人の噂を聞り。かゝる若人は稀也。我娘などをも左やうの所に嫁しなば、いか斗安心ならんに」といひしにぞ、医師大によろこび、かしこにても頃日、縁女懇望の事を物がたり、「去ながら御身上も劣り、殊にひとりの御息女ゆへに差扣(ひか)へしが、唯今の御詞に付て申出る也」といひしかば父のいふ、「ひとり娘なれば聟をとるが道なれども、女の習ひ、おのれが家とおもへば自然と夫トに不敬の事もあるもの也。我等は甥も姪も大勢あれば家を継ぐに不足なし。必竟、娘が不便ゆへ、かゝる才智孝心の聟にめあはせて、後年の繁昌を願ふ也、よきやう頼み参らする」との事なれば、彼医師大きに悦び、足を空にし帰りける。両親は娘にいひ聞するによろこび承引せしにぞ、両親も安堵のおもひをなしぬ。
扨(さて)媒はさつそく男のかたにいたり、内々娘が噺、親たち得心の趣、物語せしかば兼て此娘の事は知りられば、「かゝる女を妻に迎へたらんは男の本意ならめ」と大きに歓び、「是や月下老人赤縄の縁なるべし。両親へもとく申給はれ」といふにぞ、医師親達へ噺けるに、これもともによろこび、去にても身上の相応せざるを「いかゞ」とためらふに、娘の両親の気質を語り、且、娘の不断の行跡をもくわしく聞ゆるにぞ、「さらばよき縁也。倅も承知との事ならば早々に取むすぶべし。扨、縁女のとしはいくつにや」と問に十八歳のよしいふにぞ、指をくりて大きに驚き、「これは四悪十悪とて甚だいむ事なれば、折角のお世話なれどもお断申也」と不興気に申にぞ媒もあきれて、娘の親が懇望の訳、子息の悦びし事など、さま<取つくろひ勧めけれど、曾て承引せず。医師は色々に利害を説け共せんなく、後々には「親の不得心なる女を強て呼取んなどゝ申す不孝ものならば勘当致すべし」などいふゆへ、やむ事を得ず娘方へ申断りしにぞ、娘は勿論両親はじめ医師もむすこも大に望を失ひしか。
其後、外ゟ両親の心に叶ひし娵をむかへしかども、兎角息子の気に入らずして終に心くぢけ放埒になり、身上も傾きしとかや。爰に至つては親の気に逆ひ不孝ともいふべけれど、はじめの志を失ひしかば、かく成行しものなるべし。俗言を信じて終には身代にもかゝわりし事、つゝしむべき事ならずや。

しかしこの後には、そのような親の気持ちを代弁する人の反論も記している。

又いふ、「此息子の親の如き愚昧のものゝ癖とて、おのれより増りたる子を心に叶はぬ事あれば、親が非を言て勘当などゝいひ出し家を破るに至るも、かゝる俗言をいひ出せしものゝ科とはいひながら、余りに弁へなき事にこそ」と言しに、傍の人叱して曰、「御身が言、すこしくあやまてり。かく愚昧の事を信じて良縁を破る抔は凡俗の習にして、更に論なし。子を持たる親の心には悪敷(あしき)と聞ては、いか斗の災ひ来りて我子に負せん事を恐れて、いみ憚るも慈愛の一遍にして、又ありがたき事といふべし。御身が如く子をもたざる者は親子の情にわたらざれば、愚なる親をそしれり。諺に『子持て親の恩をしれ』といえり」と叱せられし。

このような一方的でなく、異なる見方も示す姿勢は、さまざまなかたちで作中の随所に見える。

文字の問答 波と滑についてなど、文字の形や意味について述べる。

燕鳥の性 (1)の項目で紹介。鳥刺しの実態、子どもたちの蝙蝠をとらえる遊びなどの様子が伝わる。

蜷川の悟道 来迎を見せたタヌキを見破って退治した武士の話。

心学の論 流行中の心学について、そのブームの怪しさを述べ、あわせて諸宗教を批判する。あくまでへり下りながら、痛烈に攻撃している。

弁者の閉口 理論派として周囲に「先生」と尊敬されていた男性が調子に乗っているので皆にうとまれ、わざと複雑な不倫の相談をされて返答に窮する話。この男が「理学」好きと呼ばれているのにも当時の「理学」の用語の使われ方がわかる。関連して「江戸の町の汚さ」への批判と反論、「能力があると使い倒される」話なども一読の価値がある。
「江戸の町の汚さ」については、このように述べている。

ある、なま好才もの、己れが国のみ誉る癖ある者、諺にいへる手拍(びやう)編笠にて江戸へ来り仕合せよく二三十年の内に大身代となり、御当地にて妻子を設け繁昌せり。此者のいふ、「誠に御江戸の御繁栄申すも恐れあり。日本国中の御大名をはじめ武家町人は勿論、乞食非人迄入集(つど)へば車馬の往来せわしく、昼夜の差別なし。去からに江戸の人は甚不礼也。たとへば御大名御通行にも立はだかり誹判をし、御屋しきの御門の傍に尿をなし汚せども、おほやけにして咎たまはねば町家は勿論往来の道路に穢れ不浄を取捨て、ちり芥引ちらし、さながら埃捨場に異ならず。凡(およそ)京大坂諸国の御城下といへども、江戸程けがらはしき所なし。実に『穢土』とはよく名付し」と、誉るに似てなじるにぞ、傍に人ありていふ、「水至て清ければ魚なし。人いたりてかたければ友なし。清なれ共、貧なれば衆うとむ理り也。凡(およそ)日本はおろか外国の貨財ども爰に湊(つど)ひ集まる大江戸なれば、おのづから掃清むるいとまなし。かゝる有がたき豊饒の御当地なればこそ、足下の如く裸にて出きたりて斯(かく)仕合せの身となれり。其地に居て其所をさみする冥理しらず也。左ほどに穢れを厭はしき江戸ならば少しもはやく妻子を連て国へ帰られかし」といひしぞ、いと<心よきこたへにぞ有ける。

当時のロンドンやパリに比べて江戸は清潔だったと言う人もいるが、これを読むとどの程度そうだったのかは簡単には言えない。反論した人も「いや、江戸はきれいだ」とはまったく言っていないわけでして(笑)。

これに続いて二文字分、段を落して書かれている述懐も、個人的なことにも触れつつ、現代でも通用するような、なかなか身につまされるところもある世の中のありようが述べられている。「出る杭」云々から始まって、論点は少しずれて行っているような気もするが。

諺に「出る杭打るゝ」といへるごとく、都て並の人よりすこしまさりたるものは、必其才に衒ふが故に、又それに増たる者出来りて難詰(なじる)也。たとへば、よく口を利くものは説客にたのまれ、足の達者を自負する者は序に遠方の用事を頼まる。身まめの人は世事に遣はれ、細工をするものは雑事に遣はれ、「細工貧乏人だから」の類にして、年中他の用事のみを達すが故に、人、「調法者」と号して珍重はさるれども家職に非れば業の妨となる事も有物也。予が如きは才鈍く智なければ、人に対し功もなく徳もなく、人に遣はるゝ事もなく又用ひらるゝ事もなし。飽まで喰ひ温に着、逸居するかわりには、心を用ゆる願もあれど、不幸にして、いまだ成らず。かゝる時こそ神仏をも祈るべけれど、一升入る袋は壱升ならでは入らぬといへば、おのれも其たぐひと扨やみぬ。

祈念祈祷 祈るとはそもそも都合の良いエゴイストの行為という観点を述べる。また無理に子を授かると結局不幸になる見解もかなり強く述べている。まあ今ならこんな見解はとんでもないし、古典でも「祈って子を授かる」ことに否定的な話はあまり見ないが、こういう見解もまたあったことがわかるという点では注目すべきだろう。

言語 ことばは偽りを生む。書物が嘘を広める。そういう悲観的見解を述べ、さらに外来思想特に仏教を批判する。

坤の巻

姥子の温泉 目を病んで温泉に湯治に行った際の長い日記。一つの紀行として成立している。(4)の項目で紹介。

自讃の歌人 筑後の米屋(高木)元仲のこと。歌道に熱中し、人によく勧めた。それから関連して、身近な若者が下手な歌を詠んでいて、次第にうまくなった話を語る。この下手な歌というのが、いくつもあがっているのが抱腹絶倒で一見の価値あり。リング・ラードナーの「メイズヴィルの吟遊詩人」を連想させられる。彼がついに素晴らしい歌を詠むときのことも、風景描写が美しく、短い紀行のようである。

中津の仁君 中津の情け深い殿様の話だが、凶作の時に歌を詠んでその殿様に窮状を訴えた民衆の歌徳説話でもある。

禍の転遷 (2)の項で紹介。

神職の過言 仏教をけなす神官の話。一方で肉食も勧めるので、作者はこれを強く批判する。魚を食べるのはいいし、魚のない山間地は、獣肉もやむを得ないが、それ以外は認められないとし、諏訪神社の神が肉食を許した経緯も説明する。

本朝医神祖 外来の医療を強く批判。老人の話として、乳児に早く乳を飲ませるとよくないという説も紹介する。

附言再話 父の誹友の柳枝の話を紹介。田舎では皆薬がなくても健康だった。他にも医療についてのさまざまな見解。再び諏訪神社の神が許可した肉食について。

追加私旨 医療について補充。生理中の交接や子どもの成熟の早さについて。また、自分が目を悪くして仕事をやめざるを得なくなり、不本意な生涯となったことなど、少しだが自己について語っている。

後序 「人のいふ羅翁 川杜春」の署名。

(つづく)

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