江戸紀行備忘録渡辺政香「吾嬬路の日記」他

ちょっと予告っぽく

あんまりいつまでも空っぽなのも何だから、一言、予告っぽく。

渡辺政香って、けっこういくつも紀行書いてるんですが、中身を見ると、いわゆる「紀行」じゃないんです。
ほとんどが、「名所図会」みたいな形式です。(読み直したらそうでもなかった。後でまた詳しく。)

じゃ「名所図会」って何かというと、あまりいい論文じゃないんですが、私にはこういうのがあります。「名所図会の風景描写」って大昔の論文。
ごちゃごちゃしていて、わかりにくいんですが、要するにひとつだけ、この論文で読み取って覚えておいていただきたいのは、

「名所図会と紀行って、案外厳密には区別出来ない」ってことです。

名所図会については、専門に研究史している立派な方もいろいろいらっしゃるし、多分紀行以上に研究は進んでるんじゃないかと思います。代表的な作者は秋里離島って人で、「東海道名所図会」を初め、いくつも名所図会を書いています。他には蔀関月とか、何人か作者がいます。
私も死ぬ気で何十万円も出して買った名所図会をいくつか持ってるので、その内に自慢もかねて画像を紹介しますけど、これは、大本と呼ばれるサイズのA4判ぐらいの本で、五冊や十冊と大部です。ほぼ全部、出版された板本(版本)です。
ま、さしあたりは、この動画でもごらん下さいな。

中身は、文章が多いですが、かなりの量で、見開き全面の絵も入ります。文章もだらだら書き流すのじゃなく、地名ごとに項目を立てて、名所を紹介します。アクセスとか風景とか故事来歴とか、すごく便利なガイドブックです。
大型なので、携帯には向かず、旅先に持って行くよりは、自宅で読まれたのでしょう。しかし大田南畝などは駕籠の中で読んでいるという記述もたしかどこかにあった気がして、余裕のある旅人は持って行くこともあったのでしょう。何しろ当時の本は和紙で、今とちがってスカスカに軽いですからね。

さっき私が言ったことだけに限って書くと、こういう形式は紀行とは全然別物のように思われますが、実は微妙なところもあって、たしか蔀関月の作品じゃなかったかと思いますが(詳しくは私の論文を読んで下さい。書いた本人がもう中身を忘れとる)、名所を説明する文章の中に作者が登場したり、一部分が紀行と同じ書き方になっていることがあるのです。

まあ西鶴の小説の中にも一人称で始まって、いつのまにか三人称になっちまうものがあったり、そのへんの江戸の作者たちの意識ってのは、馬琴などのようにかっちりしている人もいますが、かなりアバウトではありますからね。
それに紀行というジャンルがそもそも、案内記や奇談集や歌集や句集や地誌などなど、似ても似つかない分野の作品類と、あっちこっちでくっついて、区別がつかない、いろんな形式を持っていますからね。そういうことも関係しています。

ちょっと私小説っぽく

もう、ついでに、悪ノリで脱線します。
まだパソコンとかも少なくて、私たちも資料の整理は全部カードでやっていたころ、私はある時期から、小型の黒表紙のファイルにカードを綴じて、いろんなテーマを整理していました。
これが、なかなか大当たりして私の研究は画期的に進み、論文もいっぱい書けて、まあ充実していたのですけど、その内に忙しくなったり手を広げすぎたり何やかやで、多くのファイルが中途半端にテーマの墓場となりました。今もそういうファイルがずらりと棚に並んでいて、まあ死ぬまでにその中から少しは救い出して、のちの人が同じテーマで研究を始める時の役にたつようにしておけるといいがなあ、と思っている次第です。

渡辺政香の紀行類も、手をつけかけていたのですよね。何がきっかけだったかというと、二千五百はあろうかという江戸紀行を、できる限り集めて目を通すという、普通の人ならやらないような無謀すぎる作業をしていて、とにかくタイトルと作者だけでもななめ読みしていると、次第にその中に、「紀行作家」とも呼べるような、「多作者」が目立ってくるのです。
その「多作者」のリストもたしか作ったんだよな私。ほんとまた誰か親切な人から片づけのつもりで、うっかり捨てられない前に、あのリストの人名だけでも、ここに写しておこうかしらん。あ、言うまでもありませんが、この「備忘録」に公開した資料は、いくらでもコピーして利用して下さってもかまいません。ただし、絶対正確でまちがいがないかというとわかりませんから(もちろん、ないつもりですが)、責任の所在をはっきりさせるためにも、私の名前というか引用元は書いておいて下さいね。どこが出どころかわからないまちがいがひとり歩きして広がると、ほんとに話がややこしくなるのです。

で、その「多作者」のリストの中に上がってきた一人が、この渡辺政香です。「国書総目録」で確認すると九点の紀行があって、いずれも写本で、岩瀬文庫の所蔵でした。

岩瀬文庫って、名古屋近くの西尾市立図書館にあり、やはりその近くの狩谷図書館と並んで、江戸時代の貴重な古書をたくさん保存しています。一時期、何かの都合か事情かで、西尾市立図書館の館長さんが規則を変えて、一時に閲覧できる書籍の数を数点に制限したので、全国の国文学界はパニックに陥りました。私などもそうですが、数日かけてたどりついて、数時間で必要な本の各部分を確認しようと思ったら、数十冊を一度に見るぐらいの仕事はあたりまえです。
どうしようもないから、全国の研究者は、ひたすら複写依頼を申し込むしかなく、おかげで複写依頼の予定がものすごく詰まってしまって、申し込んでも数年後にしか届かないという、これまたとんでもない事態が発生しました。
もう何十年も前のことで、今はもう変わっているだろうと思います。おそらくその規約改定は、実際の研究の実態をよく知らないままに、何かの基準を適用したのだと思いますが、こういうことも起こる時には起こるものです。

私が渡辺政香の紀行を岩瀬文庫で閲覧したのは、そのような事態の起こる前かあとかもうまったく覚えていませんが、カードが残っているのを見ると、一応無事に見られたようです。コピーもすべてファイルしてあります。(ただ、そういう状況と関係あるのかないのか、写真がすごく不鮮明で読みにくいのは、すごくやる気をそぎますね。)
紛失するのも恐いので、ご退屈さまでしょうが、とりあえず、作品の書誌カードを写しておきます。

渡辺政香の岩瀬文庫所蔵紀行

かっこ内は図書館の請求番号、「コピー赤ファイル一冊」などは、私の保存形態のメモです。「墨付」とは白紙でない、何か書いてあるということです。

○紀行集(岩瀬168-83)寛政3? コピー青ファイル一冊
写本一冊(カードでは二冊とあるが、一冊欠) 青表紙 題簽等なし
24.9☓16.5cm 8~11行書 手稿本 全83丁(墨付81丁)

中(原)表紙 外題「浪華記行 源政香」 内題なし 奥書なし
後58丁は中表紙外題「西游藁 渡政香」

文庫のカードは「紀行集」だったようだが、中身は「浪華記行」と「西游藁」の合冊。まさに稿本というか下書きのメモ風。日付と地名、時に漢詩や和歌が羅列されている。「浪華記行」は3月24日から作者の自宅のある東海地方を出発して八橋、鳴海、桑名、草津、勢田を経て京へ着く。30日から京大坂を見物、5月4日に帰宅。「西游藁」は、寛政3年1月9日に出発、二見ヶ浦や伊勢を見物、宮崎文庫に行く。その後、熊野から大坂に行き、27日に芝居見物。2月1日に大坂を出て芳野、初瀬、奈良、宇治を見て草津から京に入り、14日に摩耶山、生田、須磨、湊川を見て、明石から竹生島を見物、谷汲から名古屋、池鯉鮒を経て27日に帰宅。

○西游藁(岩瀬168-32)寛政3 コピー赤ファイル一冊
写本一冊 灰色表紙 左肩貼題簽 仙霞亭罫紙使用 10行書 朱入
24.5☓17.3cm 全68丁(墨付65丁)
末尾に「以下七葉空白紙除却〔岩瀬文庫印)」と朱書

外題「西游藁」 内題「西游藁序」 寺津神社朱印
奥書なし

「紀行集」に入っている「西遊藁」の清書であろう。旅をする理由を述べた漢文の序があり、ほぼ漢文で、行程を日を追って記し、各古跡や名勝についても漢詩や漢文で説明を加えている。寛政3年1月に寺津を出発、棚嶋、師崎を経て伊勢を見物、その後熊野に赴く。24日に高野山を訪れ、25日に難波へ着く。2月1日に吉野、3日に奈良、4日に宇治、5日に石山を見物し、草津、三井寺を経て9日に京に入る。10日に京を出て亀山、山崎、摩耶山を経て14日に兵庫の須磨や明石を遊覧する。20日に天橋立を見て、22日に竹生島を見物、谷汲、池鯉鮒(知立)を経て27日に帰宅する。
紀行としての形式は整い、記事もあるが、読者を意識して読ませる工夫をしている感じではない。

○富士浪華記行(岩瀬42-8)文化13? コピー黃ファイル一冊
写本一冊 茶色表紙 題簽等なし
24.8☓16.3cm 10~12行書 全73丁(墨付71丁)

中(原)表紙外題「浪華記行」 内題なし 奥書なし
手稿本 後半25丁は「冨士記行」その前21丁は「西遊稿」(中表紙題)

文庫のカードは「富士浪華記行」だが、中表紙題を見ると、「浪華記行」「西遊稿」
「富士記行」三作の合冊。ともに旅中のメモのような、日付と地名と漢詩や和歌。さまざまな下書きや覚書が混在していて、三作とも整った作品とは言えない。

○東游藁(岩瀬168-40)文政元
写本一冊 灰色表紙 綴じ糸切れ 左肩貼題簽 「第二部 第九〇号 幡豆郡本津村渡辺政孝蔵書」の紙を貼付
24.9☓17.3cm 10行書 朱入 全46丁(墨付40丁)
「仙霞亭蔵本」柱の罫紙使用

外題、内題ともに「東游藁」 奥書なし
寺津八幡書庫印、保宝葉園、政香、弐善、の朱印

比較的形式が整い、まったくのメモ風ではない。しかし、漢詩や和歌や故事来歴が羅列され、漢文と和文が混在するなど、読ませようという意識はあまりない。序文めいた書き出しでは文政元年6月12日に始まる旅か。

何か所かまとまった紀行風の文章がある。

「大の浦長浜
天龍川の東に大の江と云る所の浜辺なり。しるはの磯も其東南にて横すかといへる所に近し。あら海の中に巌のはる<と磯より前にひいでゝ汐のひぬれば馬の背のごとくつゞきて、数<見ゆ。里人は『七十五匹のこまがた』といひならはし、其所の神を『こまがたの明神』とぞいふなる。彼遠江なだとて舟人の手向し、かしこしとするは此巌にあたる波のあらきによりてなり。万葉集に、
とへたほみ(遠江)しるは(白羽)の磯とにへの浦とあひてしあらばなにか思はむ」(十四日天龍川の部分)

「昔の海道は富士足高の山の間を通れ里。其中に横はしりの関といふ所あり。旅人□□触穢の者共、朝夕通り、けがらはければ(ママ)足高の明神いとませ給ひ、南海の中に波にゆられて有ける嶋を打寄させ給ひて、今道は出来にける。其寄られし嶋は今の浮嶋が原といふ」(二十一日足柄山の部分)

○勢南記行(岩瀬95-107)文政4 コピー黃ファイル一冊
写本一冊 茶色に白の横縞表紙 題簽等なし
23.4☓15.1cm 7~9行書 全11丁
「政孝」紙、中表紙に裏張り

中(原)表紙外題「勢南記行 源政香稿」 内題「遊勢南記 源政香稿」

短い漢文紀行。冒頭の日付は文政4年とあるが、中の漢詩は「西游藁」と同一だったりして、行程も同じ部分が多く、両者の関係にはなお検討が必要である。

○北游藁A(岩瀬166-157)文政5 コピー緑ファイル一冊
写本一冊 紺色表紙 題簽なし 「第九号」の政孝蔵書紙貼付
24.0☓16.4cm 罫紙使用 10行書 全43丁 朱少々
政香、弐善、保宝葉園、の朱印

外題なし 内題「北游藁序」 奥書なし
手稿本

文政5年6月の漢文序がある。本文は和文もかなり混じっており、むしろ和文が基調か。紀行として整っていて、記事も多い。
もう一点の(ごていねいにも請求番号までが同じ)「北游藁」と内容は同じだが、文章は微妙にちがう。このころから、作品としての完成を意識しはじめているのか? 両者を見当比較することで、その創作意識を探れるだろう。

6月9日に出立。鳴海、犬山を経て北陸に向かい、金沢、市振、善光寺、松本、駒ヶ嶽などを訪れている。同じ題のBと内容は同じだが、Bの文章には推敲や添削のあとが見える。
同じ部分を比較すると、仮名遣いや接続詞を細かく直しているのがわかる。

「十一日。天気よし。犬山を発し、暫く往ば表石あり。右は観音道、左は勝山道とあり。右に入ツて継鹿尾山寂光寺詣ふづ。本尊千手観音。俗説に熱田大神宮の奥の院なり。古しへ日本武尊、鹿に乗り通ひ給ふに、悪風に吹切れ神徳を以てつなぎ給ふ故に『継鹿尾』という」

○北游藁B(岩瀬166-157)文政5 コピー緑ファイル一冊
写本一冊 白に灰色の横縞表紙 左肩貼題簽
24.9☓17.1cm 10行書 全65丁(墨付59丁) 朱入
「寺津八幡書庫」朱印 「仙雲亭蔵本」罫紙使用

外題「北游藁」 内題「北游藁序」

日付も記事もAと同じだが、文章は細かく異なり、おそらくこのBの方が推敲を重ねた清書本だろう。

「十一日。快晴。犬山の出口に石表あり。右は観音、左は勝山道とあり。右に入て継鹿尾山寂光寺に至る。本尊千手観音。俗説に熱田大明神の奥の院なり。古へ日本武尊、鹿に乗り通ひ給ふに、悪風に吹切れ給へども神徳を以てつなぎ給ふ故に『継鹿尾』といふ」

○吾嬬路の日記拾遺(岩瀬24-ロ86)天保9
写本三冊 茶色表紙 左肩貼題簽 「第八九号」の政孝蔵書紙貼付(右肩)
27.6☓19.6cm 10行書 朱入
全88丁(第一冊) 全60丁(第二冊) 全67丁、墨付65丁(第三冊)
寺津八幡書庫印、保宝書庫朱印

外題「吾嬬路の日記拾遺 上」 内題「吾嬬路の拾遺 源政香著」

奥書「寺津広幡八幡の大御神の神主 渡辺政香」
寺津神社、政香、弐善、保宝葉園、の印

※天保九年夏六月 政香の自序(「東海道名所図会」にもれた記事を記し、歌と漢詩を記したもの、と内容を説明)

※名所図会風の記述。益軒「東路記」風。

冒頭にかなり整った、和文の自序がある。これは「吾嬬路の拾遺」とほぼ同一である。

「吾嬬路の拾遺
吾嬬路の日記は、代々何がしくれがしの、花や紅葉とあやなせるを、「東海道名所図会」といふさへありて、から歌仏ふみのことどもまでおつることなく物しつれば、其巻を見るにこの道の名だたる処、一目になんみゆめる。こゝに、すぎし弥生のころ吾嬬にくだり程なく帰来るを、或人の『旅路の筆のすさびはいかに』などいへり。おのれ、こたへけらく『そは、はやく何がしくれかし物したる、おほければ、今さら、ことさらびて何をかいはん。しかはあれど、たゞにやむも本意なきわざになんあれば、かの名所図会(東海道名所図会のこと)にもれたる古事をとりいで、かつ、おのが拙き歌や、から歌を書そへて三巻となし、吾嬬路の拾遺と名づけつ。
天保九年夏六月 源政香 印」

その後は、時たま日付と個人的な紀行風の記述が出るが、ほとんどが名所図会風の、地名と古跡名を項目にあげては、膨大な他文献の引用が続く。

紀行風の部分を紹介する。いずれも第一巻から、出立と、大井川渡河の部分である。

「(三月)廿五日。うらゝかなれば、老の身ながらも、千里の行も一歩にはじまると聞つれば、心閑に杖を携むと思ひしに、妻子等かねて駕籠の支度致して「いざ」と勧にまかせ、舞木を指して急ぎける。朝岡勝智、坂部政幹、其余の人々、跡より送来にける。矢田養寿寺下ニ而、此人々を帰し、西尾御築地の外ゟ御劔八幡宮を遥拝し、

ながき世のまもりなる覽西尾なる宮居にまつる神の御劔

御劔八幡の事蹟は、予が輯録せる『三河志』西尾郡に載。今は省きぬ」

「三月晦日。大井川支へ。けふも金谷の駅に□(つえ)をとゞめて、

大井川道ゆく人をとゞめても春に別れはとゞめざりけり 政香

遠州新地村小津才兵衛、酒肴を携へ旅中見舞として来る。才兵衛、子を熊蔵と云。予、先年より親しかりしが、今はみまかりたり。昨日、海道にて荷物に誌したる札の姓名をみて、当駅に逗留を察して旧誼を謝んとて物しつるなり。嗚呼、今、人の□□をみるに、昨日は親しかりし者も今は路人の如く、よそにみる輩に比すれば天と地の違ひと云べし。

いつみても嬉しきものは豆の名の心かはらぬ人にぞありける

四月昨日。晴レ。河あきたれば、金谷駅に逗留在し越前鯖江侯、筑前秋月侯、石州出石侯、其外之御役人并に商売輩、夜七ツ頃より川端に出給へり。又、嶋田の方には播州明石侯を始とし、阿蘭陀人并数多の御役人、川岸に印の旗を建、高張提灯或は手提灯を携へ、銀漢に星の連るにひとし。『乱れたる代の野陣のさま、かくありなん』と思ひ侍る。
暫(シバラク)みる中に、よはしら<と明たり。其時、壱人の瀬踏、嶋田の方より松明を携へ、下の瀬を渉り西の岸にのぼりけるをみて、東にひかへし嶋田の河越し、連台をかつぎ一同声を発して渡りそめけり。しかする間に金谷より壱人の瀬踏、松明を携へ上の瀬を渉る。東の岸に着とする頃、金谷の河越、一同声を発して渉りけるは嶋田の河越に同じ。
予も 御朱印を守護し供人も怪我なく渉しけるこそ嬉しけれ。

名にしおふ大井川瀬のせきまでに流れたへせず渡る旅人 政香

東の河原にて阿蘭陀人をみて、

こととはん西のはてなるから国に富士より高き峯もありやと 為福

おもはずよ西のはてなるから人を吾妻の道のこゝにみんとは」

このような部分は、まったく普通の紀行であるし、川渡りの場面などは、他の紀行でも見たことがないほど具体的で迫力があり、描写もすぐれている。ただ、このような部分は全三巻の長編の中でも本当に数えるほどで、大半が、名所図会風の故事の説明と古典の引用である。それも、「東海道名所図会」などの著名な名所図会のように、記事の長さやバランスを考慮して読者を意識している様子はなく、ひたすらに集めた限りを書き連ねている印象である。もちろん図会もまったくない。したがって、読むのにかなり忍耐を強いられると言っても過言ではない。

第三巻は、江戸滞在中の日記と帰路の記録である。この巻では更に名所図会と紀行(日記風の部分)が混然としてきており、区別するのが困難だ。ただ、時に登場する比較的長い紀行らしい記述は、題材も独特で描写や記述もすぐれている。政香が題材の選択力や描写力において、紀行作家としての才能を十分に持っていたことが、よくわかる。あるいは、だからこそ、それを名所図会風の資料収集力や豊富な知識と、どのように融合させて作品として結実させるか、彼なりの方法を最後まで模索して、完成に至らなかったのかもしれない。

「(閏四月十七日)筑後守松平君の第を訪ひ、閑談して四ツ頃寓居に帰る。
日已に九ツにもならんとする頃、遥に鐘の音せはしく街中さはぎ走る人多し。『いかなる事にや』と二階の窓を開けば、日本橋の方にあたりて一縷の煙たちけり。『こは火をあやまてるなり』と見る内に、煙は墨をながしたる如く空にみちけり。折しも南東の風吹ければ、寓居の上まで煙来にけり。隣家は屋根に水をそゝぎ今し類焼するやと驚ける。又御城の西にあたり煙たちけり。牛込辺の失火なりと談を聞き、弥(いよいよ)驚ける。忽、風かはり東よりつよく吹ければ煙は西南の方へなびきけり。火消共の家を崩(クズ)す音は百千の雷、一時に轟(トドロ)くにひとしく、御朱印の唐櫃を荷ひ逃来る人もあり。或は老人を負ひ或は風呂敷包を提(サゲ)ながら子の手を引て逃来る人々の心思ひやられて、

みな人のなげく涙も雨とふりていたくあらぶる火をも消してよ

とよみける折しも風しづまり煙も薄くなりて、夜五ツ時に火はしづまりぬ」

まあ、こういうところで歌を詠むというのも今の感覚ではそぐわないかもしれないが、この時代の人はこうやって自然に口からこぼれるのだろう。
程ヶ谷で大砲の移送に遭遇した記事も面白い。

「廿五日。雨降。午後ヨリ晴に□ス。
程谷、戸塚の間に百人斗りにて車を牽き後(アト)より弐十人斗りにて□□車を牽来る者あり。村民に問へば、五貫目玉の大筒(オヽヅヽ)なり。五年目毎に火術懸りの御役人、御陣に来りて藤沢の浜にて御稽古相済、江戸へ御帰りにとて、御役人は井上左太夫様と申しけるとぞ答へける。初百人ばかりにて牽くは大筒なり。其色、唐金(カラカネ)の如し。次ニ弐十人斗りにて牽くは台なり。両五貫目玉の大筒を見る事、今度初めなり。旅中一興といふべし」

また沼津付近では奇妙な旅人と会った体験を述べる。ここはコピーが不鮮明で判読不能な文字が多いので、よく意味がわからないところもあるが、一応紹介しておく。

「(廿七日)沼津より原の間、前髪にて廿二三と云べき男、はでなるゆかたを着し一腰帯し、連の如き者二三人、小児二三人連れと来る男あり。『相撲なる歟(か)』と問へば轎夫曰『あれは天狗小僧なり。小児を愛して往来にも連れありきし。病気をまじなひもらへば忽平癒致し候とて、殊の外此辺にてははやり候。天狗と云に□れ□は、此間中岩渕逗留の間、或時富士へ行とて出かけられし時、家内者『土産に雪を下され』といゝければ一時ばかりの内に雪をもちて立帰られ候と申噂に也し」といふ。いと怪しき事□□□□。三河国にも今春、天狗小僧とて八九歳児来りて、まじなひすれば多く感応ありと云。或村にて稲を盗まれし故、村中言合札を入て盗人せんぎせんと相談るに或人『天狗小僧はよく物を知る。試みに問ふてはいかゞ』といふにまかせ問つれば、彼人悪みて□□□いまだ積みてありと言」

閏年だったので、四月六日に帰宅している。この時も、普通の紀行のように迎えの人々の様子などを詳しく記している。

s○吾嬬路の拾遺(岩瀬166-159) コピー青ファイル二冊
写本二冊 白に青の横縞表紙 左肩貼題簽
25.2☓17.5cm 9行書
全62丁、墨付61丁(第一冊) 全48丁、墨付も(第二冊) 朱あり
「寺津」「保宝葉園」朱印

外題「吾嬬路の拾遺」 内題「吾嬬路の拾遺 源政香誌」

冒頭に富士の図 寺津八幡朱印
「吾嬬路の日記拾遺」の清書本か

※名所図会の形式(絵はなし)
未完? 京都と帰路のことは三の巻に記すとあり

内容はすべて「吾妻路の日記拾遺」と同一。細かい異同もあり、添削や加筆は相互にあって、どちらがより清書として意識されていたかは判断し難い。二巻の末尾も同一で、現存しない三巻も、「吾妻路の日記拾遺」の三巻と同じ内容であった可能性が高い。

中間報告風だが、まとめてみると

「まとめ」と言うにはあまりにも未消化な部分が多いのだが、現段階でつかめる限りの渡辺政香の紀行制作について、述べておく。

 

(つづく)

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