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(132)神棚のたぬき

醤油差しを探して

叔母の残したもの、お気に入りにブランド「イマン」の製品、その他いくつか手元にあるが、どれもいまいちなのが、しょうゆさしだ。どうしてもついだ後に注ぎ口からしょうゆの余りがこぼれるのだ。実は由布院で買ったかわいらしい丸いひとつが、ちゃんとしたたりが切れて優秀なのだが、しばらく前から見つからない。めんどうくさくなって、ここのところしばらく、冷蔵庫から買ってきたままのしょうゆのボトルから、そのまま料理にかけていた。
例によって、山のような古い荷物を整理していて、宇佐神宮の文字が入った、分福茶釜のかたちをした、しょうゆさしらしきものが見つかった時は、だから情けないほど大喜びした。家族の食卓に載っていたか、私が自分で買って持っていたのか、それさえもう定かではないが、たしかに幼い日の記憶にあった品だった。

宇佐神宮と分福茶釜の関連なんて聞いたことがない。もちろん今では神社にも商店街にも多分売られていないだろう(む、しかし今ネットで検索したら「文福」という食堂はあったな)。それも、なおのこと貴重に思えた。注ぎ口になっているたぬきの顔が、まったく擬人化もかわいくもされていなくて、小さくリアルなモロたぬきなのも、いたく私の気に入った。
試しにしょうゆを注いでみると、何とみごとにまったく後を引かない。すっかり浮かれてレンジの上においたのだが、ことはそう簡単ではなかった。

思い出の喫茶店

数日すると、のせたお皿の上にしょうゆがたまっているのに気づいた。あらと思ってたしかめると、側面から底にかけて細かいひびが入っていて、時間がたつとじわじわと、そこからしょうゆがもれて来てしまうのだった。
これでは、しょうゆさしとして使えない。そうかと言って、それ以外の使いみちはありそうにない。飾っておくのも捨てるのも何だかちがうような気がして、空にして洗ったまま、数日うじうじながめていた。
台所用の洗剤でも入れようかと考え始めたころにふと、ずっと昔、まだ若いころ、誰だかもう忘れたのだが、多分学生か同僚か後輩か年下の男性と、どこかの駅の地下街でお茶を飲んでいた時のことを思い出した。

別にロマンスがあったわけではないが、それなりに楽しい華やいだ気分でおしゃべりしていた記憶がある。そうしたら、ウェイトレスがやって来て、二人の間にあった砂糖壺を取り上げて、手にした銀色の水差しからやおらそこにさらさらさらと白い砂糖の滝を注いでいっぱいにした。
あっという間のことだったから、これといったリアクションをする間もなかったとは言え、何しろ水が入っているとしか思えない普通の水差しだったから、相手の男性からは見えない位置だったと思うが、目の前で見ていた私は一瞬固まった。彼女がにこりともせずに砂糖壺をテーブルに戻したときに、ふだんはそんなことはめったに口にすることもないのに、思わず「あー、びっくりした」とつぶやいてしまったのは、もしかしたら若い男性の前で、ちょっとかわいぶってみたいという心境も砂粒ほどはあったのだろうか。

グラニュー糖で楽しむ

ウェイトレスは眉も上げず笑みも浮かべず、すましてそのまま去って行った。私のような反応をする客は他にもきっといただろうから、それとなく楽しんでいたのかもしれない。
もう完全に記憶のかなたに埋もれていた、その情景を思い出したとき、そうか、洗剤を入れるなら砂糖もいけるんじゃないかと思いついた。
たまたま私は少し前から、コーヒー用のグラニュー糖のスティックが大幅に余って、料理にもそれを使っていた。毎回スティックを破るのがめんどうで何とかしようと思っていたときでもあり、それをたぬきのしょうゆさしに半分ほど入れてみた。料理のたびに鍋の上で傾けて振ると、面白いように白い砂糖が出てくる。

やったぜと私は喜び、シンクの横にある冷蔵庫の上にたぬきのしょうゆさしあらため砂糖壺をおいた。そこは、榊や水をおいて神棚代わりにもなっている場所なのだが、宇佐神宮の文字の入った器だし、まあかまわないだろうということにした。
その後、グラニュー糖がなくなったので、普通の砂糖を入れてみたら、これはやっぱりたぬきの口が小さすぎるのか、うまく出てきてくれなかった。しかたがないから、今はその都度蓋をとって、振り出している。それでもいけないことはない。しかし、次はやっぱりグラニュー糖にしようかな。そして、来客のたびに、あのウェイトレスのように、すましてさらさらたぬきの口からコーヒーに砂糖を入れてあげるというのも、なかなか面白そうではないか。

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カツジ猫