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(6)ちょうちょのモビール

(汚部屋・社会活動・モビール)

汚部屋なんかメじゃない

田舎の大きい古い家は、母がずっと管理してくれていたが、いつの間にか彼女も年をとり、しかも市民運動や平和運動にはせっせと出かけて、選挙の応援や署名活動や集会に出かけるので、家の片づけなどできるはずもなく、ようやく私が何とかしないとと思ったころには、今いうところの汚部屋どころではない、ものすごいことになっていた。

何しろ私が自分の家から三時間ほど車を飛ばして帰って来て、そのころは子宮筋腫の持病もあり、くたくたのへとへとになって家に着いても、寝る場所どころか座る場所もなく、母がいつもいる台所の板張りの部屋のこたつには、猫の小便のにおいが漂い、廊下は犬の爪痕で傷だらけになり、立ち話をしてはすぐ帰るしかないぐらいの、ものすごさだった。

もう、ことの前後は忘れたが、とにかく筋腫の摘出手術もすませ、体制を整えた私は、覚悟して大きな家の片づけとリフォームに乗り出した。家全体を見ると荒廃と崩壊はさらにものすごくて、祖父の書斎が昔あった離れには、幼い私が祖父に抱かれて寝ていた思い出の美しい黒い襟のついた茶色の縞の丹前布団の上に乾びた犬の糞が山盛りになり、叔母が母に買ってやった上等の服の数々がめちゃくちゃにかけられたラックは、重さでポールが折れ曲がり、その糞の山の上に服が垂れ下がっていた。窓ガラスは割れて、冷たい風や雨が吹き込んでいた。人が住まなくなって荒れた以上に、それはすさまじい光景だった。

社会活動に見返りを期待するな

ちなみに私はそうやって、母が家の管理もほったらかして、社会のために活動していたことは、それなりに理解も評価もできる。だが、自分自身は、家の管理や身体の管理ができなくなった時点で、外部への奉仕や関わりは、それなりの制限をしないといけないと、その時に痛感した。
痛感したことは他にもあった。母はその時期、悪質なリフォーム業者につかまって、屋根の修理や壁の修理やいろいろ合わせるとたぶん一千万円近い金をむしり取られていたと思うのだが、そういう業者は金がとれる修理は底なしにする一方、それだけ荒れ果てている家の他の部分にはまったく関心はなく気にもならないものらしい。死にかけているガン患者や、足が折れて血まみれになっているけが人に平気で二重瞼の整形手術をしたがるような、その冷酷さに私はしんそこ慄然とした。
それとは決して同じではないが、母がそうやって、家のことを犠牲にして、地域のためや社会のためにいくらつくしても、尽くした相手や、戦った仲間は決して荒れた家や生活の面倒を見てくれはしない。老後の相手もしてくれはしない。

そんなのは当然である。戦えなくなった仲間に戦士たちは用はない。ボランティアは自分の老後にそのお礼をしてもらえると期待してするものではない。たまたまそうなる場合があっても、それはあくまでたまたまだ。子育ても介護も同じようなものだろう。

老後のための奉仕なんて最低

新聞の人生相談で、「地域の役職をそろそろやめたい」「近親の世話を続けたくない」という相談に対し、「老後は人とのかかわりが大切。そういう関係を断ってはいけない」という回答やアドバイスを見るたびに、私は本当に、現実も理想も、どっちも何一つわかってない回答者だとあきれはてて、ものが言えなくなる。そんなことを考えて地域や家族のために身を粉にしていたら、粉にする体力も知力も気力もなくなったとき、残るのは「自分はこんなに皆のためにつくしたのに、誰も感謝しないし、碑も立たないし賞状もよこさないし、正月のあいさつにも来ないしバースデーカードも送って来ない」という、あさましい恨み言だけだろう。

昔、知人の一人が、地元の児童施設か何かの建設に邁進し献身した外国人女性が、自分は年を取って何もできなくなった時、その施設や関係者の世話にはなろうとせず、単身故国に帰郷してしまったことを、ものすごく感心し感動してくり返し話していた。私はと言えば、そんな根っからあたりまえのことを、この人何を感動してるんだろうと、不思議でしかたがなかった。そんなのは生きる上での死ぬ上での基本中の基本ではないのか。自分が世話になることを期待してする奉仕なんて、返済義務のある奨学金やひも付き資金と同様に、いやそれ以上に気持ちが悪い危険な不良物件だ。

「とよべえ」の思い出

いつものことながら、前置きが長くなった。
さてその、めっちゃ広大な荒廃しつくした家を何とかするのに、私はまず、どこかの一角をきれいにして、そこを根城に少しずつ片づけに乗り出すしかないと思った。その場所にまず選んだのが、二階に上がる階段が斜めに部屋の隅を横切る、玄関わきの小部屋だった。ここは昔、お手伝いさんの女性や、祖父が開いていた医院の看護婦さんが住む部屋で、幼い私も時々遊びに行っていた。とても小さい四畳半ぐらいの部屋で、押し入れもなく、ふとんは部屋の隅に重ねてあって、でも壁には竹下夢二風の少女雑誌から切り抜いたような女の子の絵がいくつも貼ってあったりした。

私がまだ本当に小さいころ、お手伝いさん代わりに住み込んでいた、祖母の親戚の若い女性が一時期いたのもこの部屋だった。「とよべえ」と呼ばれたその人は、本当に無条件に私を溺愛し、猫かわいがりしてくれた。気性が激しく厳しい母に怒られて私がべそをかきそうになると、すぐに私をおぶって庭に逃げ出し、あたりの木や石灯籠や築山を見せて、そのへんを歩き回ってくれた。顔も声も姿もしゃべったことも何ひとつ記憶にないのに、私は「とよべえ」のことをとてもよく覚えている。私の心のどれだけかは確実に彼女が作ってくれたものだと私は信じて疑わない。

「とよべえ」はまもなく病気になって、そのへやで死んだ。祖父やいろんな人が看病していて、私がそばにいると、彼女は私の名を呼んで「ようこちゃん、バナナが食べたい」と言った。私は台所に行って祖母にそのことを伝えたが、多分自分の親族がそうやって皆に迷惑をかけているのを苦々しく思っていたのだろう気丈な祖母は「そんなことを言って」と言うようなことしか言わず、もちろんバナナはくれなかった。私は祖母も好きで信じていたから、そのことを残念にさえ思わなかったが、ただよくわけがわからなかった。とよべえがいつ死んだのか私は知らないままだった。お葬式も多分なかった。家族が引き取って行ったのだろうか。

私は定年退職後、実家の近くの山の上の墓を、母と二人で改修したが、その時に母とささいな喧嘩をして、腹いせにこっそり、今いる町の家の近くに安い小さな永代供養の墓を買った。そこに入る気というのも別になかったが、何となく自分の魂はそこにもいるようにしたいと思って、町や湖を見下ろす丘の上の、その黒い墓標の表には、いっしょに暮した猫や犬たちの名前を彫った。ピンクの大きな土台石の正面には、「豊」の一字を彫りこんだ。故郷の豊前地方のゆかりの文字であるとともに、「とよべえ」の思い出を残したかった。ただ私は彼女の名前の漢字を知らず、母に聞いてもわからなかったので、この字でいいのかどうかわからないが、とよべえはきっと気にしないと思う。

愛された小部屋

とよべえのいた、そのへやを、私はまずきれいに掃除して、大工さんに頼んで、昔お手伝いさんたちがふとんを積んでいた場所に、広いクローゼットを作ってもらった。庭が見える小さい廊下には、花のかたちの電灯のついた小さいドレッサーをおいた。クローゼットの反対側には、研究室で使っていた黒い大きなソファをおいて、小さい丸テーブルと、叔母の家から持ってきた古い電気スタンドをおいた。

その後、ソファを大工さんにもらってもらったり、母の使っていた小さいたんすを置いたり、古い木のベッドの足を切って低くしたのをおいたり、何度か模様替えをしながら、この部屋はいつも私の基地で休憩場所だった。
窓と反対側の、旧診療所へ行く廊下には、カレンダーから切り抜いたバラの花を額に入れて飾り、天井には自分で買った、籐のカバーのついたライトを下げた。部屋の天井には、叔父の書斎につるしてあった、立派なライトをつるし、長押には、やはり叔父と叔母の家にあった、立派な横長の掛け軸をかけた。
そう言えば、その旧診療所へ行く廊下にも、昔まだ祖父母がいたころ、猫たちが糞をしてそれが固まって汚れつくしていたのを、立派な病院の副院長である叔父が、せっせと削り取って掃除してくれたことがあった。そのことを驚いたように母に話していた祖母も、ちょうど母がやがてそうなるように、次第に広い家全体の掃除をすることが体力的に限界になり、無気力になりはじめていたころだったのだろう。
私自身がそうなるまでに、あとどのくらいかかるだろうか。だが、まだその部屋を改造する時には、そんなことは私は考えず、ただ、その一角が、地獄のような家の中から、明るく静かに生まれ変わっていくのに幸福を感じていた。

きれいになったが、どことなく風変わりなその部屋は、ときどき泊まった学生たちにも人気があって、「赤毛のアンのへやみたい」「ハイジのへやみたい」と面白がられていた。私は特に、窓から見える玄関わきの庭の巨大な岩と樫の木の林、その眺めを斜めに横切る階段の底板が好きだった。そこに、今風のおしゃれな飾り物をかけたりしているうちに、その、せっかく斜めになっている一部天井のような階段下の板に、何かつるしてみたくなった。

ちょうちょをつるす

たしか、写真入れのモビールや何かをいろいろつるしたのだが、覚えていない。最終的に、オレンジと黄色の木製のちょうちょのモビールをつるすことにした。それをどこで買ったのか全然覚えていないのだが、とにかくそれなりに、しっくりはまったので満足して、そのころは家全体も何とかきれいに片づき、母の隠居所用に、隣の土地に新しい家も建てたので、私はめったにその部屋に行かなくなった。

結局、やがてその古い大きな家は、ほれこんでくれた不動産屋の旧友が買い取ってくれるという最高のかたちで手放せることになり、私は満足して、すべての戦いの出発点となった、その小部屋を片づけて、ちょうちょのモビールもはずして、しまった。しっかりしているとはいえ、こわれそうな細工だから大事に箱にいれたものの、ずっとそのままで、かなり長いこと、思い出しもしなかった。

ごく最近、山のような箱を片づけて、中身の雑貨を人にあげたりボランティア団体に送ったりする中、そのモビールを見つけた。
それ自体は私とのつきあいの歴史も浅いし、さしたる思い出があるわけでもない。たぶん、このモビールをつるしてから、私はあの小部屋で寝たことも、ゆっくりすごしたこともない。

だが、このちょうちょは、誰に見られることもなく、あの部屋で、あるかないかの風にくるくる回ったり、窓からさしこむ月光や夕日を見ていたかと思うと、そこで暮らした若い女性たちや、とよべえのため息やささやきも吸い込んでいるような気がした。
何人も暮らしたお手伝いさんの中には、夜にトイレに行けなくて、部屋の中のあらゆる箱や容器に、おしっこをためていた人もいた。祖母があきれて、尿瓶をやったら、それを使っていたらしいと母は私に話した。
私はその人を特に軽蔑もしなかったし、普通につきあっていた。どんな悪口を聞いても、それを表に出すものではないと、そのころの私はもう何となく覚えていたのだろう。もしかしたら、「何か事情があるのかもしれない」と考えないまでも感じる感覚をたぶん私はもう持っていた。

今考えると、トイレは木立に囲まれた戸外にあり、板敷きの汲み取りの、昼でも恐ろしいところだった。若い女性が夜に外に出て、あんなトイレに行けたはずがない。他の人は行っていたのが、むしろ驚きだ。
顔も覚えていないその人の面影も、このちょうちょには伝わっている気がする。

新しい家で

というわけで、今私が住んでいる小さい新しいきれいな家の、台所の天井に、このちょうちょをつるしてみた。
思ったよりずっとしっくり落ち着いて、そばの絵との相性もばっちりだったが、えらく威勢よくくるくる、うれしそうに回転する。
モビールなんだから、それが仕事だと思っても、うちの飼い猫が、いかに覇気がなくてあきらめがよくても、これではひょっとしてカーテンをのぼって、捕まえに行こうとしないものでもないと心配になって、もう一度スツールに上がって手を伸ばし、そっと押さえてとめたら、案外簡単にぴたりと静止した。それ以後ほとんど動かない。そんなに空気の流通が悪いかなと、これはこれで心配になる。
もちろん、猫は天井に新たな物体が登場したことにまったく気がつかなかった。

ときどき、上を見上げると、オレンジのちょうちょは、明るく空中に羽を広げている。
あの小部屋で暮らした、たぶん少女という年齢に近かった若い女性たちのことを私は思う。
こんなにしっくり、いい感じなのだから、もう私がこのちょうちょを動かそうとすることもないだろう。下手すると、気がついたときには、足腰が弱くなって、人に頼まなければ外してもらえないほどに、私は年老いているかもしれない。そんなことも、ふと考える。(2017.3.27.)

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カツジ猫