「大学入試物語」より(27)
4 内なる要因
私はかつて教授会で、大学の自己評価について議論されていたとき、「どうして社会に公開し、政府に報告する自己評価にそんなに正直に弱点や欠陥を暴露するんですか。そういう検証は内部できちんと行って改善にとりくめばいいので、外部に発表する場合はうちの大学の教員や組織を、最大限に高評価できるような項目と基準を作ってアピールするのが当然でしょうに。大学が甘くて企業に学べとか言うんなら、そここそ学ぶべきで、どこの企業が自社の弱点を見せるような自殺行為をするもんですか」と発言したことがある。だから、この文章でも大学の多忙化を生んだ原因が、私たちの方にもあるなどという反省は、基本的には言う気はない。
大学人が大学関係の本を書いているのを読んで、よくあきれるのは同僚や大学の体制をせっせと批判して改善や改革を訴えていることだ。そんなのは大学内部でがんばってくれればいい。自分が内部でできなかったような改革を外に向かって訴えて何の説得力があるだろう。
ではあるが、大学以外にも共通するかもしれない、あるいはその反対に大学なればこその、多忙化を生む性質も理解してほしいので、最低限にあっさり(と言っても私のことだからどうなるかわかったものではないが)と、そのへんについて書いておこう。
前項で書いた、人不足、金不足の解消のためにする工夫が更に新たな仕事を生み出し多忙化を促進するという事情については、私はもしかしたら大学や大学人の性質も少しは影響しているかとひそかに疑っている。
今でこそそんなことはあまりないが、昔は「わかりにくく、ややこしく書く」論文や本がえらそうに見えるという風潮はたしかにあった。わかりやすい話はむしろ軽く見られて軽蔑された。その原因か結果かは知らないが、大学教員だか人間だかには、そういうややこしい体制や手続きを作って喜ぶ傾向がたしかにある。ついでに言うと、そこには自分以外の者には立ち入れなくすることで、優越感や満足感を得ることもある。立ち入れない方もまた、その謎を解いたり手続きをクリアしたりして、その迷宮に招きいれられることに達成感やエリート意識を持つこともある。
大学の委員会や会議で、人事や予算やカリキュラムについて「ここをこうしたら」と提案するたび、「いや、若い方はご存じないでしょうが、それは今から三十年前の組織改編のときの確認事項というのがあって、ここの講座はあそこの講座に借りがあってああたらこうたら」と生き字引のような老境の先生の説明を、どの大学でも何度聞いたことか。私自身は自分が年をとっても、そんなことを覚えているヒマなんかないし、昨日着任した新しい先生でも即戦力として大学の運営に携わってもらうためには、そんな故事来歴や古今伝授は一つもないのが一番いいと思っていたから、そんなことを記憶しておかなくてはならないような仕事はいっさいしないで来た。実際、この多忙化の中では、そんな過去の約束事への配慮はしようがないほど、あっと言うまに現状が変化して行く。
しかし、そういう、「ことをややこしくして、それをクリアすることに快感を感じる」感覚は組織でも個人でも消えてしまったわけではないだろう。第一好きか嫌いか以前に、これだけややこしくて正気の沙汰とも思えないカリキュラムや組織を曲がりなりにも無事に運営してきたのは、大学の教職員や公務員の優秀さでなくて何だろう。私ははっきり言ってこういう点で、能力の高い集団というのは本当に始末が悪いと心の底から思っている。少なくとも私はこういう点はバカでズボラだから、私のような人間ばかりだったら、こんな異常な体制はとっくに崩壊していたはずだ。
優秀で勤勉な人々だからこそ、倒れそうになり死にそうになり実際に病人や死人が続出しても(ここ十年の私の周囲では、本当に若くして死ぬ人や身体や心の病いにかかる人たちが多い)、ぜいぜい息を切らしながらもこんな状況を維持できた。東北の大震災で家を奪われ家族を奪われ故郷を奪われ肉体的にも精神的にも消耗しきって死にかけている人々に援助を与えるのに、膨大な手続きのマニュアル本を送りつけるのは、きっとこういう優秀な人々なのにちがいない。