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「大学入試物語」より(28)

もうひとつ、大学改革の初期によく言われたことだが、「社会や政府の要請で大学が変化しなくてはならないのだったら、せめてこの機会に大学の在り方を見直して、よりよい大学を作ろう」と言うような言い方があった。
私はこの「せめてこの機会に」と言う言い方が大嫌いで、そもそも現場が望んでもいない改革を(この点については次項で書く)押しつけられて、例の「何でそんなこと無視して放っておかないんだい」とあきれる大先生のような正しい反応が諸般の事情でできないのなら、次にするのは、徹底的に手抜きな対応で逃げることしかないと思ってきた。
大学改革に限らない日常の社会でも家庭でもそうだが、誰かや何かに力づくで押しつけられたことに対しては、たとえそれがいいことであっても(と、あえて言う)、とりあえず拒絶するのが当然だ。それができなければ自分の方の実態を整理して対応策を作れるまでは最大限、回答保留を維持して時間稼ぎをするのが正しい対応だ。
「こちらにも欠点があるのだから、この機会に反省をして成長発展を」などと考えるのは屈服敗北のごまかしで、ことと次第によっては屈服も敗北もしかたがないが、その事実を認めたくなくて、こんな言い方でお茶をにごそうとするのは古今東西いい結果を生んだためしがない。それは、レイプをされながら、この機会に快感を得てマゾヒズムにめざめようと努力するとか、脅しに来て玄関に居座っている暴力団と家のローン計画を検討するとか、スピード違反をしていたという後ろめたさから殺人事件の容疑を否認できないとかいうのと同じぐらいにバカげている。
欠点や弱点のない人間も組織もない。それを指摘してくれる他人や機会は重要だし貴重だ。しかし、それをどのように取り入れて利用するかは、つくづく慎重であるべきだ。どれだけその忠告や提言を受け入れることが可能かも充分に検討しなくてはならない。全面対決し、拒否する努力もしなかったやわな精神にそれがどこまで可能なのか。これを機会に本当に自己を改造し再生しようと思うなら、それ相当の覚悟がいる。少なくとも、徹底的な対決をして戦う勇気も労力も惜しんで、現状逃避し問題を回避する精神で、「せめてこの機会に」などと言っているような人間や組織なんかに、決してできることではあるまい。

第一章や二章でも書いたが、私は大学教員の、方向性はまちがうことも多いにせよ、学生への愛情や仕事への情熱にいつも半ばあきれつつ感服している。ひょっとして、こういう人間や仕事への愛情は大学教員だけではなく日本人だか人類だかのすべてに共通する傾向かもしれなくて、だから私は矛盾した言い方だが暗澹とした思いでやけくそ半分に、人類の未来にはかなり希望を持たざるを得ない。
私がそうであったように、苛酷な状況の最近では次第に薄れかけているとはいえ、まだまだ大学教員の学生への情熱と愛は深い。彼らのためにつくしたいという思いが、授業や各種サービスへの手抜きを許さず、自殺行為に等しい膨大かつ複雑なカリキュラムを生む。
この項の最初に書いた、大学人の中途半端な良心といい、学生の教育や研究への愛情といい、私はずっとこんな現状の中では、防衛本能の欠如、生存本能の欠落、潜在的自殺願望に等しいと感じ続けてきた。くり返す、戦う努力を放棄するなら、せめて手抜きとサービス低下と仕事の削減で抵抗し、組織と自分を守るしかない。
だが、誰もそれを決してしようとしない。仕事と学生と研究への情熱を失ったら大学も個人も滅びると本能的に誰もが感じているからだろうが、物事には限界というものがある。

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カツジ猫