「大学入試物語」より(29)
これまで何度も書いたように私自身は学生(受験生もふくめて)への愛情については、この十年で手を抜いてきた。研究についても同様だ。質は落とさなくても(落ちたかな)量は激減した。死にたくなければそうするしかなかった。大学全体でも、もちろん入試制度も含めて、そういう手抜きを積極的に誰もが模索するべきである。
大学の予算が削られ、効率化の大合唱のもと、社会も政府も無駄をなくすことがどれだけの無駄を生むかを見ようとしないのなら、大学もまた、正しい手抜きで早急に対応しないと、このままでは構成員が良心的で有能な人から次々倒れて行く。
とはいえ、そうやって倒れても滅びても、中途半端でも良心を守り抜こうとする人たちの感覚もわからないわけではなくて、そういう良心をなくして企業の論理で対応しなくてはならない状況こそが、大学を徐々に変質させ死に至らしめるという可能性もまた見逃せない。せめて無意識にずるずるとではなく、積極的な確認と展望を持って、何を選び何を放棄するかを、個人も組織も選択すべきだろう。
ついでにちょっとつけ加えておくと、自分が仕事の手を抜いた理由の一つを思い出して言うのだが、それは家族親族の死亡や相続、介護問題がのしかかって来たからで、退職したら退職したで、年金だけの経済生活がこの状況をますますせっぱつまらせる。
私はまだ幸運だった方かもしれないが、まあこういう家庭の事情は人それぞれに多様でランクづけなどできないだろう。だが、かつての同僚の中には現職のときからすでに老親や家族の介護に追われている者も多く、大学の多忙化はこのような人たちを更に追いつめている。
このような事態に家族がいるのと独身とどちらが苛酷な現状かは、これまたいろいろありすぎて、いちがいには言えない。今の大学に女性の役職者があきれるほど少ないのは、育児や介護の問題が特にそういう役職につくような年代の人の家庭では、依然女性に多く負わされていることもあるだろうが、しかし最近では独身と既婚を問わず男性にこのような問題がのしかかって来る場合も少なくない。
そして私のいた大学でも給与や退職金がどんどんカットされて行っていて、時間のなさやストレスをささやかに「金で解決する」余裕も失われつつある。それは雨がどしゃぶりや猛暑の日に重い資料を持って移動するときタクシーを使うといった、本当に小さな贅沢だが、そういうことさえ許されなくなりつつある。
大学教員や公務員の年金や退職金はものすごく多いという印象はまだまだ世間に根強いようだが、三十年近く大学に勤めた私で、年金は月に手取り二十万円をかなり切るし、講演料はどこぞのタレントとはちがって一回一万円程度のことが多く、本を出版しても資料や調査の費用を引いたらほとんど残らない。数年前の世代はもっと潤沢だったようだし、職種や職場によっては(大学ではない)時々とんでもなく豊かな年金をもらっている人の話も聞くが、今はもう大半がそんな時代ではないし、今後はますますそうなるだろう。大学の研究や教育を支える基盤はそういう点でも決して安定していない。
私は綿密な予定など立てなかったが、大まかに何とかなるだろう程度の老後の予測はあったから(今思うとあまり根拠もなかったのだが)、在職中は曲がりなりにも、研究や教育に打ち込めた。だがおそらく今の大学の状況は、それさえ許していないような気がする。まあ、板子一枚下は地獄の状況のまま、いついなくなるかもしれない行きずりの人間としての学生指導も研究もできないわけではないだろうからそれはそれでかまわないが、これだけ研究や教育にかける金をけちった結果は国力にきっと如実に反映するだろうと私はぼんやり考えている。