「大学入試物語」より(6)
機密事項にふれるようなこともあるから、ごくごく小さな、言ってもさしさわりのないだろう例をひとつだけあげておく。
今年のトラブルのひとつに、ある大学で試験問題の配布が開始時間に間に合わなかったということがあった。その実際の状況がどんなものだったかは知らない。細かい報道もされなかったし責任の追及もなかったし、言ってみれば、そこまでしかない書きっぱなしの記事では、よっぽどずさんでアホな試験官がうかつなミスで受験生を苦しめたという印象しか、世間の印象には残るまい。まあどっちみち、くり返すが実態がわからないから、その大学の場合がどうだったかは私も知らない。
だが、次のような事実は、別に私がばらさなくても、受験生はもちろん、その場にいない誰でも多分推測できるだろう。
試験問題の冊子は例によって、全国一律で分秒もたがわず開始される。配布されて机上に冊子がのったまま、「開始」のベルが鳴って監督官が「解答始め」と言うまでは、受験生は閉じたままの問題冊子を見つめてじっと待っていなければならない。
当然ながら、問題配布開始から解答始めまでには、今回のようなミスが起こらないよう、充分な時間が設定されている。それでも大きな教室の百人近い受験生のいる試験場では、監督官が多く配置されているとはいえ、けっこう急いで配らないと今回のようなミスを招く。
しかし、よほどのことがなければ、普通はこれは間に合う。だから私が監督官なら大教室の大人数の場合は、それほど心配しない。むしろ気をつかうのは、二十人程度の少人数の教室の試験場の場合だ。百人の教室でも二十人の教室でも問題配布に設定されている時間は同じだから、普通に配布していたら、少人数の教室では大幅に時間が余ってしまうのだ。
ちなみに、何の行事でも催しでもそうだろうが、これだけ全国規模の私に言わせれば非常識なまでのスケールの大きなイベントでは、安全を期そうと思えば、まずあらゆる局面で、時間的余裕を確保しておこうということになり、かつ最も時間がかかりそうな個所に合わせて全体の予定が決められる。その結果、無駄に待たされる人数が増加し、かつ全体に要する時間がいやがうえにも間延びする水ぶくれ日程にならざるを得ない。
それでもミスが起こるよりはいいではないか、問題配布の場合なら、間に合わないよりいいではないか、と言われればそれはもちろんだ。しかし、問題が配布されてしまうと開始時刻まで試験官も受験生もすることがない。緊張のなか、どうかすると五分以上も黙ってそのまま全員が沈黙しつづけることになる。
試験も二日目になると試験場の空気も、かなりこなれて、やわらいで来る。一日目の二科目目でさえ、最初の一科目目に比べると、受験生たちがぐっとくつろいで来たのがよくわかる。だが、最初の一時間目の緊張感は教室中が本当に真空状態の氷漬けになったようで、そこで問題冊子の配布が終わってすぐ解答にかかれるのと、心臓の音が聞こえるような緊張感の中、五分以上も待つのとでは、ひょっとしたら開始時間が十秒二十秒遅れる以上に、一点二点の開きが出るのではないかと私は思うことがある。
それを少しでも軽減しようと、私は小さい教室で少人数の受験生の監督官になったときは、大きな教室とできるだけ同じ条件になるように、わざとゆっくりていねいに問題冊子を配布するよう心がけていた。あまり長い時間待つことなく、緊張感が高まる前に「解答はじめ」の声をかけられるように、自分なりに時間配分を工夫していた。
しかし、この数年、私はそれをやめた。受験生がどう長く待たされようが緊張しようがいっさいかまわず、とにかく早く配布してミスを誘発しないことだけを心がけてきた。ひそかな配慮が評価されないのと同様、マニュアルさえ守りミスさえ犯さなければ、思いやりのなさで批判や処罰をされることはないからだ。
これは人間としての堕落だとわかっている。それでも私はその道を選んだ。同様に、日常の業務の中で評価されず目に留まらない、ささやかな無償の配慮や思いやりを維持できなくなっている人たちは、大学入試に限らず、今の世の中きっと大勢いるだろうと思いながら。こうやって、国や社会は根元からスカスカになり、早晩崩壊するのだろうとあまり明るくない予想をしながら。