「大学入試物語」より(7)
2 わかりすぎる反応
私がこんなことを書くと、何となく推測できるいやな展開が二つほどある。
まず、どこか上の方か横の方で、「なるほど、それは不公平だ。少人数の教室の受験生が待たないでいいように、開始時間を受験者数によってずらそう」と、また愚かなまでに手の込んだタイムスケジュールを工夫しはじめる動きが生まれるのではないかということだ。少なくとも、私が個人的にしていたような配慮を規則として、必ず心がけるようにとの注意書きをマニュアルに加えるということぐらいは、簡単で気軽にできる分、絶対に誰かがやりたがりそうだ。
言うまでもないが、そういうことはやめていただきたい。どう考えても百害あって一利なし、ろくな結果を招かない。
もうひとつは、これは多分受験生かその家族の声として、「そういう配慮をしてくれる先生がたまたま担当した試験場と、マニュアルに最低限書いてあることだけをする先生が担当した試験場とでは、受験生の運命がちがってくるだろう。不公平にならないよう、何とかしてほしい」という要望が出てきそうな気がする。
気持ちはわかるが、それもどうか、やめておいてほしい。
金をもらって試験問題を誰かに前もって教えるとか、自分の知っている受験生に有利になるよう意図的な工作をするとか、そういう許せない犯罪行為は決してあってはならないし、全力をあげて防止しなければならない。しかし、そういうのとはちがう、言ってみれば運のよしあしが生む不公平は人生のいたるところにつきもので、もうあきらめてもらうしかない。
と、このように私が言ったら、どれだけの人がどれだけの程度、激怒するのだろう? 最近の新聞やテレビの受験に関する報道を見ていると、開始時間の数秒の差、試験官の立てる物音、など、少々の差があってあたりまえと思えることでも絶対にあってはならない、許せないという常識が次第に生まれてきているようで本当に気味が悪い。
冷静にきっちりつきつめて考えれば、そんなことは不可能ということは明らかだから、とことん厳密さを要求するのでもなく、いわば漫然と適当に、そういうことを言いたてているようにしか見えないのが、またなおのこと無気味である。本当に真剣に完璧な公平性を追求しようとするのなら、それが不可能で狂気の沙汰であることぐらい、すぐ明らかになるだろうが、だらだらいいかげんに気まぐれに目くじらたてる風潮というのは一番始末が悪く危険だ。