「Bの戦場」あれこれ。
◇つくつくほうしは鳴き出したし、庭の花は元気に咲き誇り出したし、友人のお母さんが好きだったと言う、つゆ草が、濃い青の花をつけたけど、暑さだけはあいかわらずだ。
片づけは今一歩で、油断したのか疲れたのか、気がのらなくて進まない。
◇「Bの戦場」の感想をネットで読んだら、「課長はある意味究極の面食いでは?」などの、鋭い指摘などもあって面白かったが、課長の発言の数々に心が傷ついて読み進められなかった楽しめなかったという人も何人かいて、驚いてしまった。むしろショックだった(笑)。
何にそう驚いたのかショックだったのか、自分でもよくわからない。この小説を、そのように現実っぽく読むことのできる人というのが、尊敬を通り越して恐いのかもしれない。
この小説の作者は何よりもかけねなしに、ただもうひたすら文章がうまいのが快いのだが、それだけじゃなく、ものすごく哲学か論理学か数学か、そういう点がしっかり計算され構成され、土台ががっちり決まっている。それも、安心して読める大きな要因だ。
◇これ、ばかばかしいけど限りなく知的でなければならないという、江戸時代の黄表紙と同じなのだけれど、醜いものが限りなく好きな、絶対的な美しい人という、破天荒で非現実な設定と造型をしてしまったら、そこで、その、あり得ない人物の心理や発想や変化や思考を、徹底的に構築して矛盾なく自然に細かいところまで煮詰めなくてはならないのだ。それにふさわしい発言や行動を、全部させなくてはならないのだ。ロボット作るより骨が折れる作業だ。
それに、完全に成功してるから私は作者が数学かなんか、とにかくものすごく理知的な才能を持ってるとしか思えないのだ。まあ作家や文学者なんて、程度の差こそあれ、皆そうだけど。
◇だから映画化はどうなのかなあ。まあ映画化されても、この原作が傷ついたり価値が落ちたりすることはないと思うけど、これはそもそも絶対に映像化してはいけない作品でしょうよ。ものすごい美貌の課長にしろ、文句なしの不美人のヒロインにしろ、光源氏とかもそうだけど、もうどういうか、論理や概念の世界の存在なんですもん。具体的には思い浮かべられない、描きようがない存在で、もはやキリスト教の神みたいなもんです。
作者はそれを、知り過ぎるほど知った上で書いている。この小説は、とっつきやすいし親しみやすいし、身近だし面白いけど、本当は奇跡に近い実験前衛小説の成功だし、美とは何か認識とは何か愛とは何かみたいな、形而上学的な命題を、とことんぶちこんだ、おっそろしく高級な哲学論のテキストでもあるんだよ。
映像化って、それをぶちこわす…いや、ぶちこわしもかすり傷もつけられないぐらい、関係ない何かになるでしょうね。とりあえず、私は見に行きません。こんな宣言するのって、これまでなかったですけどね。でも、この映画を見に行くことほど不毛なことってないと、あまりにはっきりわかるんだもの。
◇この小説とは関係ないけど、そもそもブスやイケメンが好きとか嫌いとか言っても、話が大ざっぱすぎんだよね。内面をまったく別にしても、ブスでも美人でもブサイクでもイケメンでも、犬にブルドッグとチワワがいるように、タイプや型はさまざまなんだから。たとえば私は、海外ドラマで言うと「ラブリーガル」のヒロインは好きだけど(ていうか、あの人は太ってるだけで美人だけど)、「アグリーベティ」のヒロインは嫌いです。多分それって、タイプの問題。
ついでに言うと、私は写真によってはオウムの麻原の寝起きの顔によく似てるんだけど、それはなぜか、そういやじゃない。むしろ、宇宙飛行士の女性の何とかさんに似てると、ほめるつもりで言われると、ものすごくいやになる。それは多分、あの方が、自分を中途半端に知的な美人っぽく演出されるのが、私自身のある面を見ているようで、すごく恥ずかしいからだと思います。
直接会う知り合いだと、人柄やその他の評価が入るから、極端にいうと外見は関係ない。俳優やタレントでも、演技その他が加味されるから、まったくの顔や姿かたちではない。だけど、そういうものをすべて捨象した、純粋な目鼻立ちや身体つきだけでも、絶対に各人各様で、ひとまとめにきれいとか醜いとか言えるような普遍性はない。そんなプラトンのイデアみたいなものがあるのは、文章の世界だけです。
◇ひゃー、こんなこと書いてる間に正午すぎたやんか。仕事だ仕事だ。