いつものことながら。
◇23日の講演会で買った梅原利夫さんの「新学習指導要領を主体的につかむ」を読んでいる。教育大に何十年もいたし、時には大学運営に携わるような仕事もしてたけど、こういう学習指導要領などは採用試験を受ける学生たちが必死で勉強してるのを横目に、ろくに目を通したこともなかった。今ごろになってこれも何かの機会だろうと神妙に読んでいる。講演でお話を聞いていたから、かなりわかりやすい。
でもどうせ今から活かす場もないからと、つい生意気におおざっぱな読み方をしているのだが、講演を聞きながらも思ったことだが、私がかつて「大学入試物語」で書いたような、ほんとに現場のことも知らず実際の体験もない人たちが、何か書類を作って仕事をしなければならないという感じで下ろしてくる方針って、無駄なだけじゃなく、迷惑だよなあ。こういうまじめな対応を考えている本を読むと、つくづくそれを痛感する。
これはいっしょに買った、「震災と向き合う子どもたち」でもそうだが、本当に実際の子どもたちや人間とどう関わるかを考えてない対策って、やりきれないところがある。
◇もうひとつ、これも講演を聞きながら考えていた、そしていつものことなのだけど、私はこういう政府や文科省の現場を知らない上からの方針にうんざりする一方で、ああそれやれってんならすぐやるし、やろうとしてることなんだけど、いいのかいそれでほんとにみたいな、相手から見たらクソ生意気な心境になりそうで困る。
この新指導要領がしきりに強調して、そう言えばシラバスでもそれ取り入れろとか言われてたなと今ごろ思い出すアクティブ・ラーニングだけど、これ、ここ数年私が自分の手抜きのためにやろうかなとじわじわ画策してたこと、ほとんどそのままじゃん。
もっと言うなら、このブログで連載中の「お買い物と文学」、その内いつものようにテキスト用のパンフレットで自費出版しようと思ってるんだけど、古典文学の授業で使うには、学生の作業や課題を大幅に取り入れなくてはいけないだろうなと思って、でもそれはちょっと脱線し過ぎてまずいかなと、ひかえようかと思ったりしていたのよね。でもアクティブ・ラーニングとやらが求めてることって、むしろそのまま、そういうことじゃん。
昔よく言われた、学際的とか何とか私に言わせりゃ大学教育の本質も理念も投げ捨てたカルチャーセンターまがいの詰め合わせクッキーの箱みたいな授業もね、私は徹底的に反対してたけど、多分その一番の理由は、自分がそれは多分一番うまいから、どんどん堕落するだろうって危機感からでしたよ、ええ。
もしかしたら、今も個人的にその泥沼にいるのかもしれないけど。
江戸の紀行全集の専門的な作業しなくちゃ研究者生命も危ういというか、とっくに終わりかけてるのが本当に息の根とまるという、この毎日に、何でもう、奴隷制度とフランス革命とキツネの暮らしと新指導要領の本読んでるんだよ私は。正気の沙汰とも思えんよ。