いろいろ、うんざり
「断捨離」シリーズ(停車駅、展望台、潜水艦、飛行艇)の校正をしていたら、「停車駅」にまた小さな見逃しミスが見つかってがっくり。今度こそは校了と思っていたのになあ。片づけはあいかわらず進まないというか進めるヒマがないし、どこから切り崩そうとか突破口はどこかというのも、ちっとも名案が浮かばないし、数日ずっとくさくさしている。適当に雨が降って涼しいから、まだちょっと助かっている。
現実逃避と言われてもしかたないが、ちょこちょこささいなことをしている。多分二つ買ってたはずと思ってたしょうゆ差しの、もう一つが食器棚の奥から見つかった。側面の羽の色が、最初に見つけた青いのとちがって、こちらは赤だ。並べて写真を撮って遊んだ。首がくるくる回るのでいろんなポーズが作れて面白い。そのくせ、くちばしをくっつけ合わせるのは意外と難しいのだ(笑)。



庭のユリが咲き誇りすぎて間引きしたいけど、花びんがないと思ってて、ふと母の日に買ってやった籠入りのかわいい花びんを、果物入れにしていたのを思い出した。さっそく中のりんごをひっぱり出して、砂糖と焼酎といっしょに鍋に放り込み、奥庭の真紅のユリを切って来て空いた花びんに突っ込んだ。華やかでなかなかいい。しかし散らかった周囲が入らないように写真を撮るのが大変だった。これはまあ、ましな方かな。



数年前に田舎の家の書庫を、親切な方が片づけるつもりで、資料や本をたくさん捨ててしまわれたことがある。老後の人生の予定の研究計画をぶっこわされる致命傷で大ショックだった。でも、その時は資料の喪失が一番こたえて気づかなかったのだが、実はその書庫を私なりに工夫して、風変わりなりに楽しい空間にしていたつもりの、カーテンやクッションやオブジェも皆ひっぱがしてごみ袋に詰めこんで処分されかけてたのも、相当きつかったのだということに、このごろ気がつき始めた。つまり私が自分なりの工夫と美意識で作り上げていた世界が、その親切な方々の感覚では、すべて、ぼろの寄せ集めでごみ屋敷にしか見えなかったのだということで、自分の生き方や暮らし方のすべてを否定されたと同じに見えた。
いろんな意味で私はあの時、殺されたのだ。少なくとも、ぐさぐさの刺し傷を負わされた。その傷はまだ、少しも癒えない。今でも楽しく暮らしていて、ふと、他人の目からは私のインテリアもライフスタイルも、醜悪で滑稽で奇妙なものに過ぎないのだろうなという思いが常によぎる。いたずらにカッコいいとあこがれられて、真似されるよりはましかもしれないけれど、何か目まいのするような無力感や虚脱感にとらわれる時もある。
さて、気をとりなおして仕事をするか。先行きがまったく見えないことには目をつぶる。足元だけ見て歩き続けるしかない。その内どこか未来への通路が見つかるだろうさ。