むなかた九条の会の人たち
今日は憲法記念日か。
もはや日本の財産も武器も、これしかなくなってしまったかもしれない。
2005年にむなかた九条の会を作って、もう二十年近い。最初の呼びかけ人九名の中で、今もまだ出席しているのは私だけ。ほとんどの方が亡くなられた。
最初の代表だった、福岡教育大学学長の菰口治先生。豪快で繊細でとことん楽しい方だった。食道がんや喉頭がんになられて、でもほぼ回復され、お好きなお酒もまた飲み始めて、再発されて亡くなるときに、共産党議員の末吉孝さんに「末吉くん、ごめんねえ」と先に逝くことを謝られ、「何がですか(何をおっしゃるんですか)!」と応じたと話してた末吉さん。
まだ何かの催しをしても十数人の参加しかなく、ほそぼそと毎月の定例会などしていた最初から、宗像市の共産党は常に変わらぬ参加をして支えてくれた。末吉さんは議会で忙しい中でもいつも出て来て下さって、協力を惜しまなかった。夏の核兵器禁止の国民平和大行進でも、熱波のなか、よくお目にかかってお話をした。その末吉さんも数年前にがんになられて、市議会で最後まで活躍してみごとなあいさつをされ、亡くなった。菰口先生とどこかで会っておられるだろうか。
比較的お若い主婦で、わりと新しく入って来て、とても積極的に活動や発言をし、お茶やお菓子や料理のサービスも熱心で、私から「女性だけがそれをするのはやめよう」と言われて、喫茶店で話し合い、でもおたがいにとても信頼していて相手を好きで、でも彼女も実は末期がんで、「私は余命を知ったときに、一番好きなことをして死のうと思った。フラダンスと憲法九条と」と決めて、会に参加されたのだと、そのとき教えて下さった。その言葉通り最後まで熱心に活動されて、地元のホスピスで穏やかに亡くなられた。
どなたの死に目にも私は会っていない。お話を聞いて、それぞれの生き方のさわやかな力強さに頭が下がるだけだ。
市民ネットの議員を務められ、その後もずっと市内のあらゆる女性や人権や平和や民主主義を守る活動に携わり、むなかた九条の会の中心の一人で、女人禁制の沖ノ島の世界遺産認定に私とともに反対した吉積明子さんも、つい最近亡くなられた。がんで療養し、髪がなくなったから帽子をかぶりながら、最後まで定例会に出席しておられたと聞く(私は体調が悪くてずっと最近は出ていなかった)。小柄で穏やかで少女のようなのに、一歩も引かないエネルギーと確かさとたくましい行動力が、やわらかなたたずまいの奥底に常に燃え盛っていた。「赤毛のアン」を深く愛し、私とは喫茶店でしばしば楽しい雑談もした。
平和運動や民主的な活動の長老だった伊藤さんも、戦前や戦中の歴史を語りながらずっと会を支え、かなり前に亡くなられた。広い視野と長い展望ですべてを見ておられ、「映画や小説など文化的な集まりを作りたい」としばしば語り、夢見ておられたのを忘れられない。
そうやっていなくなる方々を見送りながら、むなかた九条の会は少しずつ発展し、人や催しも昔より増えた。私と一時期共同で代表を務め、転勤で去られるときに駅前の広場で皆で自然といろんな歌を歌って見送った西崎先生。日の丸が好きで天皇制と立憲野党を強く支持する片山さんは今はむなかた九条の会のみならず、福岡県の平和や民主主義を守る活動で大きな役割を果たしておられる。私の仕事を引き継いで下さった政治学者の若い谷本先生は、その卓抜した知識と分析力でむなかた九条の会のみならず県全体の知識水準も上げて下さった。歌が上手で文化活動に明るく、県全体の九条の会との連絡をずっと担って下さった伴さん。原発反対や自然保護を粘り強く精力的に続ける荒川さん。年金生活者の会で活躍される方々も、ずっとむなかた九条の会を支持されてきた。塾の講師で平和や人権を守る強く激しい情熱を持ち、一人で福岡でも宗像でも熱烈な街頭宣伝をしていた三島さんは、最近では社民党の候補としても活躍する。以前の市長選挙で候補者になって、その後市議会議員になった上野さんは今、立憲民主党員としてがんばっている。足が悪くて高齢なのに、さまざまな催しのチラシや訴えのビラを数百枚も涼しい顔で徒歩で配布される方、初期から一貫してむなかた九条の会を支えた退職教員の方々、細いきゃしゃな優しげな外見なのに常に街頭宣伝に参加し、反対意見の人にもビラを渡して恐がりながら話し合う田代さん(吉永小百合に似ていると言われて、あんまり好きじゃないのにとすねておられたっけ)。初期から長く事務局長をつとめ、交代した今もいろんな病気を抱えながら元気に自転車で資料を配布する長田さんは、かつて自殺した赤木さんのいた近畿財務局のOBで、たくさんのお孫さんのためにも絶対に平和を守ると話している。保育園関係の活動でやさしいデリケートな見解と発言で場をなごませる方、自然農法に打ち込まれる方、物理学者で原発やエネルギー問題ではいつも分厚い資料を配布して熱心に話される方、末吉さんの思いを引き継ぐしんどめ議員、植木議員、植木議員の議席を守って引き継いだ若いかわち議員、皆さん毎月、議会報告を街頭で配布し、地元に政治状況を発信しつづける。共産党とともに、ずっと協力してくれた新婦人の会と、むなかた九条の会の事務局長を長田さんからひきついで、ご夫婦で活躍される辻さん夫妻。市長選挙に立候補して下さった後も、ずっと活動を続けて下さっているからさきさん、その市長選挙のとき、献身的に活躍してくれた若者は、今どこにいるのだろう。彼のことを今も心配している宮本さんは信じられないほどの人脈や崇拝者(笑)を持ち、いつも元気に各方面を走り回って、ご自宅の庭先にはプーチンに抗議する看板をどん!と建て、今もそのあふれるエネルギーとわけへだてないおおらかな自由さは、とどまる気配も衰えもまったく見えない。脱帽だ。
まだ、たくさんの人を忘れている気がする。最近ではまた新しい人も加わっているだろう。こういった人たちがむなかた九条の会や平和憲法を支えて来た。病身にうちかって。苦しい生活の中からカンパして。力や知恵を出し合って。びた一文も儲けようとか何かを得ようとは思いもしなかった、未来と国と次世代を信じた、さまざまな人たち。
私は代表だったとき、活動でも知識でも何も役には立てなかった。ただ私がいつも心がけ、口にも出していたことは、「九条を守る、という一点で一致すれば、他の意見のちがいは受け入れよう。それについて話し合っても、決して分裂や対立はしないようにしよう」「たとえ、しばらく会の活動から離れていても、いつでもすぐに戻れて誰も気にしないようにしよう。顔を出さないでいると行きにくくなる雰囲気は作るまい」でした。それは多分、今でも守られているだろうし、そうであったらいいなと思っています。
こんな会がきっと全国にあるのです。こんな人たちがきっと全国にいるのです。
何だか憲法の旗とかがほしくなっちゃった。どこか発売しませんかね。地元の新婦人の会が昔作った、キルトのタペストリーはあったんだけど。写真、探しときます。
さしあたりは、うちの表の掲示板に貼ったこいのぼりの手ぬぐいでも。共産党の人たちの議会報告もはってあります。