インビクタス(続き)。
それはさておき、あまり気が進まなかった映画「インビクタス」を見てきました。クリント・イーストウッド監督の映画をそう何本も見てるわけじゃありませんけど、彼にしてはなんとなく、ゆるいというか、甘いというか、いつもの息苦しいほどの一分のすきもないという感じがあまりなくて、それがかえって私にはよく、今まで見たこの監督の作品で一番好きかもしれません。
ネルソン・マンデラが主人公ですけど、少し前に「マンデラの名もなき看守」という、刑務所時代の彼を描く映画を見ていたのもあって、まっとうで健全でしたたかな精神が生き残り勝ち残った幸福と快感をしみじみ感じました。
彼が偉大なのはいうまでもないけど、私は彼がそうものすごく特別な人とは思いません。もちろん稀有な才能のさまざまに恵まれた人でしょうが、同じようにすぐれた人は大勢いたし、いるのだと思います。殺された人の中にも、彼ほど有名にならなかった人の中にも。そういう意味で彼は氷山の一角で、彼のような人が実は世界に大勢いるからこそ、彼のような人が出てくるのだと思いたい。その方がなんと楽しいかと思うし、実際にそうだと感じるから。
そう思わせ、感じさせる「等身大さ」「普通さ」が表現されていたとしたら、やはりあの映画はただものじゃないのかも。
主役のモーガン・フリーマンはマンデラも希望した俳優だし、映画の制作自体にすごく熱心だったらしいけど、でもあまりに有名な俳優だから、本人は難しいと思うのよね。見慣れた顔をマンデラと思わせなくちゃならないのだから。でも、それも気にならなかったなあ。
冒頭、マンデラ釈放から大統領になるニュース映画が流れて、スクリーンの画面の両端が切れた、スタンダードっていうのか四角い画面で、私は思わず「さーすが、イーストウッド監督、強気だなあ。こんなニュース映画の両端切れる画面を使っても違和感なく平気で見せるって自信があるんだな」と思っていて、よく見たら、そのニュース映画の中のマンデラが、すでにモーガン・フリーマンでやがんの(笑)。やるよなあ、もう、とそこで笑ってしまいました。以後はもう、安心して見てられました。
だいたい、キャラママがよくぼやいてますが、最近の学生はじめ若い人は、「ネタばれ」に異様になまでに敏感で、論文やレポート書く時まで、紹介する作品の筋を最後まで書かないらしく、それじゃ論として成立せんだろうがと彼女は怒っているのですが、まあとにかく「結末がわかったら、もうその作品の価値はなくなる」と信じている人が今じゃもう、ほとんどです。2ちゃんねるとか見ていると、映画「トロイ」や「パッション」で、アキレスが死んだりトロイが負けたり、キリストが十字架で死ぬのも「ネタばれ」と抗議してる人がいて、さすがに「そんなの常識だろ」とバカにされてましたが、そう皆が皆バカにしていた風でもなかったしなあ。その内にゃ、イブがリンゴを食べるのも、ロミオとジュリエットが死ぬのも、アメリカがベトナム戦争に負けるのも、日本に原爆が落ちたのもネタばれと言われるようにならんといいが。
そこで、そういうご時世に「インビクタス」が立派なのは、マンデラが暗殺されるわけはなく、ラグビーチームのどっちが勝つかも見てる人はたいがい知っていて、それでも、それがわかっていてなお、この映画はすごく魅力的で興奮するのです。結末がわかっているから、なおのこと、感動し興奮しさえするのです。
そういう見方や楽しみ方を思い出させてわからせてくれただけでも、この映画の力はすごいと思う。そして、何もかもがまっとうで、人間としてちゃんとしていて、という、愚直なぐらいあたりまえの話を、これだけしゃれて面白く見せてくれるというのがまた。
正しいこと、まともなことは、カッコいいし楽しいのですよ、ということを何のケレンもてらいもなく、鼻歌まじりで教えてくれる。見ていて思わず何度も笑ってしまいました。ちゃんとおかしい場面もいくつもあるのですが(何だもう、あの飛行機は!)、それ以上に何かもう、見ていて愉快で、いろいろと。