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フリーセル人生。

◇年末に母が亡くなったのは別としても、田舎の家の片づけが終わらない内は私の新年は来ないと思っている。それまでは今年の抱負も年頭所感もお預けだ。
だいたい、母がいなくなった(気がしないほど、そのへんにいそうな存在感も問題だが)からには、年が変わっただけでなく、私の人生の大きな節目であるからして、「あんたはいつも、計画ばっかり立てていて」と中学生のころから母にあきれられていた私としては、今後の人生をいろいろどうするか、じっくり予定を考えなくてはならないのだが、それも当面先延ばしだ。
唯一決まっていることは、猫のももちゃんとみかん、犬のアンダーの命日は、これからは母の命日と合同にしてしまおうということで、これで一年中のべつまくなしに訪れる猫と犬の命日が少しは整理できるだろう。ついでにアニャンとバギイとナッツウの黒猫三兄妹もまとめるか。どうせ三匹いっしょに映ってる子猫のときの写真なんて、命日に飾ろうにもどれがどれだかわからないんだし。

それで、片づけが終わるまでは、バテないようにせいぜい体力を温存せねばと無理はしないようにしているのだが、何しろ田舎の家からこっちに運んで来る予定の本や雑貨の箱の山が、はたして家に入るかどうか、なかなか読めない。ということは、すでに持って来ている箱の山を奥に押しこんだり、整理して棚に入れたり、一時仮置きしたり、ありとあらゆる予測をして、移動させては空間を確保しておかなくてはならない。
無駄に働くと疲れる。最低限の労働で、とりあえずの場所を確保し、その上で田舎からそこにおけるだけの物を一気に運ぶ体力を温存しとくとか、もういろいろ宇宙戦争をしているように先読みが必要だ。

◇フリーセルというトランプゲームがあって、まあスパイダーソリティアなんかもそうだが、この札をこっちに当面動かしておいて、ここをまとめて、ここを空けて、という手順をどれだけ無駄なくできるかが勝利を決める。
私は以前から、これを洗濯物を干すときにやっていて、さおにくっつけたままの洗濯バサミを動かさず、大小さまざまの洗濯物をいかに無駄なく速く、最適な場所に並べて干して行くかを、一人で何者かと競っていた(笑)。これはものすごく決断と判断を要求される、なかなか高度なゲームである。

だがやっていて時々、毎日の仕事が、ひょっとしたら人生もまさに私がやってることはいつもこれだと感じるときがあった。最低の移動で最高の成果を上げ、一見無駄な回り道の作業が、長い目で見ると成功と達成を生む、と言ったような。今の、田舎の家の片づけなんか、全体的にも部分的にも、まったくすべて、フリーセルゲームの連続だ。頭の中でも、毎日の仕事や今後の人生の予定が、ぱっぱぱっぱと点滅し、時間が経過するにともなって、どんどん優先順位が入れ替わる。困ったことには、こんなことをしていると、何かに陶酔したり没頭したり恋愛したりすることがなく、絶対にある種の精神や感性がどっかでナマってる。まあしかし、ここしばらくは、そんなこと言っていられない。

◇ともあれ早く寝たいので、今夜は短時間で終わる仕事をと、母の葬儀の香典の整理をした。生前、母に葬儀社(今回お願いしたところだ)から来たパンフレットを見せて、「あんたこの30人と50人と、どっちのにする」と相談したら母は、「もうあんた、私の知ってる人なんて皆死んじゃってるから、そうそう誰も来ないよ」と、うそぶいていた。たしかにそうで、たくさんいた友だちも、その時点であらかた皆亡くなっていた。それからもう10年にもなるのだから、20人も会葬者はいないだろうと思っていたのだが、50人ほど来て下さっていた。

存じ上げている方も多かったし、葬儀場で名乗って下さった方もいたのだが、どなたかわからないままだった、老紳士や女性の方も何人かいらしゃったので、気になっていた。いただいた香典と名簿を見て、母がいつも私に話していた、いろんな地域の人たちや、さまざまな活動でいっしょにがんばった人たちの名が次々にあらわれて、まるで歴史や小説の中でだけ知っていたような人物が、初めて実際に存在していたのを確認したような感懐が次から次に押し寄せた。

驚いたのは隣町やかなり遠い町から、高齢の元共産党議員の方が数名来ておられたことだ。どなたもお顔を知らないので失礼してしまったが、母の話の中でよく登場していた人だった。「もう、何だかのんびりしている人でねえ。『候補者がそれではいかん』と皆に怒られても、へらへら笑っていて、それでもちゃんと票が出て当選するから、人気があるのよねえ」とか、「気性が激しくてきついことを言うから、怒る人もいるんだけど、でもあの人はね、どこかこう、子どものようにかわいらしーいとこがあるのよ」とか、母はその人たちのことを私に話して聞かせていた。

私は何となく、その人たちにとっては母は応援にかけつけていた、大勢の中の一人だったんだろうとしか思ってなかった。でも、たがいに高齢になって、とっくに議員も引退していて、それでもかけつけて下さって、黙って帰って行かれたその方々の名を見て、ああ母と本当に「同志」でいらしたのだなあと、すごくもう、よくわかった気がする。

田舎と都会では香典の額が多分かなりちがうので、都会と関わっている人は金額が多くなりがちだ。そのことを考慮しても、思いがけず多額のものがあったり、とてもお世話になりましたというようなことが封筒に書いてあるものがあったりすると、母はこの人たちにいったい何をしてあげたのだろうと思ったりもした。しかし、いずれにしても、香典の封筒もほとんどは中封筒のない簡単なもので、普通の封筒に入れたものもあり、そういう形式や金額の多少にまったく関係なく、一人一人の心からの思いが、ひしひしと伝わって来た。まとめて束ねながら、お金やお札というものが、一枚一枚、これほど美しいものに見えたことは、ほんとに生まれて初めてだった。

◇老人ホームから引き上げてきた、母の使っていたもののいろいろを、知り合いの方にさしあげようかと整理していて、薄いフリースの小さい毛布など、洗濯機に放りこもうとして、ふと顔にあてると、かすかだが、たしかに母の匂いがした。ヘルパーさんたちがよく世話をしてくれていたので、体臭などはほとんどないし、石鹸やシャンプーの香りのようなものだが、それでも母の香りだった。

叔母は亡くなる少し前、ヨーグルトの腐ったような口臭が少ししていて、私はそれから一年ほどヨーグルトがあまり食べられなかったのだが、母はそういう臭いも何もなく、いつもしていた枕にも、ほ

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カツジ猫