便利のいい子?
連休以来、こんなに私がだらついているのは、ひとつには多分、わけのわからない高市首相人気が落ち着いてというか下落して、支持率が下がりネットやメディアの論調や口調もそれとなく批判的になってきたことだろう。それはもう、物価対策もクマ対策もその他いろいろ急を要する仕事は放っておいて、皇室典範やら国旗損壊やら改憲やら議員定数やら、どれもこれも後回しにしてかまわないようなことに、目を血走らせて邁進しているのだから、誰が考えても、どこかおかしいと思うだろう。
この熱波の中、デモや抗議集会は勢いがおさまらないし、それを黙殺しまくっていたメディアもさすがにちらほら報道し始め、全体の流れはようやく少しはあるべきかたちになって来たかいなと思ったとたん、こっちは力が抜けてしまった。まだまだほっとすべき状態ではないのに、疲れがいっぺんに出たような気がする。
朝の庭仕事は腰の具合も考えて休んだ方がいいのだが、ついつい暑くなる前に、ちょこちょこ草取りなどをしてしまう。今朝は、母家の玄関前の、昨日とは反対側のリュウノヒゲを救出にかかった。いつも他の雑草がおおいかくしてしまうので、さぞかしまた時間がかかるかと思っていたら、案に相違して、雑草はほとんどなく、上の木々の下生えがのしかかっているだけだったので、剪定ばさみで切りまくって、燃えるごみの袋に空きがあったので、突っ込んで出して、一気にかたづいた。ほっほっほ。これだからやめられない。腰の調子がいつどうなるかは心配だが、やめられない。
暑くなって来ると休憩をかねて家に入って水を飲む。ちょうど朝ドラの時間なので、つい毎日見てしまう。俳優さんは皆熱演だし、面白いのだが、少し前から気になってしょうがないのは、ヒロインの娘のたまきちゃんが、あまりにもいい子と言えば聞こえはいいが、「親にとっては便利な子だなあ」と、ふっと思ったのをきっかけに、ロボット犬なみに、「助かる子、便利な子、都合のいい子」にしか見えなくなったのが痛い。
いくら祖母や母代わりの魅力的なお姉さんがしたとしても、母の代わりにはならないんじゃなかろうか。母子家庭で母に愛されて、どうやら母が大好きという設定らしいし。そういう人が仕事の都合で長期間遠くに行って、あんなに平気で楽しそうで幸せそうでいいのだろうか。「これは親も楽だろうなあ」と、どうしても思ってしまう。
しょうもない恥をさらすが、私は幼児のころ母が大好きだった。祖父母にも叔母にもかわいがられて、広い庭と大きな家で暮らす毎日が天国のように幸福だった。それでも、ある日、母が多分生まれて初めて私を連れずにどこかに出かけて、一日留守番をしなくてはならなかった時、母はちゃんと私に帰って来ると言い聞かせ、祖父母も大事にしてくれて、私自身そんなに大したことではないし何の心配もないとよくわかっていたのに、時間がたって、多分昼過ぎぐらいになると、わけもなく淋しくて悲しくて不安で、どうしようもなくなった。
仏壇代わりになっていた戸棚の前は、部屋の隅で、使わない座布団が何枚か積んであり、戸棚の下には物入れの小さなふすまがはまっていた。私はその前に座ってその一角をただ見えいた。悲しみがひとりでに強まって高まって溢れ出すのをどうしようもなかった。
多分最終的には泣いて、祖父母に慰められたのだと思うが覚えていない。今でも私はその時の理屈抜きで本能のようにこみあげて来た喪失感を忘れない。重ねた座布団、小棚のふすま、そのすべてを今でもはっきり思い出せる。五つか、もしかしたらもっと幼かったかもしれないのに、その映像はその時の感情とともに、まぶたから消えない。
多分、その記憶と実感が、今も私に飼い猫や庭の草木や家具や雑貨が、私がいなくてどんなにつらいか、なでてもらえず水をもらえず忘れられて捨てられるのがどんな気持ちか、過度に想像して苦しい思いをさせるのだろう。何かを求めて淋しいと思う気持ちは私には今はほとんど、もしかしたらまったくなく、ただ、私がいなくて相手はどんなに淋しいかと思って、やもたてもなく苦しむ気持ちにおきかわっている。それはどうかすると、自分がいなくなった時の孤独や絶望や寂寥を誰にも与えたくないから、誰にとっても、そういう大切な存在になりたくないという警戒心にさえつながっている。
程度や状況の差こそあれ、幼い子ども、しかも母を深く愛している子どもには、そういう、どうしようもない、他の誰も代わりにならない渇望というのがあるのではないだろうか。朝ドラ「風、薫る」のたまきちゃんが、母の不在をまったく平然と受けとめ、こうであったらどんなに気が楽かと働く母が思うような満ち足りた幸福な様子をしているのが、私には異星人のようにただ奇妙だ。その悲しみを押し隠しているような、にじみでる憂いもなく、そういう点でいい意味でタフで鈍感な子なのかと思うと、留守宅の状況の危うさに気づいて(それもそうせっぱつまった危機感ではなく、経験豊かな老女のような観察眼と判断力の余裕綽々の様子で)母に手紙で知らせるような感受性も信頼感も有している。そして、いつもにこにこと、大人が助かりそうな明るい元気な対応をする。
児童文学の大古典、バーネットの「小公子」は、主人公のセドリックを理想的に描きながら、母と引き離されて祖父の老公爵のもとで暮らすことになった、彼の母への愛情と切なさを、細かく描く。それはまた、祖父と母の関係や、彼と母とのつながりを、しっかりと読者に伝えて、各人物を語らずして浮かび上がらせる。比べるのもひどいかもしれないが、やはりそこは、あまりにもものたりない。
ご近所の方から「あっちこっち向いて咲いてて、きれいじゃないけど」と謙遜されながら、お庭のカノコユリをひとかかえいただいた。つぼみもいっぱいついていて、当分楽しめそうでうれしい。
