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偉大な精神

※九十四歳の誕生日を迎えたばかりの母は少し熱が出たので、入居して居る老人ホームから近くの病院に入院しました。昨日は熱も高かったのかかなり疲れて居る様でしたが、今日は元気になって居ました。少し高いのを思い切って、老人ホームの部屋とよく似た眺めの良い個室にして貰ったのが良かったのかも知れません。「食事もおいしい、風呂やトイレも綺麗、看護婦さんも静かで上品、先生も若くて親切」とすっかり満足して居ました。
看護師さん達も母を大事にしてくれて居る様で安心しました。

でも環境が変わったからか、又認知症か妄想が進んだようで、今日私が行くとすぐに「ねえ、私は自分でもどうかなったんじゃないかと思うぐらい、色々思い出せないのよ」と別に暗くも無く不安そうでも無く、大変冷静で明晰な口調と表情で、長々と昨日、故郷の近くの集落で大勢の人の集会があって、行って見たら云々、帰りに一人になってずっと待っていたがタクシーもないので困ったと道に出て探して居たら、病院の看護婦さんに教えて貰って、首尾よくタクシーをつかまえて帰宅したが、家で寝なかったらしく、いつの間にか此処に居たのだが、私は自分がどこに居るのかどうも分らなくなって仕舞って居るようだ、と申します。

又、その集会とは別に「私がこんな風なのを励まそうと誰かが思ったのか」華やかな舞踏会が開かれて、大勢の人が踊って居て、○○ちゃんや△△おばちゃん(どちらも既に死んだ弟妹)が居たので、「あら来て居たの」と色々と話をしたが、その内に二人ともどこかに行った等とも言って居ました。
「○○ちゃん(弟)はまだ生きていたっけ」と聞くので「だいぶ前に死んだよ。△△おばちゃんも、その一寸後に」と教えると、「そうだったっけ」と言うので「だから、その二人が出て来たら、それは夢ということね」と言うと「そうねえ」と納得して居ました。

※私はこういう妄想を聞かされる度に全く感心して仕舞うのが、母のこういう妄想の中では誰もが親切で母は楽しい思いをして居るのです。タクシーが見つからなかったとか、広い会場に一人残された等と淋しい恐い思いもしているはずですが、現実の世界でもこれまでずっとそうだったように、母はそれに負けずに耐えて、結局タクシーをつかまえた事になっているし、思い出す時も、結局は楽しい話として思い出して居る様です。
認知症になっても妄想の中でも、この人は勇敢で前向きで行動的で逞しいのだなと痛感します。

又、こういう事を話す時の母の表情も口調も大変知的で明瞭です。母の頭脳も記憶もかなり不完全になり働かなくなって居るのは確かですが、母は自分でもそれを自覚して人に話して確かめて、残って動く部品だけで出来るだけの思考をしようとして居るのが良く分ります。全然必死でも無く悲壮でも無く、「壮絶な戦い」と言う様な感じでも全然無く、「残った無事な部分を確かめて、あるものでやりくりしなくちゃ」と当然の様に落着いて考えて居るのが伝わって来ます。

私はそれを見れば見る程、全く悲惨な気がしません。圧倒されて瞠目します。昔から母は何の肩書も持たない無名の女性でしたけれど、偉大で非凡な人でした。今あらためて、それを思い知って居ます。
老人ホームでも毎晩ヘルパーさんに着替えの介助をして貰いながら、母は「どうやって着るのだっけ」と分らなくなりながら、「毎晩の事なのに覚えられないのよねえ」と自分のそういう状態をきちんと把握して居ました。それに劣等感も焦りも感じている風は全くなく、平気で自然に受け入れて居ました。トイレの介助もおむつの交換も若い男性介護士にまかせて丸きり平気でした。

一体どこから、あれだけ落着いて自分の崩壊し弱体化して行く精神を受け入れて悠然として居られる精神が生れるのか私は本当に知りたいです。
元より、老人ホームや病院のヘルパーさんや医師や看護師の方々が人間としてきちんと尊敬して扱って下さって居るのも大きいのでしょうが。

※日に日に衰えて何かを失って行く母を見て居て、時々奇妙な錯覚に陥ります。母が新しい段階に向けて日に日に成長し発達して居るように思えて来るのです。子育てをした事は有りませんが、それはこんな物かと思う程、母の変化が私には常に新鮮で刺激的です。
私は決して母の様には成れないでしょうね。それも日々痛感します。母はどんなに弱っても衰えても、端然として工夫も挑戦も努力もやめない。思考と生存を放棄しない。死ぬ瞬間まできっと母はそうでしょう。ここまで来たらもうこの人が自分らしさを失う事などあり得ません。九回裏とは言いませんが七回表で大量得点を取っているチームの様な安心感が私には有ります。敗北して居る側の心境でも有るかも知れません。私は到底こうは成れないでしょうから。

人は本当に、生きて来た様にしか死ねないのだと思います。

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カツジ猫