冗談じゃない
この夏休みにやるべきことを書き出してみていて、つい出来心で、死ぬまでにするべき仕事、したい仕事を書き出してみたら、どう考えても50年はかかりそうで、まったく、うんざりした。
まあ、どうせ全部中途半端に終わることを覚悟しつつ、ちびちびと片づけていくしかないな。
カツジとシナモンばかりかまうのも他の猫に悪いので、今日は書庫に閉じこめて飼ってる白黒猫のために、入り口のドアに格子戸をつけて、少しは風が通るようにしてやりました。
書庫はまあまあ涼しいのですが、今年の暑さは格別なので、あまり猛暑が続くようなら、もう彼女もバギイなみに外に出してやった方がいいかと思っていたのですが、一応エサもよく食べて元気にしていたので、せめてもう少し涼しくしてやろうというわけです。
新しく格子戸を作る金はないので、台所と玄関の間につけていた格子戸を移動させて、つけかえてもらいました。
まあまあ、雰囲気も悪くなく、ほっとしています。
シナモンはさっそく偵察に行って、二匹で格子戸ごしに、ひかえめにふうふううなっていました。まあ、その内に慣れるでしょう。
ゆきうさぎさんからいただいた、古い食器が猫たちのエサ入れや水入れに活躍しています。朝、エサや水をとりかえる時に大変便利で助かります。
カツジのそばで読書するのが最近の日課です。今はポール・ニザンの「アデン・アラビア」を読んでいます。
「青春が美しいとは決して言わせない」という書き出しが有名ですが、冒頭しばらく、硬質で鋭い、攻撃的な文章がつづいて、それ自体は美しいのですが、攻撃している対象が(主に当時のフランスの社会体制、社会そのもの)今では変化しているだろうし、もともと詳しく知ってるわけでもないから、どういうのかなあ、どんな戦いに使われたのかわからない、太古のきらびやかな武器をながめているようです。
この当時、この国(フランス)にいて、作者が攻撃しているものをよく知っている人には、この文章のひとつひとつが、どんなに共感できたか、ぐさっぐさっと敵の急所をえぐってる感じに、しびれるほどの快感を抱いたか、ぼんやり想像するだけでわくわくします。でも、今ではそれがもうよくわからない。
江戸時代の黄表紙のどこが面白いか、ぎりぎり細かいところはもうわからないのと同じ、もどかしさやものがなしさを感じます。
それでも、遠いこだまや、かすかな残り香のようにつたわってくるものがあって、それだけでも十分に魅力的です。
それで、フランスに反発した彼はアデンに行くわけですけれど、だから、これも一種の紀行文なんですね。
でも、ディネセンの「アフリカの日々」とちがって、旅して住んだその土地がはっきり浮かび上がらないのは、ディネセンは長く住んだのもあるけど、アフリカを未知の世界としてきっちり紹介しようという意識があるのに、ニザンはアデンやアラビアではあくまで旅人に過ぎなかったし、どういうか、最後の方でまたフランスに関する長い記述が出てきて、それ読んでると思うけど、この人結局フランスが好きなんだなあ、憎みつつ罵りつつ、愛してるんだなあということです。
言いかえれば、これだけ激しく攻撃される国が何だかうらやましい。
ニザンのフランスへの怒りは本物でしょうし、だからこそこんなに読んでいて、彼が何にそんなに怒っているのかよくわからなくても、その言葉や精神は魅力的で、その怒りも伝わるんですが、でも、それだけ激しく怒れるということ、そういう若者を生み出せるということが、またフランスの魅力なんでしょうね。
正しく怒り、正しく憎み、正しく攻撃することの大切さをひしひしと感じてしまう。それはそうする方もされる方も輝かせてしまう。
でもまた、それとは別に、いつも思うんですが、こういう古い国の文化や文明に疲れた人が、アラビアのロレンスでもタヒチのゴーギャンでもランボー(スタローンじゃない方)でもいいけど、アフリカや中東や東南アジアや極東に、癒しや再生を求めに来るのって何とかならんのか。今さら言ってもしかたないけど。東洋や中東やアフリカは欧米のサナトリウムじゃないぞ。
だから、ニザンもそうだけど、そこで自分や、故国にないものが見いだせなかったらさっさと帰ってしまうんだよね。だいたい、今自分のいる場所で何かを見つけられなかったからって、よそに行って見つけようとするのって、かなり危険な賭だろうに。
ニザンはでも、そういう自分を知ってるしわかってるし書いて確認もしてるからな、まだどういうか、許せるけど。
あと数ページを残すだけなんだけど、まさかそれで何かひっくりかえるような、どんでんがえしがあるわけはないから、私のこの印象は変わらないと思う。
にゃおにゃお鳴いてるのはカツジかな。ちょっと行ってみてこよう。