御心配頂きまして(笑)
キャラママさん
有難う御座います。
引っ越しを決行する迄の経済的余裕も有りませんので、差し当たり母の家からは見えない古い母屋の物置に居を移して居ります。
荷物が山積みの、座る空間も無い部屋ですが、冷暖房とベッドだけは備えて居たのが幸いしました。
此処で2010年には見られなくなるアナログテレビを一人で見ながら、段ボール箱の上にコンビニで買って来た弁当とペットボトルを乗せて一人で食事をしながら、本当に至福とも言うべき時間を過ごして居ます。
これまでは何をして居ても、母の所に早く戻らないとと気もそぞろで勉強も家事も手に付かなかったのです。
ここに居れば母は私が家に居るかどうか分かりません。側に居なくても諦めてくれます。
ただそれだけの事がこんなに幸福だとは自分でも恐ろしい程です。
この状態に母が何時まで耐えてくれるかは分かりませんので、私なりにもう少し気持を整理して良い方法を考えて見たいとは思って居ますけれど、それを考える為だけでも今暫くはこの孤独を持って置きたいです。
母の気持も分からないではありません。地域でも種々の集まりでも中心に居て精力的に活動して来た人ですから、しかも家事は決して好きでは無かった人ですから、家に一人で居るのも話し相手が居ないのも本当に耐えられないのでしょう。
私も週に何日かでも母の為に使う日があればと言う心積もりで同居して居るのですが、その数日を与えると母は決してそれでは満足せず、常に側に居る事を望むのです。
ヘルパーさんが食事の世話だけでもしてくれると有難いのですが、規則上私が居る時はそれが出来ないと言うだけでなく、母自身がヘルパーさんの食事を嫌って、私が少しでも家に居る日は、ヘルパーさんの来訪を断ってしまいます。少し遅れても私と二人で私の作った食事を食べようとします。
けれどそうなると私は、例えば自分は仕事を終えて帰宅の途中簡単に食事を済ませ、帰って母と少しのんびりするという事が不可能になります。空腹を抱えて食事の材料を買って大急ぎで帰宅し、二人分の食事を作った段階ではもう食べる元気もない程に疲れ果ててしまう。それで疲れて一眠りすれば母は放って置かれたと感じるのですね。
逆もまた同じで、ヘルパーさんが食事を作って下されば私は仕事に行く直前まで仕事の準備も母の相手も出来ます。あるいは徹夜で仕事をして飛び出す事も可能です。けれど出掛ける前に大急ぎで食事を作るとなると、これはむしろ気持の上で母の相手をする余裕はありません。
家事と話し相手を両方は出来ません。でも母は逆に片方を確保する為には片方を確保しなくてはと思ってしまうのでしょう。ヘルパーさんの料理が気に入らないのではなく、それを食べて居れば私を自分に縛り付ける口実が無くなると思うのでしょう。こうやって人は愛する者にうとまれ、遠ざけてしまうのだなあと奇妙に冷静に私は分析してしまいます。
所で日本共産党の機関誌「赤旗」に連載されて居る小説「人、立ち枯れず」が、老親と住む為の二世帯住宅を作った中年の教員夫婦が同居に耐えられず夫名義のその家を捨て、アパート住まいをした挙げ句、小さな二軒目の家をまたローンで建てるという筋で、あっさり過ぎる書き方ではあり、もしかしたら「公務員は何といい身分」などという感想も「赤旗」読者なら有るのかも知れませんが私は非常に同感し身につまされても居ます。(笑)