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恐い恐い恐い。

◇新潟知事選、勝ったからいいようなものの、開票の不正はやっぱりあり得たのか。暗澹とする。

https://twitter.com/N_mittaka/status/787993133694853120

◇沖縄のニュースで、こっちが忘れられないかと心配で。あの戸塚ヨットスクールがまたぞろ、おかしなことをやり出しているらしい。

https://twitter.com/TOKYO_DEMOCRACY/status/787883910977818624

このニュースと映像を見て、私はとことん不愉快ながら、妙に元気も出た。今では考えられないが、昔はわりと、こういう発想は普通の人の中にもあって、体罰も暴力も教育の一環として当然のように語られていた。
私はそういうものと、徹底的にどこまでも対決するし許さないと誓いながら子ども時代を過ごした。あのころの激しい怒りと闘志が、久しぶりによみがえった。

「A高野球部日誌」という私が高校のころ書いた小説は、いろいろ幼稚ながら、その精神の原風景を示している。最近さすがに、この小説で私が描いた決意は、もう必要ない世の中になったかなと、ちょっと思ったりもしていたが、戸塚ヨットスクールで海に投げ込まれた幼児の、委縮した空虚な顔を見ていると、まだまだ少なくとも私にとって、この小説はバイブルだと思わざるを得ない。暴力に名を借りた支配と、それに徹底的に対抗する精神のあり方。

それでまた思い出したが、映画「怒り」のレイプシーンが私にはそれほど、いい意味で衝撃的でなく節度を持って見えたのは、それ以前の男性の男性によるレイプシーンがあったからかもしれない。それが、きちんと激しく描かれたことで、一方的に女性だけが凌辱される世界という印象が薄らいだのかもしれない。

あの映画のいわゆる「東京編」は男性同士の愛を描いて、同性愛者やボーイズラブを好む人だけでない広い層に好感や感動を呼んでいるようだ。私はそのことを喜ぶし、そうさせた映画も俳優も尊敬する。しかし、私自身は、あの二人の愛に共感したり夢中になったりはできない。それはレイプから始まるからだ。
しかたがないと言えばしかたがない。そういう愛もあるだろう。と言うより、男女の愛については、その図式がむしろもう、腐るほど普通に描かれてきた。暴力的に愛された女性が、やがてその相手を心から愛して二人は幸せになるという話は、実にふつうの定番だった。

私はそれが、どんなに工夫や意匠をこらされていても、いっさい、絶対、許せなかったし認められなかった。それは私の女性としての意識より、むしろそれ以前に子どもとして、男女以前の人間として、恋愛でも教育でも友情でも家族愛でもその他のどんな関わりでも、力づくで強制されたものを快感に感じるようになるということは、病的なポルノの糞便嗜好とかSMマニアとか、そういったものならまだしも、それ以外では絶対に普通ではなく許されることではなかったからだ。

けれど、こと男女の愛では、それは健康的なまっとうなこととして描かれまくり続けていた。それが、みごとに「怒り」の映画では男性同士の愛として描かれ、同じように広く認められ、人々の感動を呼んでいることに私は複雑な苦い微笑を浮かべる。あの二人の愛に反発や拒否感を感じる人も、原因はあのレイプシーンではなく、「レイプがハッピーエンドな純愛につながる」ことには多分、反発はしていない。つまり、私が絶対拒否していた、あの図式は、特に女性蔑視だったのではなく、男女共通に好む人は好むのだなと立証されただけでもありがたいっちゃあ、ありがたいが、まあそんなことは見当もついていたがね。スポーツもの、学園もの、軍隊ものの文学のほとんどすべてで、セックスこそからまなくても、「反抗的な若者を長上者がたたきのめして、やがて慕われる」って話は吐いてじゃなかった掃いて捨てるほどあったのだから。だからこそ私も「A高野球部日誌」を書いたのだが。

◇映画「怒り」の(多分、私は読んでないが原作も)すぐれているのは、あの男性二人の愛を特に理想的なものとして肯定しているわけでもなく、最後の優馬の苦しみは、むしろあんなかたちで得たものは、どうせそういうことになるという罰のようにも見えないことはないことだ。それにしても、私がそれを心から悲しめず同情もできず、どこかで冷めて、本当にあの二人に感情移入できないのは、やっぱりそれが「レイプからはじまる」からで、やっぱり私は戸塚ヨットスクールの象徴するものとは永遠の敵なのだなあと、あらためて我ながら会心の笑みを浮かべてしまうのだよね。

そして、本当に恋といえば愛といえば教育といえば家族といえばそんなかたちでしか描かれなかった、私の若いころ、七転八倒しながら、そんな暴力や強制や支配とは無縁の愛のかたちを探していた私(もうひとつの私の小説、騎士物語と革命小説のかたちをとった「青い地平線」も結局は、正義や民衆のためであれ、力で人を教育する人間に対して、たとえそれが女性の男性への教育であっても、絶対にそれは許さないし認めないという決意表明だったが)を思うと、今は何と楽に息ができる時代になったかと思う。

戸塚ヨットスクールの、あの映像の数々が異様で醜く見える人が今では圧倒的に多いのは、そうではない教育や愛情が、文学でも現実でも、普通にごろごろころがってるからだ。
ちょろっと手近に思い出してみても、海外ドラマの「ハワイ50」の、この前見た回では、主人公のシールズ出身の警官が、ガールスカウトのキャンプに招かれ、小さな少女たちを前に、イノシシをナイフで殺すサバイバル術を嬉々として話すのを、同僚の警官は刺激的すぎると思い、もっと穏やかな話はないのかと冷や冷やしている。そして少女たちは大喜びで聞いている。女性の頼もしい指導者もいて、少女たちは終始大切に愛情こめて扱われ、だが勇敢で明るくて元気でしっかり育っている。脅かし苦しめるのは、途中で現れる犯罪者だけだ。彼女たちの生き生きとした顔は、戸塚ヨットスクールの生気のない能面のような幼児の顔とあまりにも対照的だ。
あるいは、「天才!志村どうぶつ園」で、ぺこ&りゅうちぇるの若い二人が、捨てられて人間に怯える犬を大事に飼って社会復帰させる試みの映像。これに限らず、この番組の動物たちの教育で、暴力や嘲弄は絶対に使われない。それは動物の心をとりかえしようもなく傷つけ破壊することがわかっているからだ。

幼児や動物、人間に

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カツジ猫