映画「ゲド戦記」感想(その3)。
はっ、どーせ今夜中には、映画そのものの話には行きつきそうにないんで、もうちょっと、そんなの誰も聞いてないよっていうようなムダ話を。
私は「ゲド戦記」も一応最初に翻訳刊行された時に読んだけど、それほど夢中になったわけじゃありません。ただ、それを言うなら、私は「ナルニア国ものがたり」は、社会主義やフェミニズムその他への露骨な攻撃が邪魔で、その他いろいろあって、あまり好きじゃありませんでした。「指輪物語」もです。
何より、善悪が明確に対立し区分されてるのが、好みにあいませんでした。「ウォーターシップダウンのうさぎたち」にも、古臭い思想やお説教はありますし、しょーもないとこはあれこれあるけれど、悪役がただの悪役ではないあたり、「ナルニア」や「指輪」よりは好きでした。
私が最も好きなファンタジーは、わりと最近では、マーガレット・ワイス&トレーシー・ヒックマンの「ドラゴンランス戦記」や「熱砂の大陸」などで、これらはまったく善悪の価値観が入り乱れてダイナミックで、しかも昔ながらのファンタジーの型をしっかり生かしていると思います。
「ハリー・ポッター」シリーズも好きで、世界観や価値観も楽しめます。
もともと、古いところでは、幼いころに読んだキングスレーの「水の子」、バリの「ピーター・パン」、ロフティングの「ドリトル先生」シリーズが血肉にとけこむほど、好きでなじんでいます。少しあとで読んだ「メリー・ポピンズ」シリーズも好みだし、「不思議の国のアリス」も不気味だけれど、ひきつけられる。
ずっと昔に読んだ、うろおぼえでは、児童文学の歴史では、第二次大戦以降、善と悪との深刻な対立や抗争が描かれるようになり、それ以前にあった機械文明や人類の進歩への無邪気な信頼が消えうせたと言われているようです。正義は、悪を押しかえすために必死で戦わなくてはならない。それが近年(って、かなり長いけど)のファンタジーの特徴だそうです。
第二次大戦以降の「深刻になった」児童文学の中でも、古きよき時代のファンタジー、たとえば「ナルニア」では、社会主義や進歩的な思想は「悪」に近いものとして描かれます。「ゲド戦記」では、もはやそうではなく、価値観は多様化するし、異文化も受け入れられるし、女性問題もテーマになりますが、全体の不安感や暗さは、むしろ増しているように見えます。
私は「ゲド戦記」の小説の悪口を最初に書きましたが、「阪急電車」のときと同様、これだけ激しい悪口を書けるのは、それだけ描写がリアルで力があるからです。だから、実体あるもののように、反感も持てるし攻撃もしたくなるのです。
「ゲド戦記」は、全巻通じて、明るい場面があったとしても、それも含めて常にどこか落ちつかない不安感がただよい、ラストにいたっても、それは決して消えません。ほとんどの登場人物が不安定で、何かを失っているか、すぐに失うし、世界そのものが、いつも定まらず、ぐらついて、何かにおびやかされています。
たまに安定しているものがあるかと思えば、それは悪だったり、魅力のないものだったりします。大衆も、権力者も、非常に弱いし、無力です。これはちょっと、非現実的なぐらいで、だから私は、作者は現実をあまり知らないんじゃないかと、変なせんさくをしたくなるぐらいです。こんなに世界が、いつもぐらついて見え、不安にかられておののいているのは、私には、何だか子どもの視線に見える。家庭生活、社会生活に、どっぷりつかっている人の、ものの見方や感覚じゃない。そんな気さえ、するのです。
くりかえしますが、これは悪口じゃない。私の好みじゃないけれど、この不安定さ、常にただよう緊張感が、「ゲド戦記」の最大の特徴で魅力でしょう。
そして、結論を一言で言っちゃいますと、映画「ゲド戦記」は、その雰囲気を完ぺきなまでに表現しつくした映画です。だから、もう十分で、あとは何がどうでもいい(笑)。そして私は、もともと好きな小説でもなかったし、映画を見たとき、小説の内容はおおかた忘れていたし、映画を見て思い出しもしませんでしたが、それでも、ただ、映画として、この作品の描き出す世界の美しさと不安定さに陶然と酔わされました。美術品を見るような満足感を、終始味わいました。
えーと、多分まだまだつづきますが、今夜はこれで。