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映画「ゼロ・ダーク・サーティ」感想。

◇映画の感想というより、とりとめのない連想に走ってしまいそうなのだが…。
冒頭から途中まで見ていて、あ、こりゃあかんと思った。私は今はそうでもないが子どもの頃は特にもう、オリンピックを見ていたら日本以外の国を夢中で応援し、駅伝を見に行くと、周囲が声援してる地元の選手以外の選手に「がんばれー」と叫んでしまうのが常だった。それがどうだと言うのじゃない。そういう時にいつも感じていた、「敵の方から物事を見てしまう」気分というのが、ありありとよみがえった。別にイヤじゃないんだけど、こうなるとまともな鑑賞とか、そりゃできんわな。

でもこれ私のせいだけじゃない。ハリウッド映画も含めて世界の映画や文学は戦後ずっとナチスを悪役にし、フランスレジスタンスを英雄にし、それはどういう図式かっていうと、泣いても笑っても「拷問・尋問する方は悪役」「自国を占領してる敵に爆弾投げて倒すのは正義」ってことなんですよ。これが時代によるものか、恒常的な真理か、人類の学んできた正しい教訓か、それは厳密には私にも今わかりません。でも、わからないなりに、どっちかどうでも今選べって言うんだったら、私はやはりそれは、人類の歴史の上に築かれた、もう修正不能な真理だと思う。(←それなりの迷いとためらいの後に、相当の覚悟をして言ってます。)だから、この映画のパンフレットに「やはりこれからも拷問は必要なものとしてありつづけるだろう」みたいなことが、さりげなく普通に書いてあると慄然とし、脱力します。そういうことを書かせてしまう映画なんだな、これは、と、あらためて思わずにはいられない。

◇要するに、この映画の全編において私は追われるビン・ラディンやテロリスト集団に感情移入してました。爆発が起こって人が死ぬたび喜んだし、拷問が成功しなかったら喜んだ。ビン・ラディン(らしき人)が殺された時は、おまえリーダーなら死ぬ前に女子どもは遠ざけて、資料は全部処分しとかんかい間抜けがと怒ってました。

テロが悪いのも恐いのも当たり前になってるけど、その大きな理由は関係ない人をまきぞえにすることでしょう。でも、それなら私はその前にひとつ絶対に確認しとかなきゃいかんのは、戦争と軍隊もそれはまったく同じだってことだと思う。知らない人を恨みもないのに殺すんでしょ、軍隊は、兵士は。命令で、国の名のもとに。そりゃ正義の名のもとに、やむを得ないことでもあろうけど、テロだって、それはまったく同じじゃないの。まだしも標的定めて自由意志で(そうでない場合もあるだろうけど)個人作業でやってる分、国の名のもとにやってるよりか、私は罪は浅いと思ってる。

少なくとも、テロをそれだけ無条件に、拷問でも何でもして防がなきゃならないほどに否定するなら、同じ強さで、それ以前に、軍隊と戦争も否定し嫌悪しなくちゃ理屈に合わない。
私も時代による偏見があるかも知れないけど、戦後のレジスタンス映画では、そのへんのバランスは一応は保たれていた。ナチスという悪を倒すためには戦争も軍隊もやむなし、レジスタンスという名のテロもやむなしという点でね。ついでに言うなら圧政に対する革命もやむなしというのも、おまけにつけて。

それが、ソ連の崩壊やら何やらで革命の人気がなくなって、ベトナムその他でアメリカがかつてのナチスドイツと重なりまくる役割を演じるようになってから、レジスタンス=テロの人気も少なくともハリウッド映画じゃ忘れられて、残ったのは軍隊と戦争の「悪を滅ぼすためなら何でも許される」だけ。
これだけ、革命とテロ、特にテロを無条件に弾劾否定するのなら、少なくとも軍隊や戦争に対しても、も少し厳しくなんなくちゃいかんのじゃないすかお客さん。まあ安倍総理や維新の党が平和憲法変えようって言ったって、しかとも反応しない国情だからしゃあないのかもしれんけど、どう考えてもおかしいよ。

軍隊や戦争、諜報機関がテロ撲滅のために何をするのも認めるということは、とりもなおさず、それに対する抵抗としての暴力も無差別殺人も認めるってことに他ならない。それはヘビがしっぽをかみつくのにも似たどうどうめぐりで、この論理を認めたが最後、そこには絶対永遠に救いはない。
だから、どっかで、どうしても、断ち切らないといけないんです。ビン・ラディンを殺すことがそれにあたるとは、私はどうしても思えない。(つづけます)

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カツジ猫