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映画「侍の名のもとに」感想もどき(5)

5 役割の造型ー奔放な天才

前半もしくは序盤の、秋山負傷事件をまとめ終って、映画も試合も中盤にさしかかる。市川崑監督「東京オリンピック」とちがって、この映画はこういうところで奇をてらわず、あくまで王道のオーソドックスな方法を使う。序盤で不振に苦しんだ四番打者の鈴木と、冒頭でクローズアップして伏線を作った周東の二人が、この部分の中心となる。

あらためて、私の「集団内の役割分担」の、古今東西における文学その他の集団描写の図式について、ざっと紹介する。ご退屈ですみませんが、これを頭に入れて見た方が、今後のこの文章は面白いです…多分。
私の考えでは、グループを描くとき、読者の最大公約数に好感を抱かれる、主役と重なることも多い「リーダー」がまず登場します。この映画では明らかにこれは稲葉監督です。
次に、そのリーダーに常に忠実で能力性格ともに安心して見ていられる「本命」が存在します。師匠や弟子や親友や、その立ち位置はさまざまです。この映画ではちらとしか出ない王監督もそれですが、コーチ陣の集団もそうでしょう。選手の中では秋山と松田がそれに近いですが、二人は別の役割もかねます(それはよくあることですが)。

次に登場するのは、私が「対抗馬」と名づける最も華やかに活躍し、「リーダー」以上に主役になることもあるタイプで、これには奔放でエリートで自己中心的な「華やか」タイプと、実直で庶民的で仲間思いの「素朴」タイプの二つがあり、両方いっしょに登場することもあります。ともに、能力は優れ、魅力的で人望がある点では共通しています。

さらに、「アナ馬」と私が呼ぶ三つのタイプがこれに加わります。その能力だけなら「対抗馬」も「本命」も「リーダー」もかなわない技能を持ったり、グループ以外の外界と接触があったりする「特殊技能派」、こっけいで性格に問題があり失敗ばかりして皆のお荷物になる「道化役」、そして外見や年齢が幼く皆に愛され庇護される「女子供役」の三つです。

以上七つの役割分担がうまく配置されて、バランス良く活躍できれば、その作品は概ね成功するし、現実にも職場やアイドルグループで仕事はうまく行くかもしれません。もちろん、この図式そのままというのではなく、どの部分かがほとんどないほど弱かったり、どこかが重なっていたりもします。

この映画の場合、何しろ野球ですから否応なしにスペシャリストの「特殊技能派」は多いです。失敗やお荷物にはなりませんが、お笑い担当ということなら「道化役」もそれなりにいます。見た目が小柄できゃしゃに見える「女子供役」っぽい若い選手もいないわけではありません。「対抗馬」の「素朴」タイプも、ほとんどの選手がそうであるといっていいほど充実していて、これは結束力や仲間意識を重視した稲葉監督の作ったチーム(そして、この映画が描こうとしたチーム)としては、理想的だし当然でもあります。

しかし、この映画の欠陥とは言わないまでも明らかな特徴は、「対抗馬」の「華やか」タイプがいないことです。これは野球やスポーツものの小説や映画としてもとても珍しく、そもそも現実の野球界でも異例なのではないかと思います。野放図で脳天気で、自分の能力に絶対の自信を抱き、チームメートも監督もバカにしていて、規則や指示を守るのなど何とも思わない。酒を飲み、女を抱き、乱闘をする。しかも実力は飛び抜けていて、することは華やかで外見も所作も最高に魅力的で、誰もが愛さずにはいられない。

ちょっと昔なら、探せばいくらでもそういう選手はいた。今だって…いないか。型破りで知られる柳田選手だって、見れば見るほど驚くほどに心の底から謙虚で良識的です。
賭博や暴力で身をほろぼす選手たちはもちろん困りますが、昔はそれに近い野放図さがスポーツ界や芸能界にはあったのじゃないでしょうか。だからこそ、一般の健全な市民は、軽蔑と羨望と憧憬をこめて彼らを見ていたのではないでしょうか。江戸時代の遊女を見るように。自分たちとは別の基準の人間として。下手すりゃ、文士や学者や学生も、そうでしたよね。

まあ、法に触れるのは問題外ですが、そういうチームワークなどどこ吹く風で、自分の能力だけにものを言わせて暴走する存在というのは、「水滸伝」の黒旋風に象徴されるように、この手の群像劇には欠かせない役割でした。
この映画での鈴木選手は、監督に従順な好青年で、決して型破りでもわがままでもうぬぼれでも自己中心的でもありませんが、選手の中では、最もそういう要素を持つ「対抗馬」の「華やか」タイプの人物として造型されています。

お気づきになられた方がおられるかどうか。この映画では稲葉監督をはじめ、選手の一人ひとりの性格を決して直接、ことばでは説明しません。監督やチームメートの発言で間接的に伝えるだけです。誰が優しいのか大人しいのか強気なのか、画面のたたずまいからしか観客は察することができません。過剰な演出やナレーションがいっさいない。この、見え透いた役割づけの安っぽい演出を徹底的に排除していることが、この映画をとても高級に見せています。過度に人物像を作り上げて押しつけてくる、あくどい、ごちゃごちゃさがありません。

その映画が、鈴木に関してだけは、あの甘ったるいナレーションが妙に似合ってしまうほど、「ちょっぴり天然」などと露骨な表現のオンパレードで、彼の性格や特徴を印象操作ぎりぎりまで、ことばを駆使して説明します。彼の、うっかり屋でのんびり屋で、型にはまらない無邪気さがこれでもかとエピソードを重ねられて強調されます。

去年か一昨年の民放のバラエティー番組で、日本シリーズの甲斐キャノンについて、「走るのは無理だとわかっていたけど、サインが出るからしかたなく」などと監督批判になりかねないことを、ぬけぬけしゃべって大受けしていた人ですから、たしかに彼には、そういう要素もあるのでしょう。言いかえれば、それを増幅拡大して、型破りだけれど愛されるスーパーヒーローのイメージにすることは、そんなに無理はありません。この演出は成功しています。そして、そんな天衣無縫な性格の選手でも、四番打者の役割という責任に押しつぶされてなかなか結果が出せないという筋書き、ふだんは見せない深刻な表情や態度の強調は、冒頭の秋山の肉体的負傷と並んで、選手たちが耐えなければならない精神的な重圧を的確に観客に伝える効果も生むのです。

彼の、そこからの復活も稲葉監督によって、きちんと説明されます。「いい選手というものは、必ずどこかで復調して来る」という短い言葉ですが、それはおかしな精神論やお涙頂戴の感情論ではなく、体験や観察による冷静な分析です。それが正しいかどうかは知りません。そういう説明をちゃんと加えて、鈴木の復調とチームの快進撃は、若いスペシャリストである周東の華やかな活躍と重ねられて、中盤を盛り上げ、一気に加速して後半へとつながります。この部分の展開にも無駄はいっさいありません。

ちなみに私自身はあんまり好まないが、この自由奔放なうぬぼれ屋の自己中心な天才が、自分の限界を思い知らされて悔い改めて、監督に従い、仲間と融和して人間的成長をとげる、という展開も、映画や小説では腐るほどよくあるパターンである。そこに多くの人は魅力を感じるし、団体競技の美しさを描くときには、はずせないほど鉄板の定番でもある。
何しろ鈴木選手その人が、そんなわがままの高慢自己中ではないのだから、そういう展開は描けない。この映画の描くチームのあり方もそういうものではない。

それでも、きわめてつつましく、おぼろに、この図式は守られている。
ようやく復調してチームも勝利した翌日の、試合初めの声出しで、指名された鈴木は後ろに隠れていて、出てきてからも、「昨日は苦しい試合でしたが、勝ってくれてありがとうございました。今日もがんばろう」というようなあいさつをする。「誠也が大人になった」という笑い声の中の仲間の冗談を映画は的確に拾う。
そこには自分だけを信じて傲慢だった天才が、仲間への感謝を知って成長し、チームの一員となって行く、という昔懐かしい物語の淡い影がある。しつこくくり返すが、鈴木はそんなタイプではない。だが、それでなお、そこには何かそういう古い展開を連想させるものがあり、それは多くの人にとって、なじみある、快い安心感を誘う。そういうところも、この映画は、こまめなサービスを忘れない。(つづく)

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カツジ猫