映画「侍の名のもとに」感想もどき(4)
4 選考会議と負傷事件
外見内面ともに非の打ち所ない完璧なリーダーとして、稲葉監督を主役にすえて、さて、その周囲の二十九人の選手及びコーチ陣をどう描くか。群像劇としての手腕が問われる。大抵の観客はせいぜい自分の贔屓チームの選手以外はそんなに知らない。試合の経過に従って登場させるだけでは一部の人以外は退屈するし、誰が誰だか混乱する。
「平家物語」は昔は、前半清盛、中盤義仲、後半義経が主人公の三部作構成と言われて来た。これは今ではもうあまり言われないが、まあ完璧にまちがいというわけでもない。また、手前味噌だが私自身、古今東西の集団を描く文学その他には一定のパターンがあることを、中公新書「平家物語」や学生用のテキスト「集団内の役割分担」第二章で提示した。それも視野に入れつつ、この映画の場合はどのような工夫がされているかを見たい。
稲葉監督就任後、試合の開始までの、かなり長い時間をとって、現地視察と選考会議による出場選手の選出過程が描かれる。特に選考会議なんて、おっさんたちが延々しゃべっているだけの画面だから退屈しそうなものだが、多分退屈する人はいない。現地視察の映像も含めて、「七人の侍」の前半や、「八犬伝」や「水滸伝」その他数多くのエンターテインメントの人気作品で、主人公たちが選抜され集結するに至る場面同様の魅力がある。
後に試合で登場する選手たちの何人かが、ここで名をあげられ、それは後の伏線となる。全部は覚えられなくても、観客の耳に漠然と残って行くそれらの名前の中で、映画は明らかに数人を重点的に印象に残そうとしている。実際に登場して監督と会話する松田を筆頭に、監督やコーチのことばの中でもっともクローズアップされて行くのが菊池と周東、特に後者だ。選考会議は明らかに、周東に注目されるように編集され、しめくくられている。
その割に、「周東の名を発表したら世間は驚くだろうな」とまで監督が口にした、メンバー発表の記者会見は完全カットだし、周東はこれ以後かなり長い間、まったく登場しない。そろそろ私の考えすぎが発動しすぎているかもしれないが(笑)、その構成もなかなか憎いものがある。無名の選手にやたらとスポットがあたり、それきりまた闇に消える。「いったいいつ登場するんだろう」という現実の試合と同じ気がかりを、映画は観客に持たせ続ける。
それに対して菊池はその直後から一番と言っていいほどよく登場する。彼は実際に試合で活躍もするが、それよりむしろ、選手たちが合流してからの狂言回しとして、特に秋山との笑いを生むやりとりといった、からみの上で、非常に大きな役割を務める。そして前半の大きな山となる、秋山の負傷離脱から、その後の苦戦を打撃で救う、それは秋山のことを思って彼と優勝を祝いたいという誓いを守るためだったという感動的な流れのしめくくりを作るために効果的に使われる。
この一連の流れの部分は秋山の人となりもよくわかり、負傷や治療の実態も伝わって、観客を一気にチームに感情移入させるのに、きわめて有効だ。そして、硬く速いボールが人も殺せる凶器であり、ヘルメットその他でどれだけガードしていても、無防備な部分は残る選手の身体が、いかにもろく壊れやすいかという事実も、この早い段階で的確に伝えて、観客の肌にしみこませる。最も優れた期待される選手でさえ、その一瞬でガラス細工のように、もろく崩れて、もはや戦力とはならない。生身の人間がプレーしているはかなさと迫力を、試合場面の冒頭で、まずこの映画は観客の脳裏に徹底させる。
言うまでもなく秋山選手にとってもチームにとっても、この負傷は悲劇で、気の毒だ。しかし映画の構成としては、実に理想的なアクシデントだ(すすすすみません)。そしてこれが実際には映画や小説もどきに、最終的には好ましい展開と結果に終わったのも、もしかしたら稲葉監督の場合と同様、「見られている」「撮られている」という意識がチーム全体に生む緊張感と昂揚感だったかもしれないと思うのは考えすぎだろうか。
知らんぞ、どんどん長くなりそう(笑)。「10」まではまさか行かなくても、「7」ぐらいまでは確実になりそう。どうしよう、この忙しい時に。