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曽野綾子のコラム(6)

◇(5)で書いたことを、もう一度確認すると、独居の高齢者や施設に入居している高齢者に、介護施設やヘルパーがサービスするのは、その高齢者が一人の生活者としてできなくなったこと(排泄、入浴、料理、掃除、事務手続き、客への応対、極端に言えばパーティーの主催)などであり、いや冗談だと思われるのはしかたがないが、理想はそこまで言いたいぐらいで、つまり、その人が楽しく生きるための、あらゆる努力をすることだと思う。

高齢者が思いきり贅沢とわがままを言わせてもらうなら、きっとそう言うだろうが、理想は家族や友人が来ても、きれいな家できれいな姿で、訪れた人に金でも物でも安らぎでも何かをあげたい、というのが一番の望みだろう。ぜいたくでなくてもいい、たとえ水車小屋でも(笑)アパートの一室でも。
私の母はもともと料理が好きな人でもなかったが、かなり精神肉体すべてが衰えて、一人暮らしが難しくなったころでも、私が帰宅すると、冷蔵庫から出した自分の食べ残しのおかずのかけらや、冷え切ったごはんのかたまりなど猫にやる残飯でもまだましかというようなそれを、お箸をそえて台所のテーブルに並べていた。私はむかついてろくに見もせず、即捨てていたが、そうまでしてでも母は私に何かごちそうを準備しておきたかったのだ。もともと決して家庭的な人ではなく、べたべた子どもを甘やかす人ではなかったのに。

◇たまに訪れる家族や友人知人にしても、遠方からだと、その訪問の日時を確保するために直前までふだん以上の仕事を片づけなければならず、長途の移動で疲れ果て、滞在して戻ったらまた、たまった仕事が待っているから必死で倍以上働かなくてはならない。高齢者の家に着いた時には疲労困憊で、倒れて死にたい気分なのである。そこで、家の片づけや汚れ物の洗濯などに追いまわされるのは、大げさに言えば、十字架かついでゴルゴタの丘にやっとついたら、手足に釘打たれてはりつけにされるのと同じような苦痛と絶望である。
少々ぼけたり、死にかけの病気で弱っているのはしょうがないとして、その高齢者のいる場所が以前と変わらずかそれ以上かに、きれいで快く片づいていて、普通にくつろげる場所であれば、何とかほっとして、一休みして、つらいけれどもまた来ようと思える。そうでなければ、死ぬほどの覚悟をしないと来れなくなり、誰も高齢者の家には近づかなくなる。

実際に私が地域のヘルパーを派遣してくれる介護施設のリーダーの人に、そういうことを訴えたら、その人も「以前はそうでもなかったが、最近では盆や正月にも家族が高齢者を訪れなくなった」と話していた。そりゃそうだ。
家族が近づかなければしてもらえる、高齢者の身の回りの世話が、家族が来たらいっさいしてもらえず疲れ果てた家族に丸投げされるのでは、近づかない方がいいと誰でも思う。

私など、そうやって帰って必死で掃除や洗濯や汚れ物の始末をしたりしていても、母は決して満足しなかった。そんなことは放っておいて、自分のそばで、でれっといっしょにテレビでも見て、話し相手をしていてほしかったのはわかっていた。でも、両方はできない。やっとそういった仕事を片づけて、母のそばに行くと、いつも私は二言も話さない内に疲れて、横に倒れて眠りこけた。そうしたら、母は何とか私を眠らせまいとして、こたつの前に私がおいていた、大きめの座布団を引っ張ってどこかへ持って行ってかくしてしまった。今でも、その座布団を見るたびに私は母に対する憐れみと憎しみと怒りがこみあげて、冷静ではいられない。何とか母とも話をして、車で帰途につくと一気に疲れが出て、自宅に着くまで何度も何時間も車をとめて、どこかの野道や裏通りで眠っていた。

◇遠方からの家族や知人が訪れても、快適に過ごせる環境の保持と確保、というと、そこまで高齢者を甘やかせるかと言う人もいるだろうが、私は何もお涙ちょうだいや甘やかしの理想論で言うのではなく、結局はそういう発想でそういう方向に持っていくことが、介護施設や家族や高齢者本人も含めて、一番うまく歯車が回り、各自の力が無駄にならず、うまく行ったら空き家対策や雇用の確保にもつながって行くと思うのだ。
高齢者の面倒は家族が見ろ、という姿勢では、結局、高齢者の廃人化を推し進め、医療費もかかることになる。高齢者にかぎらず、人間すべてがそうだが、廃棄物やごみのような落伍者を作っていくと、その処理には莫大な手数と金がかかる。一部の幸福者やエリートを養成して、その他のものはゴミとするより、すべてを有用貴重な資源として何かに使う方が結局は無駄がないのだ。幸福と誇りにみちた快適な高齢者を作りだしておく方が、社会にとっても若者にとっても未来にとっても、絶対に快適な結果を生む。
私の持論だが、日常の他のことでもそうだが、この世から完璧に完全に殺したり消したりできない相手なら、とりあえず幸福に立派にしておく方が、必ずと言っていいほど手間がかからない。

しかし、それは言ってみれば、昔の貴族や大金持ちの邸宅の執事や女中のような感じで、介護をしろということでもある。実際、私が言っているのは、そういうことである。
しかし、それをする上での一番の問題は(多分そこが原因で、「家族がいたらヘルパーは世話はしない」という規則もできてきたのだと思うが)、介護される高齢者本人や、その家族や友人知人が、そういうヘルパーを使用人や奴隷のように思いこんで、実際そのようにふるまうバカ(と書いちゃう)も、きっと山ほど出てくるだろうということである。そこはもう徹底的な教育と訓練がいるのだろう。きっと、国民全体に。

◇私の母は、今の施設に満足し、ヘルパーさんたちに感謝しているが、入居してしばらくの間、「(ここにいる入居者は)皆本当にわがままで、あきれてしまう」「ヘルパーさんを自分の召使いのように思って、とても失礼な態度をとる」「(入居者は)自分を何様と思っているのだろう」などと、よく言っていた。今でもときどき、言うことがある。
排泄や入浴をはじめ、身の回りの世話をしてもらっていると、恥ずかしいとか屈辱とかいう感情を克服するのに、そういうことをしてくれる相手を、人間以下と思うことで、失ったプライドを取り戻そうとするのだろうか。そもそも料理や掃除も含めて、そういう家事をする人間の価値を低く見下げて評価しない社会や歴史の蓄積が、こういうところで効いてくるのか。

そういう点での意識改革を、国と国民全体でおこない、家事や育児や介護のすべてを、科学や芸術や政治と同等もしくはそれ以上の尊敬すべき仕事として扱うよう

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カツジ猫