母の日のアジサイ
明日というか、今日は母の日。
毎年恒例、位牌の前で、好きだった三浦洸一のCDを流しまくってやろう。
ケーキも買って来るかな。私が食べたい。
行きつけのお花屋さんは、カーネーションの代わりに、みごとなアジサイの鉢を例年仕入れてくれます。
何年か前に買ったアジサイは、庭に根を下ろして、元気にしています。
今年は裏庭に植えようと思いつつ、うまく植えられるだろうかとの不安もあり、ケチって一番小さい鉢を買ったのだけど、これがかわいいのよー。家の中がぱっと明るくなったようで、見ていると思わず顔が笑ってしまうぐらい素敵。
何か、もう一鉢、ちがう色のも買いたくなるなあ。お金ないんだけどさ。切り花を買うのを何回か我慢したらいいんだし。庭に一気に咲いたグラジオラスを、飾っておけばいいんだし。
九州大学から6月の国語国文学会を中止するという知らせのハガキが来た。ここ数年サボって顔出してないのだけど、中止なんて私の知る限り初めてのことだ。
学会で発表する予定の若い人たちは、就活のときの業績が減るから深刻な問題だよな。心配になる。
それといっしょに心配するようなことじゃないが、これだけ濃厚接触が禁止されている現状では、痴漢の人たちはどうしてるんだろうな。パチンコでも、やめられずに開いてるとこ探して行く人がいるぐらいだから、あのような犯罪を犯す人は、コロナぐらいではやめられないのではないかと思うが、今はそんなことしたら感染を広げる殺人者みたいに言われかねないし。どだい自分が感染する恐れもあるわけだし。
私が最近何となく快適なひとつは、スーパーなどで間隔を空けて並ぶのが定着して来ていることで、もうね、大っ嫌いだったんだよなあ、レジでべたっと間をつめてくっついてくるおじさんおばさんが。
昔、外国にいた叔父が久しぶりに帰国して、人混みを歩いて、平気でくっつかれたりぶつかられたりするのにすごく疲れてるって、叔母が同情していた。私はそんなもんかとあまり気にしなかったけど、思えば私も、知らない人と(知ってる人でも)むやみやたらに接近されるのは好きじゃない(くっつかれたらうれしい相手も、むろんいる。笑)。世の中が並ぶのでも歩くのでも、つきあいそのものでも「間隔空け」が普通になってくれるのは、何だかすっごく、居心地がいい。
でも、私と逆に、くっついて生きるのが好きで楽しい人だっているはずで、そういう人には今の状況はきついだろうなあ。それは何となく、すごく同情する。
いや、痴漢はまたそれとは全然ちがうけど、でもさ、いつもの私の屈折した思考だとね、あれだけ女性が、いや男性もか、被害者となる人がいやで恐くて不快だといくら訴えても、やめようとしなかった人たちが、今回のコロナ騒動で、周囲に怒られたり責められたり感染したりするのが恐くてそれで痴漢をやめるのだったら、それはそれで何だかすごく腹立つのだよね。いっそ、この状況下で痴漢やって、袋だたきにあっても殺されても感染してもやめなかったら、ちょっとは感心してやるかもしれんけど。