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誰に渡したらいいのだろう。

(これは、いずれ「断捨離狂想曲」の棚に移すものです。まだ写真も入れていないし、まちがいも多いし、文章も変えるかもしれません。
ですが、とりあえず、こちらでも読んでほしくて、未完成原稿のままですが、アップします。
よろしかったら、拡散して下さい。この書き手のゆかりの方が、もしや見つかるとよいのですが。)

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(42)残された手帳


私が小学校高学年のころだったと思うが、家の横に離れを作った。二部屋のうちの一つを私の部屋にするというので喜んだが、できてみたら、奥の部屋が祖父の書斎で、私の部屋はその手前で、ガラスのはまった板戸で区切られているだけだったし、その板戸も何だか立て付けが悪くてしっかり閉まらず、おまけに母がいっしょに私の部屋を使うことになったので、何となく期待したのとはちがった。


それで、中学に入ったとき、誰も使っていない二階の九畳の、窓もない暗い部屋を私は自分の部屋にして、大学に行って家を離れるまで、そこで暮らした。
部屋の奥には、大きな古いたんすがあって、その一番上の開き戸の中には、いろんなものが押しこまれていた。母の世代の女性では珍しく、というよりほぼ皆無だった野球ファンの母のらしい、素朴な土人形の野球選手の像などもあった。今のフィギュアのようなものだったのだろう。



それと混じって、古い手紙や手帳や写真も入っていた。家族や親戚のものではなかった。私は何となく、先住者への遠慮のようなものを感じて、特に調べたり見たりしなかったが、一度母は、それらの手紙や手帳や写真が、戦時中に近くにあった航空隊の基地から、うちに遊びに来ていた学徒兵たちの遺品だと話した。長崎出身の私の家は、いい加減だがキリスト教徒っぽい家庭で、同じクリスチャンの家の学徒兵などが時々遊びに来ていたらしい。彼らは皆、終戦直前に特攻隊として出撃して行った。整備兵か何かで後に残った一人に、彼らは家族へ渡してくれと遺品の数々を託したらしい。頼まれたその人は、結局それをそのまま、わが家に置いて行ったようだった。「いいかげんな人だったからね」と、母は少し怒ったように、その人のことを私に評した。


その家は数年前に友人に売却した。たんすは、そのまた数年前に、知り合いの大工さんにもらってもらった。祖父の死後に骨董屋が来て家じゅうの珍しいものを持って行ったとかで、その時持ち出されたのかどうかはわからないが、野球選手のフィギュアも、学徒兵たちの遺品も、もうその時はたんすの中には残っていなかった。


当時の母と叔母の写真を、ごく最近になって古い荷物の中から見つけたが、丸いメガネをかけた母も、叔母も、ぼさっと素朴な田舎の女学生で、とても阿川弘之の小説「雲の墓標」で、学徒兵たちがほのかな思いを寄せる、地元のお屋敷のお嬢さんのようには見えない。
それでも、どうやら私の家に近い、その航空基地と同じところの学徒兵を主人公にした「雲の墓標」を高校生のころに読んだとき、私は身近な親しみを感じた。よく知っている人たちの話を読むようで、何もかもがなつかしくて、切なくて、彼らの運命や、とりまく時代が、言いようもなく腹立たしかった。阿川弘之は保守的な作家だと思うが、どんなリベラルな反戦小説よりも、私に強く二度と戦争は起こさないと決意させ続けたのは、あの小説の中の青年たちだった。

今、七十歳を超えて読み直すと、若者たちの手紙や日記の中でしか登場しない、彼らに国文学を教え、彼らの手紙を読んでその運命に心を痛める大学教授の味わったであろう苦しみも、ぎりぎりと胸にせまる。同じ国文学の教授として、若い教え子たちから、こんな手紙をもらわなくてすむ自分の幸せを、身のすくむ思いでかみしめることもある。


母は、その若者たちのことを、そう多く話したわけではない。私も深く聞きただしたわけではない。記憶違いもあるかもしれない。だが母が、涼しい目の美しい青年が写っている古い小さな写真を見て、彼が下を向いて本を読んでいるときか何かに、名前を呼んで声をかけて、顔を上げた瞬間をとった写真がこれだと言ったのを覚えている。彼はちょっと怒ったと、母は笑っていた。きれいで、まじめな人だったと母は言った。山下さんと、その名を言ったような気がするのだが、さだかではない。たしか母が熱を上げていた六大学野球の選手も山下と言った気がするので、それとごっちゃになっている可能性もある。
もちろん、その写真も今はもうない。



ここ数年、その田舎の実家から運びこんだものも含めて、膨大な荷物の山の仕分けと処分に私は忙殺されている。ようやくそれも終盤にさしかかって、祖父母の代からの手紙や日記を捨てる勇気もなく読み直す時間もなく、とりあえずまとめながら、私は絶対こんな手紙も日記も残さないぞと内心ひそかに毒づいていたりしたとき、茶封筒にむぞうさに入った黒い手帳と小さいビラが出て来た。「ありがとうございました」と封筒に書かれた文字はサインペンかマジックインキのようだから、これは最近のものなのだろう。


小さな印刷されたビラは、米軍が日本国民に無条件降伏を呼びかける内容で、いつ誰がどう使ったのかわからない。保存状態がすごくいいのか、奇妙なほどに新しい。
手帳の方は、昭和十九年に発行された海軍手帳で、あちこちに色刷りの美人画や風景画も入っていて、小さいなりに洒落てもいる。ほとんど使われておらず、名前も何も書かれていない。ただ、三月の中頃と四月の初めあたりの数日だけ、鉛筆書きでかなり長い日記のような記述がある。

これが、田舎の家のたんすにあったものの一部が、何かの理由で残ったものかどうか、それも私はわからない。
ただ、その記述は、どうやら特攻隊として出撃する前の数日に書き留められたもののようだ。鉛筆で書かれた、その走り書きを読んでいると、「雲の墓標」を読んだときに似た、そしても

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カツジ猫