金木犀の香り
このごろ、庭で水まきをしている時に、ふわっといい香りがすると思っていたら、いつの間にか生垣にしていた金木犀が花をつけはじめているのだった。
田舎の実家には昔、門のそばに銀木犀があって、同じようないい匂いをさせていた。いつの間にかなくなった気がする。銀木犀もあれ以来よそで見たことがない。金木犀と同じ香りで、ただ花は白かった。…あらら、今ネットで調べたら、銀の方がご本家なのか。
新しい車を物色して、ほぼ決めたが、納車はひと月ほどあとになるそうだ。21万キロも走ってくれた今の車とゆっくり別れを惜しめるから、その方がむしろ大変ありがたいのだが、ただもうあまり長距離や高速を走るのはやめた方がいいとのことなので、そうすると十月に田舎で予定している法事とか、いろんな予定をどうこなすのか、いろいろ頭をひねらなくてはならない。授業もそろそろ始まるし。
それさえなければ、免許返納したときの練習に、車を使わない生活を練習して、家にこもってガーデニングと読書三昧の秋にするのも、むろん悪くはないのだけど。
このところ、文庫本の新刊で買った「サイラス・マーナー」を楽しんでいる。力強くて泥臭い素朴さがあって、でもとても美しい物語だと、あらためて思う。マーナーとエピーの絆はちょっと「レ・ミゼラブル」のバルジャンとコゼットにも重なる。こういう年長の男性が小さい女の子を育てて愛するというのは、人間の夢の一種なのだろうか。源氏物語もそうだしな。
私は特にこのかたちが好みってわけではなく、むしろ楽しむ時には年長の男性の方に感情移入して自分と同一視してしまうのが問題なのだが(笑)、子どものころに読んだ時から、「サイラス・マーナー」のはなぜか大好きだった。光源氏やバルジャンとちがってマーナーはエピーを、ほとんど赤ん坊の時から育ててるんだもんなあ。そして幼いエピーの姿が実にかわいらしく書けている。
作者のジョージ・エリオットは、男性のペンネームを使っているが女性だ。「ヒロインズ」を読んだあとでは、そういうことも含めて解説などで知る、この作者の一生は幸福だったのだなと、あらためて感じたりする。
この作品は、小さい村の生活や、その中での格差や、宗教問題も、しっかりと描いていて、今読んでもちっとも古くない。特にエピーが「お金や豊かな生活なんてまったく魅力じゃない」ことをきっぱり宣言し、実際それがやせがまんでも何でもなく、実際につつましい毎日と、それにつながる未来とに彼女が根を下ろし充実し満足しているのが、ありありと読者も実感できるのが本当に快い。金があれば何でもできると、国のトップから底辺まで思っている、今の日本のいやしさと貧弱さが、あらためて浮かび上がる。庶民の幸福、なんてしみったれた言い方ではなく、人間の生き方としての真の栄華が、そこにはある。
ずっと前に丸谷才一が、石牟礼道子の「苦海浄土」で、水俣病にかかった老漁師の思い出として、舟の上で釣った魚を妻と料理して食べるときのことを「これより上の栄華の、どこの国にあらすかい」とか言ってた文章に感銘を受け、「自分は方言を使う文学は評価しないが、これは別」みたいな述懐とともに、「これまで日本の貧しい人たちがどうして、そんな生活に満足しているかを、なかなか文学は描けなかったが、ここにはその解答がある」(もう記憶で書いているから、めちゃくちゃ要約でことばもちがいます)みたいなことを言っていたが、そのことも思い出す。
エピーとマーナーは村でも貧しい方かもしれないが、決して貧困にあえいでいるのでもない。そういう点ではここ最近でアベ政治がぶちこわして消滅させた、日本の中間層の暮らしに実感としては近いかもしれない。彼らの生活の豊かさと美しさ。金でさえも買えない、その充実感。それがページから文字通り、ホログラムのように立ち上がってくる。
しかもその一方で、マーナーが一時とりつかれる金の魅力、蓄財の魅力をしっかり書いているのもすごい。これだけ金をためる楽しみを、ほほえましく愛をこめて細かく書いた小説を私は他に知らない。単純な「増えて行く金貨」の美しさを、こんなに魅力的に書いた場面を、他に知らない。
あまりにはまって、つい昔読んだ子どもの本も注文して取り寄せてしまった。文庫本で読んだときの印象的な場面が皆、記憶に残っていたので、原作を忠実に生かした児童文学だったんだろうなと思っていたが、届いて再読したらびっくりした。エピーとマーナーの出会いや、最後のあたりのハッピーエンドはそのまましっかり原作を生かしているし、変な改変はまったくないのだけど、それでいて、冒頭やあちこちには、創作に近い脚色がまざっている。しかもそれが全部とても効果的。翻訳者の吉田絃二郎さん、本当にすごい。やだもう、この人の他の作品も読んでみたくなるじゃんよ。