おれにまかせろ第二章 都の守護神

第二章 都の守護神

ヘクトルは積荷に身体をあずけて顔をあおむけた。「そのことを考えようとすると弟が憎くなる」重い口調で彼は告白した。「彼に申し訳なくてたまらない。あんなに心から歓迎し、何の警戒もせず信用し、和平が成ったのを喜んで」
彼は目を閉じた。眠たくなるような波の音と暑いほどの陽射しを感じながら。
「あり得ないことが実現したのだ。戦争が終わって、平和になった。殺し合い、憎みあったどうしが仲良く酒をくみかわして笑いあった。信じられない現実、でもそれは確かに現実だった。今となっては夢のような…たった一夜の」
彼は小さく口を開け、空気を求めるように低くあえいだ。「弟が憎い」と低い声でくり返した。「あの夜、我々は皆、花嫁か処女のようだった。誰もかれもが、実現しているのが信じられない初めての世界を、こわごわと抱きしめていた。メネラオスと私もだ。こんなことは起こり得ないと思うことが起こって、信じられずに脅えながら、勇気をふるって相手を信じた。それが裏切られた。こんな醜い、ひどいかたちで。我々を信じてくれたことで、彼は世間の笑いものになった。何ということだろう、あの弟のしたことは」
「君がそうやって感傷に沈みこむのは勝手なのだが」乞食は言った。「今、我々に必要なのは、そういう目にあったメネラオスがどんな気分なのかを知ることなのだよ」
「だから、考えたくないんだ」
「わがままな王子さまだな」乞食は目を伏せ、首をふった。「自分の育ちに似合わない、汚い仕事と思っているんだろう。たしかに、趣味のいい話じゃないさ。だが、今はそれが君の仕事だ。君ならどうだ?信じていた妻が、思いもかけなかった他の男と逃げたら?」
ヘクトルは答えなかった。
「やれやれ」乞食は言った。「それも想像したくないのか…できないのか?」
「思いつけないんだ」ヘクトルは言った。「そもそも、メネラオスの妻の愛し方は、私とはちがっていたから」
「ほう。どんな風にだ?」
「もっと大切にして…大事な品物のように」
「飾り物にして、客に見せびらかしていた?」
「どちらかといえば、そんな風だったな。妻とはあまり話もしている風はなかった。だから妻はきっと、さっき私が言ったような、さまざまな彼の魅力を充分わかってなかったろう。そんな機会がたくさんあったようには見えない」
「妻の彼を見る目は?」
ヘクトルはしばらく考えた。「王妃は、夫を見なかった」とうとう彼はそう言った。「見ているところを思い出せない。最後の宴会の席でしか私は二人を見てないが、多分、その間彼女はまったく、彼を見ようとしなかった」

乞食はひゅうと口笛を吹いた。「夫はそれを気にしていたか?」
「気にしていたというよりも、気づいていなかったと思う」
「妻が、自分を見ないことに?」乞食は小声でつぶやいた。「おいおい」
「うん。宴席が乱れはじめるとすぐ、王妃はへやにひきとったが、彼はそれも気にしている様子はなかった。踊り子の女たちや私たちと楽しそうにはしゃいでいたよ」
「要するに、彼らにはそれが普通だったんだな」乞食は指であごをなでながら考えこんでいた。
「メネラオスは夫婦とはそんなものだと思っていたんだろう」ヘクトルは言った。「実際そういう夫婦は多いのだろうし、だから、メネラオスだって、自分たちが特におかしな夫婦とは思ってなかったんだろう。自分が妻に愛されてないとも。事実…」ついため息が出た。「愛されてたのかもしれない。妃が弟に会うまでは」
乞食が問いかけるようにヘクトルを見た。
「幸せで仲のいい夫婦でも」ヘクトルは何だか情けなくなりながら言った。「弟が現れたばかりに不幸になったことはこれまでも、たびたびある」
「なるほどな」乞食はちょっと同情するように眉をあげた。「すると、こういうことになる。メネラオスは妻の美しさを誇りにし、大切にし、自分たちはごくごく普通にうまくいってる夫婦と思い、自分が愛されてないとも特に悪い夫とも思ってなかった。そこへ君の弟がやってきて、妃とともに逃げた。彼がまず感じるのは何だ?」

ヘクトルは考えてみた。「愛されてなかったという衝撃?」
「それは君だろ」乞食が言った。「もっと彼の気持ちになって考えてみろ」
「恥をかかされたという怒り…?」
「そんなところだな。問題はそれが妻と君の弟のどちらに強く向くかだが」乞食はしばらく考えていた。「彼は弟君をどう思っていた?」
「親切にしてくれていたよ…かわいがっていた」
「男としての価値を認めていたか?妃が自分を捨てる価値がある男と?」
ヘクトルは首をふった。「いや。彼は自分の強さや荒々しさに自信を持っていた。それで女を魅了した自慢話もいくつか私にして聞かせた。弟などは彼にとっては子どもも同然、競争相手としてなど、そもそも見ていなかったと思う。そうでなければ第一あんなに、妃のそばに平気で弟を近づけない。三人でいっしょによく話をしたり、他愛のない遊びをしたりしていたようだったし」
「君をはずして?」
「私は船の世話や、部下たちとの相談で忙しかったから」
「それにしてもだ。そうか。ほう…」乞食はいやに感心していた。「そうだとすると、無意識であれ、彼は君のことは警戒していたのかもしれないな。まあいい。ともかく、彼は君の弟に男としての魅力をまったく認めていなかった。なのに妃がそんな男と逃げてしまった。そのことを彼はどう考えるか?」

***

さっきからヘクトルは何か気持ちが落ち着かなかった。ひとりでに目が空や海や帆に動いた。乞食も気がついたらしい。犬の頭をなでながら、「どうした?」と聞いた。「何をそわそわしてるんだ?」
「こんなことをしていていいのか?」ヘクトルは聞いた。「こんなことをいつまでも、ゆっくり話していて?」
「どうしてだ?」乞食は無邪気に…やや無邪気すぎるほど無邪気に目を見張った。「時間はたっぷりあるだろう?トロイに戻るつもりなら。船は順調に走っているしな。他には特にすることもあるまい?」
ヘクトルはどうしていいのかわからなかった。無言で乞食を見つめ返した。乞食は罪のない顔をしようとしつづけていたようだったが、がまんできなくなったのか、のどもとをひくひくふるわせ、目を糸のように細くした。
「たのむからそんな情けない顔をしないでくれ。おれがいつ君をいじめた?」彼は肩をすぼめた。「指揮官は君だぞ。船を戻すのも止めるのも、君だけが好きに決められる」
途方にくれてヘクトルは目を閉じた。眠気も吐き気ももう襲っては来ない。それがかえって恨めしかった。何ひとつ考えがまとまらない。何から先にすればいいのか。
「あせるな」乞食が静かに言った。「君の心が決まらないなら、このまま船を走らせておけ。どのみち、今、何より急いで考えなくてはならないことは、船がどっちを向いて走っていたっておんなじなんだよ。そこでだね、メネラオスの心境だが…」
「船をとめる」ヘクトルは帆綱をつかんで立ち上がった。「とにかくとめる」

「だったらついでに、この近くに」乞食はヘクトルを見上げて楽しそうに小さく口笛を吹いた。「どこか小さいきれいな島か海岸がないか、案内人に聞いてくれ」
「島?」ヘクトルは首をかしげた。
「うん。そこであの二人と話をしたいんだ。王妃と弟君と」
「船底か、ここじゃだめなのか?」
「ああいう、感じやすい若者たちとは、なるべく気持ちのいい場所で話をした方が、何かとうまくいくもんだ」乞食は片目をつぶってみせた。
ヘクトルは半信半疑の表情で首をふりながら離れて行ったが、まもなくテクトンと戻ってきて、「案内人の漁師の話では、この少し先に島はあるそうだ」と言った。「人は住んでないが、野生の豚や羊がいて、森や水もある。どうせ休まねばならぬ時間だし、そこに船をつけることにした。それでいいか?」
「申し分ない」乞食はうなずいて、大きくのびをした。
ヘクトルはテクトンに向かってうなずき、彼が去ったあと、また乞食の隣りに座った。犬が彼を見上げてしっぽをぱたぱたと振った。

「メネラオスがもし妃を美しい人形か幼い子どものように思っていたとする」乞食は犬をなでながら言った。「その場合彼は、悪いのはすべて君の弟だと思う。妃はだまされたのだとな。連れ戻し、取り返せば、再び自分のものになると信じて、何が何でも後を追って来るだろう。我々が戻って妃を返しても、彼は君の弟が犯した罪は許さない。貴重な財産を奪い、傷つけた罪人として処罰を要求するのは必至だ。第一、生かしておけば危険と思うだろう。また妃が迷わされるかしれないのだから。疫病のもとのように燃やしてしまわなければ満足も安心もしまい」
ヘクトルはうなずいた。
「彼がもし、妃をもう少し人間として、一人前の魂を持った女として愛していたとしよう」乞食は続けた。「その場合、彼は、自分がまったく評価できない男を自分よりすぐれた者と認めたという点で、妃に強く失望する。自分を正当に評価してもらえなかったという怒りを感じる。そこで、そんな女に未練はないとすっぱり忘れてしまってくれたらよいのだが、おそらくそうはなるまいな。自分より君の弟を選んだということだけを除けば、妻に不満はないのだから。そういう女が、自分を選ばない、自分の手に入らないということは彼を怒らせ、彼女を憎ませる。我々が彼女を返しても、自分を裏切ったという彼女の罪を許せまい。そんな女が生きて、自分以外の男と幸せになることも。だから、彼女を殺すだろう」
やっぱり船を戻すのはやめようかとヘクトルは思った。そう、今乞食が言っているようなことを漠然と感じたからこそ、自分も船を戻すのを断念したのではなかったか。
「君の弟にせよ彼女にせよ、殺してしまえという彼の憎しみを正当化し、後押しするのは、このことが、きちんと説明し、手続きをふんだのではなく、だましうちでやられたということだ」乞食は念を押すように、とどめをさすように言ってのけた。「まっとうに、誠実に、愛を失い、奪われたのでも、人は逆上しやすいものだが、今回は理不尽で卑怯なやり方で裏切られたという大義名分がある。どれだけ残酷に相手を罰してもいいというお墨つきを彼は手にしたのも同然だ。おまけに君まで何ひとつ誠実な対応をしていない。これでは彼がどれだけ穏やかにことをすまそうと思っても、周囲がそれを許さない。何もしなければ、これ以後の彼の威信にもかかわるのだ。そのためにだけでも彼が何かをしなければならないように、君たちはどんどん彼を追いこんでいる」

「ということは、つまりもう」抑揚のない声でヘクトルは言った。「何も望みはないんだな?」
「そんなことはないさ」乞食はにっこり笑った。「メネラオスの心境がこのようだということに、君は異存がないのだな?」
ヘクトルはうなずいた。
「ならば…」乞食はじっと考えた。「つまり、こういうことだろう。自分が妻に裏切られたのはしかたがない、当然のことだ、とメネラオスに納得させればよいのだろう?」
「そんなことができるのならな」ヘクトルは力なく笑った。
「できるさ。そんな方法はいくらでもある」乞食は言った。「簡単なところでは、妃と恋に落ちて逃げた相手は弟君ではなくて、あなただったということにするだけでもずいぶん彼の気持ちは穏やかになることだろう」
「…何だって?」
「たとえばの話だよ。それだと彼は無理もないとうけいれやすくなるはずだ。妃が宴席で会った君に一目ぼれし、君もまた妃のあまりの美しさに…」
「迷わない」ヘクトルはきっぱり言った。「ありえない」
「残念だな」乞食は目をくるくるさせた。「ここはひとつ、君がトロイのために一肌ぬいで、弟君の罪をきて、メネラオスに男らしくわびて、何もかもあなたの奥方のあまりの美しさの故でしたと潔く頭を下げれば、メネラオスは案外笑って許してくれるかもしれな…」
「あなたに相談をもちかけたのがまちがいだった」ヘクトルはそう言うなり立ち上がりかけた。
乞食はヘクトルの腕のひじのあたりをつかんで、意外なほどの力でひきずり下ろして座らせた。「待て。今のは単にひとつの例だ。君がいやならこの計画はなかったことにしよう。忘れてくれ」
「言わなくたって忘れる」ヘクトルは乞食にひっぱられてはだけた上衣を直しながら、そっけなく答えた。

「しかし、今の話で要領はのみこめたろう?」乞食は、ヘクトルが泥に汚れた動物がせっせと毛づくろいをするように、怒ってぱたぱた衣のあちこちをひっぱったりはたいたりしているのを、おかしそうにながめた。「要するに、彼が納得しやすい、うけいれることのできる話を作るのだ。起こった事実は変えないままでな」
ヘクトルは疑わしげに乞食をにらんだ。
「彼の誇りを傷つけないような…」乞食は片手を宙に動かした。「そして、妃のメネラオスへの愛は一度もゆらいだことはなかったというような…」
「だから、それはどんな話なんだ?」
「簡単すぎて笑えるような話だよ。妃の弟君とのかけおちは、メネラオスへの愛ゆえだったと言えばいいのだ」
「どこをどうしたら、そんな理屈が生まれるんだ?」
「驚いたなあ、君は本当に考えつかないのか?」乞食は軽く両手を広げた。「あなたが戦いにあけくれて私のことを少しもかまって下さらないから淋しくてたまらなかった。あなたをどんなに愛しているかわかって下さらないのがくやしくて、悲しくて、いっそ私が他の男と逃げてしまえば、私のことを少しは考えて下さらないかと思った。相手の男なんて誰でもよかった。それで私に腹を立て、怒りにかられたあなたのお手で殺されるならいっそ本望、こんなにあなたに愛されていたのだという喜びの中で私は死ねる、そこまで思いつめました…問題はなあ」あっけにとられて口をかすかにあけたままこちらを見つめているヘクトルを見返して、乞食は小さく首をふった。「あの奥方にこれだけのせりふが言えて、それらしい演技ができるかってことなんだが」

ヘクトルは頭がくらくらして、かたわらの積荷にまたもたれかかった。
「妃がそう言うのに加えて、君でも弟君でもいいが、涙ながらに彼を責めるのだ」乞食は言った。「妃がこんなにあなたを愛しているというのに、夫たるあなたはどうして彼女の淋しさに気がつかなかったのです。妃をここまで追いつめた責任はすべてあなたにあります。こんなに美しい女にこんなに愛されていながら、あなたという方は何という鈍感な、罪深い男…」
「やめるんだ」ヘクトルは言った。「あなたのように汚らわしい人間を見たことがない」
「何とでも言いなさい。だが、トロイを救う道はこれしかありませんぞ」
「トロイが滅びても、そんなおぞましい計画の片棒をかつぐのは…」ヘクトルの声はだんだん小さくなった。
「片棒ではありません」乞食は落ち着いて訂正した。「全面的にあなたがこれをするのです」
「私はともかく…」
「お、逃げましたね?」
「あの二人をどうやって説得するんだ?」
「まさにそこが問題だ」乞食はあごを指先でなでた。「あなたに手伝ってもらうとしても…」
「私は手伝わない!」
「…なかなかの難題だ」乞食はヘクトルの抗議など耳にも入れずにそう言った。「そこで、島に着く前にあと一つ二つ、お聞きしておきたいことがあるのです…」

***

ヘクトルは海を見ていた。
晴れた青い空のかなたに、島影らしいものはまだ見えて来なかった。
心は重くとざされて、というよりも混乱していた。
気持ちが軽くなったのか、ますます重くなったのか、それさえ自分でわからない。

乞食が何かしゃべっている。それはヘクトルの耳をただ通りすぎて行った。
さっきから乞食が次々口にしたことが、彼をすっかり動揺させ、乞食への不信をつのらせていた。
そのくせ、どこかで圧倒的に彼はまだ、この乞食を信じている。
そもそもの最初からだ。
そのあたたかい笑顔だろうか。
そのやわらかい声だろうか。
どこか時々、人の悪そうな、もてあそぶような目でこちらを見たり、ちらっと冷たい表情をするのまでが、かえって変にたのもしい気がしてしまうのはなぜだろう?

さっき彼がした提案だって、心の底から許せないと思い、海につき落とすか、いっそもう自分が飛びこみたいほど腹がたったというのに。
あれからまだどれだけも時間がたっていない今、もう、そんなにひどい提案ではないのかもしれない、という気がしはじめている。
それでトロイが救われるのなら。
戦わないですむのなら。
メネラオスが本当にそんな風に思ってくれるものなら。
第一、もしかしたら、それはそんなにまったくの嘘ではないかもしれないではないか。
王妃はただ、淋しかっただけなのかもしれないではないか。
自分がそう信じてメネラオスに訴えたなら、案外信じてもらえるかもしれない。

でもそれは正しいことなのだろうか。
それでいいのだろうか。
何が正しくて、まちがっているのか、何が恥ずべきことで、そうでないのか、ヘクトルにはもうわからなかった。
初めて戦場で人を殺した時、初めて女を抱いた時、これと似た気持ちになった気がする。どちらもほとんど同じ時だったから、どちらの気持ちによく似ているのか、あまり区別はつかなかったが。
でも、そういう時でさえ、何かしてはならないことや、守らねばならないことは、あったと思う。あるはずだった。なければならない。

乞食の声が突然とだえた。あたりが妙にしんとなった気がして、ヘクトルは乞食の方に顔を向けた。
「聞いてないんだろ?」乞食はさほど怒っている風もなく、のんきそうにそう言った。
「聞いてる」ヘクトルはほほえんだ。「弟をどれだけ愛しているか、弟の恋は本物か、その二つをたしかめたいって言うんだろ」
乞食が驚いた目をしたが、ヘクトルは自分でも驚いていた。「おまえよっぽどつまらん会議や報告を上の空で聞くのに慣れてるな」と言われて、そうかもしれないとあらためて気づいた。
「それでどうなんだ?」乞食は言った。「これからおれたちは二人で、この計画をうまく行かせるよう、あの若い二人を説得しなくちゃならんのだが、その前に二人で確認しておかなくてはならん。いざとなったら何を見捨てて、あきらめるか、何を最後まで守りぬいて手ばなさないか。もちろん、トロイはゆずれない。君の命も手わたせない。部下たちは…まあ、あとで考えよう。当面、王妃と、弟君だ。彼らの命を、どこまで守る?」

ヘクトルは眉をよせ、考えこんだ。「王妃は、メネラオスのものだ。彼が妻をどうしようとも、最終的にはそれは彼が決めること。我々がどうこう言えることではない」
「君は何もわかっていないな。王妃なんかどうだっていいさ」乞食は言った。「だが彼女が死んだら、あるいは死ぬとわかったら、君の弟君がどうなるかだ。死ぬか、狂うか、生きる力を失って廃人同様になるか、君とトロイを恨んで一生許さないか、それとも三日三晩も泣きあかしたら、涙をぬぐって起き直り、にっこり笑ってまた次の恋にうつつをぬかすか、そこが問題なんだよ。どうなんだ、その点、君の判断は?」

***

「正直言って、わからない」ヘクトルは告白した。
「朝、甲板で君に、どうせいつもと同じようにこの恋も遊びだろうとののしられた時、弟君は君よりむしろ、冷静だった」乞食は言った。「君が船をスパルタに戻すと言うと、王妃とともに自分も残り、殺されるなら戦って死ぬと言った。戦ったことも人の死も見たことがないくせに何を言う、と君は弟君をののしった」
「うん」ヘクトルはうなずいた。
「人の死は栄光でも詩的でもない。それなのに、そんなことを言うおまえは戦いも死も愛も、何も知らない。君はそこまで決めつけた。そこまで言われてなお弟君は逆上しなかった。それでも僕は彼女と行く、あなたに助けは求めないと、まるであなたを傷つけまいと配慮さえしているかのような抑えた口調できっぱり言った。おまえの愛は本物ではないと言われたも同然で、あれだけ落ち着いていられるのは、よほど相手への愛に自信があるからではないのか」

ヘクトルは首をふった。「私には何とも言えない。これまでだって弟は、どんな時でも、誰が相手でも、真剣で、夢中だった。ほんの数日で終わった恋でも。行きずりの、気まぐれな遊びとしか見えない恋でも。相手の気持ちを笑いものにしたり、意識してもてあそんだりしたことは一度もない。いつも、その相手を、時には複数でも、とても大切にし、心から泣き、笑い、悩み、楽しんでいた。どうしてこんなに同じことを毎回くり返せるんだろう、どこかで生まれ変わって、別の人間になってきてるんじゃないかと疑いたくなるぐらい、一つの恋がはじまる時はいつも有頂天に幸福そうで、終わりが来て別れる時はいつも身も世もなく嘆いていた。それに毎回、つきあわされて来たんだぞ。今度のこの恋だって、それとどれだけちがうのか私には見えない。真剣というならいつだって、あいつは真剣だったんだ」
「あなたに今日のようなことを言われても、今日のように冷静に対処できていたんですか、これまでの恋で、彼は?」
ヘクトルは乞食を見つめていたが、やがて目を閉じ、長い吐息をついた。
「どうしたんです?」乞食がとがめた。「何をまたそんな、やるせない顔でなまめかしい吐息をついて見せるんだか」
「考えていて気がついたんだが」ヘクトルは乞食の冗談を無視して言った。「私は…私はこれまで弟の恋を、一度もとめたり邪魔したり、とがめたりしたことがないんだ。怒ったことも、笑ったことも、からかったことも…冷やかな目で見たことも。批判がましいことばや目つきもまったくしてみせたことはなかった」
今度は乞食が口を開けた。「本当ですか?」
「だから、君の言ったようなことを、比べようにも前例がない」ヘクトルは片手で顔をおおった。「資料がない」

「そんなに弟がかわいかったんですか?」乞食があきれたとも、とがめるともつかない声を出した。
「そういうのとはちょっとちがう」ヘクトルは顔をおおったまま言った。
「じゃ何なんです?そこまで甘やかすとは正気の沙汰とは思えませんよ」
「何かもう、根本的にあいつは私とちがう人種と思っていたからな」ヘクトルは言った。「女の気持ちはわからんとか、いろいろ言ってもしかたがないとか、人はよく言うが、私が弟に対して抱いていた気持ちは、それに近かったかもしれない。いっそ妻の方がわかりやすかった。彼女となら同じ基準でものごとを見られたし、何でも話せて、相談できた。でも弟は…何だかふしぎな、きれいな、かわいい生き物というか…見てると楽しくて面白かったし、幸せなのが似あったし、悩んでいると、かわいそうで、それ以上苦しめたくはなかったから何も言えなかった」
「敵国の王妃をさらって、あなたとトロイを危機にさらすまではですな」乞食はわざとらしいため息をついた。「それじゃたとえ、トロイや自分を犠牲にしても、弟君だけは守りたい?傷つけたくない?」

「そんなことは思っていない」ヘクトルは首をふった。「だが、そこがあなたはわかっていない」
「何がです?」
ヘクトルは顔を上げ、海のかなたを見た。
「弟は、自分では気づいてないかもしれないが、とてもトロイの人々に好かれている」彼は言った。「多くのトロイ人にとって、彼はトロイそのものだ。人を殺したことも傷ついたこともない手足、幸せしか知らないような無邪気な笑顔。彼の姿を見ると誰もが幸福になる。トロイにいるという満足をかみしめられる」
「信じられませんな」乞食は言った。「国の外では、トロイと言えば名王プリアモス、トロイと言えば勇将ヘクトルですぞ。弟君の名前など、知っている人は少ない」
「よその国ではそうだろう。むろん、国民は父のことも私のことも信頼し、好いてくれている。けれど弟のことは、皆が心から愛している。彼を幸せにし、愛して守ってやっているからこそ、私も愛されているんだ」
「それは少しちがうと思いますが」乞食は言った。
「弟がいないトロイなど、私には想像もできない。それはもはや、トロイではない。国民のすべてがそうだろう」ヘクトルは言った。「兄としてもちろん、彼を愛している。大切だし、失いたくない。しかし、それだけではない。彼を失うことは、トロイのためにも、できない。彼を死なせたら、父にもトロイの人々にも何と言って弁解していいのかわからない。会わせる顔がない。彼がいなくなったら、トロイの何かが変わってしまう…何かがもう、決定的に」
乞食はあいまいな笑い方をした。「彼はアポロン神なのか…あなた方の国を守る?」
「彼がそこにいるだけで、彼を見るだけで、人々は生きる喜びを知る」ヘクトルは言った。「無邪気で、楽しげで、恐れを知らない、美しい姿を見るだけで、何かが人々の心によみがえり、生まれ、育つんだ。その何かが、トロイの都を支えている。城壁よりも、私の剣よりも、ずっとたしかに、ゆるぎなく」

「わかりました」乞食はあきらめたようにいったん身体をのけぞらしてから、前にかがめ、ヘクトルの肩を軽くたたいた。「つまり、弟君は殺せない。そのためには王妃も多分、殺せない。こういうことになりますかな」
ヘクトルは答えなかった。
うつむいたまま、とても無理だ、と思っていた。考えれば考えるほど、どう考えても、絶対に。
「島が見えましたよ」乞食が言った。
うつむけていた顔を上げると思いがけなくもうはっきりと、水平線の上に緑がかった紫色の島影がぽっかり浮かび上がっていた。

***

美しい島だった。トロイの浜辺の絹のようになめらかに足にまといつく金色がかった砂とはちがう、黒みを帯びた銀色の砂がどこまでも広がっていて、しゃきしゃきとりんごをかむように清々しく足の下で砕けた。浜辺の向こうはこんもりと明るい緑色の森になっていて、鳥の声まで聞こえている。部下たちは喜んで、水をくむための手桶などを持ちながらはずんだ足どりで三々五々、森の中へと入って行った。
こんな時でなかったらヘクトルもこの島の美しさを楽しんだのにちがいなかった。だが今は、それどころではなかった。呼び出されて船底から上がって来た若い二人が、しおらしく、しめやかに、ヘクトルのすぐ後ろについてきている。もっとも、そうしながらも手だけはしっかりとりあって、指をきつく握りしめあっているのもヘクトルは横目で見逃さなかった。そうやって互いの手から力を与えあっていないと耐えられないように、二人は思いつめた顔をしていた。
船底で何を話していたのか、誓いあっていたのか、予想がつくだけにヘクトルは腹をたてていた。決して離れない。決して見捨てない。死ぬならいっしょに死のう。そんなことばかり、くりかえしくりかえし誓っていたに決まっている。

部下たちの声が聞こえないあたりまで歩いてきて、大きな流木のころがっているそばで、少し前を歩いていた乞食が立ちどまり、ふり向いた。ここで話をするのだなと思ってへクトルも足をとめた。二人がちょっと目を見交わしている間に、思いがけなく弟が口を開いた。
「トロイには、明日着くの?」
へクトルは戦いの時、いつでも兵士たちの先頭に立った。最も危険で困難な場所に進んで突っこんだ。それが部下たちの士気をいやが上にも高めるのだったが、ヘクトルとしてはもうとにかく、いやな仕事や危険なことは、とっとと片づけたいのだった。人にまかせて気をもむよりは、自らの手で手っとりばやく。
で、今もその癖が出た。そうやって、それでその先どうなるかという見込みも予測もまるでなくても、いやなことは、いやな話は、乞食にさせたくなかった。
「船は戻す」彼は言った。「スパルタに」
乞食がおおっ!というような、どこかからかうような目でヘクトルを見たのをぼんやり感じた。だがそんなことよりもヘクトルは、目の前の二人の一気に血の気が引いた顔から目をそらすまいと必死だった。二人の握りしめられた指に白くなるほど力がこめられているのからも。
「ご異存はないでしょうね?」彼は妃に向かって言った。「トロイはあなたをうけ入れられません」

妃はヘクトルをじっと見つめたまま、「ええ」とひと言低く答えて、ほほえんだ。
その目に涙はなかった。だがその笑顔にヘクトルは胸をつかれた。この人はずっとこうして笑ってきたのだ。とっさにそう思った。絶望するたびにこうやって笑ってきたのだ。何もかも押し隠して、必死に静かに、ほほえんで。
パリスはヘレンにささやいた。「大丈夫。君を一人では行かせない」
ヘレンの顔から笑いが消えた。仮面がばらばらにこわれたように、少女か幼児のようないたいたしいまでの弱々しさがあらわになった。「いえ、だめ」と美しい眉を小さくしかめて彼女はささやき返した。「来てはだめ」
「おまえは船から下りてはならない」ヘクトルは言い渡した。「この人は一人で帰るのだ」
パリスはふり向き、兄と向かい合って立った。「聞いて下さい」と抑えた声で彼は言った。怒りも悲しみも見せない、はりつめた静かな表情で。「連れ出したのは僕です。だから僕が送り届けます」

正直言って、弟であれ部下であれ妻であれ他の女であれ、ヘクトルはめそめそ泣いたり、甘ったれた態度をとられても、同情はしてもそれほど心は動かされない。(妻は絶対そんなことはしないが。弟はときどきするが。)
彼が一番弱いのは、胸をかきむしられそうになって抵抗できなくなるのは、今の弟のように、毅然とけなげにふるまわれることだった。今、この場合はそれにこたえてやれないと思うつらさが、かえって彼を冷酷にした。「行けば死ぬ」と彼は言った。「おまえを死なせるわけには行かない」
パリスは首をふった。「僕の命は僕に下さい」
「おまえの命だと?」ヘクトルは目を閉じ、歯をくいしばった。「何もわかってないのだな。おまえはトロイの王子だぞ。父上と、人々の心の支えだ。勝手にいなくなっていいと思っているのか。自分の立場をわきまえろ」
「なら、船をトロイに向けて下さい」パリスは言った。「父上と、国民に、僕から説明させて下さい」
「今度のことを?」
「そうです」まっすぐにヘクトルを見つめ返したパリスの必死のまなざしは、まぶしいほどに美しかった。「必ずわかってもらいます」
この顔、この姿、この表情を見れば、彼が何を言ったって何をしたって、父上も都の人々も許してしまうのではないか。そんな不安がヘクトルの胸にきざした。だから首をふった。
「だめだ」彼は言った。「我々はスパルタに戻る」

「怒らないで聞いて下さい」パリスは静かに、低い声で続けた。「兄上はまだ王ではない。僕とあなたはともに国を代表する使節としてスパルタに来た。だから、僕のしたことについて決断する責任は兄上にはない」
「船に火がついて沈みそうになったら、父上の決断をあおぐため、燃える帆をそのままにトロイに向かうのか」ヘクトルは冷やかに言った。「そんな時間はない」
「二人の使節の意見が割れているのです」パリスはヘクトルから目を離さなかった。「判断して、決断を下せるのは父上以外にはいないはずです」
「意見だと?」
ヘクトルの目が燃えた時、かたわらから乞食がのんきな声をかけた。
「どうやって父君と国民を説得するつもりだね?」
パリスが驚いたように乞食を見た。ヘレンも。ヘクトル同様パリスもまた、ぼろは着ていても、どこか涼やかで気さくな乞食のたたずまいに、心をとらえられたようだった。一瞬黙っていてから彼は、親しい老臣などに対する、ちょっと甘えた口調で、「どう話すかってこと?」と聞いた。
「まあ、そうだな」乞食はにこやかに続けた。「今ここで、海に向かって、言ってごらん。父上や、国民が目の前にいるつもりで」

するとパリスは海の方に向いた。祈るようにしばらく目を閉じていてから、静かにまた開け、彼はよせてくる波を見つめた。
我しらずヘクトルは息をのんでいた。

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