おれにまかせろ第三章 不思議な若者

第三章 不思議な若者

「神々の前にいるつもりで、私はあなたがたにお話します」パリスの声は緊張でかすかな震えを帯びていた。「何かを愛したことがありますか。人でも、動物でも、草や木でも、その他の何でもいい。何もかも忘れて、すべてを捨てて。何を失っても後悔しないと思うほど。自分は狂っているのかもしれない、とても愚かなのかもしれないと脅えながら、それでも、心の奥底で何かが告げる。おまえはまちがっていない、おまえは正しい、決して狂っても、愚かでもないと。その細い細い、一筋の声だけに従って、闇の中にやっと見える道を歩きつづけた、そんな記憶がありませんか」
彼の声は澄んで美しかった。青い衣を風になびかせたそのほっそりと背の高い姿は、銀色の砂の上で強い太陽を浴びて、光の中に溶けて行きそうだった。
「そんなことがあったら、思い出して下さい。どんなに遠い、かすかな記憶でも、覚えていたら、よびさまして。手もとにひきよせて、抱きしめて、その顔を見てやって下さい。もう一度、もう一度だけ。初めてそれを知った時のことを思い出して。失ったのなら、手放したのなら、その後ろ姿を思い出して下さい。それを見送った自分を。手放さなかったらどうなっていたろうと思いながら、ずっと過ごした今日までの日々を。あなたが今、どんなに豊かで幸せでも、それだけは今そこにない、それが何だったか思い出して」

波が彼の足もとによせる。砕けて白いふちかざりのある扇のように砂浜に広がる。
「それを初めて見つけた時の幸せを思い出して。それがあなたの手の中にあれば、何を失ってもいいと思った瞬間を。世界が滅びても、ただそのひとときを味わうために後悔しない、そう思った瞬間を。それを失えば、他の何があってもこの世は色も光も音もない、灰色の闇にすぎないと、生きていく意味などないと、そう思った、そう信じた、そのことがわかっていた時のことを。あなたがたの誰にでも、そんな時はきっとあったはずです。その時の自分を思い出して。愚かと思いますか?憎いと思いますか?さげすみますか?まったくの他人のように理解できませんか?狂っていたと思いますか?恐れますか?笑いますか?」
彼は大きく息を吸った。
「僕はこの人を見た時に、愛している、愛されているとわかった時に、神々よりも幸福だった。時がとまってもいいと思った」
両手がわずかに広げられ、訴えるように海にむかってのばされる。と、応えるように波は彼の前で砕けて、白く輝くしぶきをあげた。
「この人といられれば、何を失っても恐くない。神々からも人間からも、ののしられ呪われても」
銀色の砂浜の上を、雲の影が飛ぶように過ぎる。海鳥が激しく鳴きかわして、落ちて行くように波間をかすめる。
「僕は信じた。この人とともにあることから、あらゆる力と優しさと賢さが僕には生まれる。どんなこととも戦える知恵と勇気を僕は持てる。この人といれば、新しいものが生まれる。世界が変わる。僕は信じた。すべてを失い、滅びてもいいと思って、つかみとり、愛したものだけが、すべてのものを再び取り戻し、よみがえらせる力を与えてくれることを。僕は信じた。この愛を守ることで僕は変わり、この愛が続くことで何かが変わる」

彼はかすかにうなだれ、そしてまた、顔を上げた。
「僕の愛のために苦しんで、犠牲になる人たちに、僕は何のおわびもできない。何の約束もできない。何の要求もできません。でも僕は知っている。嘘をついてもしかたがない。僕は恥じていない。後悔してもいない。そして僕は…決して約束できないこと、言ってはならないことだけれど、僕はそれでも知っています。かつて愛したことがあり、失ったものがある人なら、もう一度どうかそれを抱きしめて下されば、何かがきっとよみがえる。何ものにもかえがたい、忘れていた何かが。そういったものの数々を僕はきっと、あなたがたに手渡せる。そんな力が、僕のどこかに、限りなく生まれてくるのが僕にはわかるのです。この人といれば。この人と生きれば」
彼は両手をいっぱいに前にのばした。反対に、その美しい髪のうずまく頭は後ろに軽くのけぞった。ささげものにされるいけにえのように。目を閉じた顔と白いのどもとに、まぶしい陽射しが容赦なく照りつける。彼は絶望しているようで、しかも限りない希望に向けて手をさしのべているようだった。あきらめきっていて、しかも信じきっているような、力の抜けた、しかも限りない力にあふれたその声が、光と風の中に流れた。
「ただ、それだけを…わかって下さい」

絶対に、この弟をトロイに帰すわけにはいかない。
父や、国民に会わせるわけにはいかない。
冷たい汗が手のひらににじむのを感じながら、ヘクトルは確信した。
説得される。皆が、彼に。
戦場を知らない、トロイの民。平和しか知らない幸福な人々。
弟のこの美しい姿に、声に、ことばに、そこにこもるまがいない愛の力のゆたかさに、彼らは心うたれ、この愛を守るために戦うことを決意する。
父は?父も長いこと戦場を離れている。しかも、父の時代のそれなりにまだどこかのどかだった戦争と、近年のそれとはちがう。焼きつくし、奪いつくし、殺しつくすのがあたりまえになりつつある最近の戦いの酸鼻をきわめる現状を、父は肌では知らない。
知っている自分でさえが一瞬今、弟の姿に声に心を動かされかけた。
人がよく心優しく、平和と幸せに酔っているトロイの人々が、それでなくても大好きな弟のこんな訴えにひとたまりもあるものか。
それにしても、今のこの目の前の弟の何という無心な清らかさ、気高さ。神々でさえ心を動かされよう。
彼からそむけたヘクトルの目がヘレンと合った。
大きく見開かれて彼を見つめるヘレンのその目を見てヘクトルは、彼女が感動と感謝と愛に心をふるわせながら、しかも絶望したのを知った。
この聡明な王妃は理解したのだ。
パリスが勝利したと同時に敗北したことを。
ヘクトルの心を限りなく動かしたと同時に、まさに同じその理由で、絶対に船をトロイには向けられないと彼が決意してしまったことを。

***

「船を戻す」ヘクトルは二人から顔をそむけた。「あなた方をトロイには連れて行けない」
「なぜなのか理由を言ってくれ」浅い水の中をかけよってきたパリスが食い下がった。
「父上や皆を悩ませるだけだ。どちらの結論をとるにしろ、苦しめるだけだ」へクトルは言った。「下手をすれば国論が二分される。戦わずしてトロイは崩壊する。父上や国民を迷わせたいか。苦しめたいか。他国から攻められる前に国民どうしを対立させ憎み合わせたいか」ヘクトルは首をふった。「そんなことは許さない」
「では、僕らをこのままこの島に残して」パリスは頼んだ。「二人だけで、ここに」
「正気でそんなことを?ここはギリシャの領海内だ。スパルタやミュケナイの船がうろうろしている。こんな島にいたら、十日もたたずに発見されて、おまえたちはとらえられる」
「なら、トロイまで連れて帰って。その近くの海岸でもいい」パリスはたたみかけてきた。「父上にもトロイの誰にも会わずに、僕たちは東へ向かう。二人で遠くへ行く…皆の前から永遠に姿を消す。弓で獣を狩り、森の奥で誰にも知られずに暮らすから」
ヘクトルの心の中で何かが叫び声をあげた。閉じ込められていた動物がもがいているように忘れていた遠い願いが夢がゆさぶられ、泣きわめくようだった。「そんな勝手が許されると思っているのか」と言いながらおのずと声がうわずった。「そんなに無責任に何もかも投げ出せるなら誰だってそうしたい、誰だってそうする。だが、おまえたちが消えたあと、メネラオスの軍が攻めてきたら、彼に何と言うのだ?二人はもうここにはいません。どこに行ったか知りません。わが国には何の関係もありません。ついては今後も末長くおつきあいを願いたい。そう言うのか。そう言えと?聞いてもらえると思うのか。それが通ると思うのか!?」
「僕らがいないとわかったら彼らだってきっと…」
「上等だ。どうやってわからせる?都の家を一軒一軒、彼らに探してもらうのか?我々は嘘などついていないとアポロン神に誓うのか?それよりも前に、彼らはトロイを焼く。おまえたちがいないとわかっていても、復讐のために、征服のために」ヘクトルは王妃に向き直った。「ちがいますか?」

王妃は無表情だった。何の感情もこもらない声で彼女は答えた。「おっしゃる通りよ。私たちを見つけられない限り、メネラオスは復讐のために、アガメムノンは征服のために、トロイを焼きつくすまで手はゆるめない」
「アガメムノン?」パリスが目を見はった。
「おまえより、こちらの王妃の方がよくわかっていらっしゃる」ヘクトルは皮肉をこめて荒々しく言い放った。「アガメムノンはトロイ征服をねらっていた。この機会を見のがしはすまい」彼は王妃を見つめた。「それを知っていて、わかっていたのに、あなたは来たのか?」
王妃の唇がふるえた。威厳を保とうと必死で努力しているように。「私は愚かでした」彼女はとうとうそう言った。「夢を見ていたのです。何かが起こるのではないかという…誰かが、大きな力を持った何ものかが、信じられないことをして下さるのではないかという、そんな…愚かな夢を」
二人はしばらく見つめあっていた。
「信じてはいけないものを、信じてしまった」つぶやくように妃は言った。「忘れてはいけないことを忘れてしまった。人がどんなに願っても、神々はふり向いては下さらない。どんなに必死に祈っても、祈りなどは届かない。そんなこと、とっくにもう、よく知っていたはずなのに」

彼女はパリスの方を見た。消えてゆく光の最後のきらめき、枯れはてる泉の最後のひとしずくのように、息絶える前の最後のほほえみのように、はかない、それでいて永遠の輝きをたたえたまなざしで。忘れかけている歌の最後の一節を思い出しているように、幼いいちずさをあふれさせながら、しかも姉のように、母のように限りない優しさをこめて彼女は言った。「あなただけは夢ではなかった。あなたへの気持ちも夢ではないわ。この思いは愚かではない。生まれて初めて信じたし、そして今でも信じている…自分と、そしてあなたとを」
パリスの目が誇りと喜びに輝くのをヘクトルは見た。「君と行く」彼は言った。「どこまでもいっしょに行く。メネラオスの前で君への愛を宣言する。たとえ殺されても」
「彼女が一人で戻ったら」ヘクトルは冷やかに二人の会話に割って入った。「メネラオスはあるいは彼女を殺さないかもしれない。しかしおまえがそうしたら、おまえはもちろんまちがいなく、そして彼女もおそらくは殺される。おまえに彼女は守れない。そんな力がおまえにはない。彼女のためにできることは何ひとつ、おまえにはない」
「死んでみせることならできる」パリスはきっぱり言い返した。「彼女の前でメネラオスの手にかかって。それでしか僕が彼女を愛していることを示す方法がないにしても」
「そんなことが誰のためになる?死んでいくおまえ以外の誰がそれを喜ぶ?」
「彼女のためにできることは僕にはそれしかない」パリスの澄んだまなざしは落ち着いていた。「だったら僕がこの世でしたいことはそれしかない」

「このバカをとめてくれ」ヘクトルは誰の顔も見ないまま言った。「聞いているだけで吐き気がしてくる」
「兄上は僕が死を知らない、見たことがないと言った」パリスは静かに強く続けた。「それは本当だ。僕は死を見ていないし、何も知らない。でもそんな人間でも死ぬことはできる。兄上もまだ知らないこと、生きている人間はまだ誰もしたことがないこと、それがどんなものか誰も知らないこと。それをすることだけは、死ぬことだけは、誰にでもできる。何も知らなくても、どんな人間でも。だから、それをさせてくれ」
「なぜそんなにまで死にたいんだ?」
「兄上こそ、なぜ僕をそんなに生かしておきたいんだ?」パリスの透きとおる声はどこかずっと遠くからヘクトルの耳に届いてくるようだった。
ヘクトルは砂を見ていた。波が薄くその上に広がってしみこんで行くのを見つめていた。
「僕を愛してくれているのは知っている。でも、僕を、何もできないままで、ただそばにおいておきたいのなら、生かして、幸せそうに、皆の前でただ笑わせておきたいのなら、それは、この人を自分のそばでそうさせておきたかったメネラオスと同じじゃないか?」
パリスの手がヘクトルの腕をつかんだ。顔をそむけたままのヘクトルの耳に、弟のいちずな強い声が聞こえた。
「でも、ちがうよね?僕にそんな生き方をさせたいのじゃないだろう?だったら、行かせて。僕をとめないで…死なせてほしい。たとえ何の役にもたたなくても、この人のために僕にできるたった一つのことを僕からとり上げないでくれ」
ヘクトルは思わず腕をふりはなして、弟を砂の上に投げつけた。
「よくもそんなに、自分勝手な…!」
言いかけた時、そばに来た乞食から、子馬にでもするように平手で尻を思いっきりぴしゃっとたたかれて、ヘクトルは思わずとび上がってふり向いた。
乞食は肩をすくめて笑い、あごで砂浜の向こうの森の方をしゃくった。
「水浴びでもして来い」彼は言った。「ついでに頭も冷やして来い」

***

ヘクトルはふり向きもせず、とっとと歩き出した。それこそ、怒った子馬のように。そのことに自分でも驚きあきれながら、言われたままに砂浜を横切り、森へと入って行った。
歩くたびに、傷口が痛むように悲しみと怒りがゆれて、こみあげた。わけのわからない淋しさで胸がはりさけそうだった。
木々の中にわけいってすぐに、澄んだ水があふれている泉が見つかった。周囲はさまざまなかたちのなめらかな黒ずんだ岩に囲まれ、頭上にさしかわす緑の枝枝で太陽の光は薄められ漉しとられ、淡く霞んだ緑色をしていた。
茂みの向こうにはもっと大きい池か泉があるらしい。部下たちの笑い声や水音がしている。今は誰にも会いたくなく、そちらに行きたくなかったから、ヘクトルは傷ついた獣のように衣を脱いで岩と岩の間からそっと水の中にすべりこんだ。
冷たく暗い透明な水が、潮風と太陽にほてった身体をひんやりと包んだ。悲しみも怒りも少しだけ肌からにじみ出して泉に溶けていくような気がして、彼は岩に頭をもたせかけたまま、じっと目を閉じていた。
小さい水音がした。ヘクトルは目を開けた。
なめらかな水の面がかすかにゆれているのに気がついた。またはっきりと水音を聞いた。
誰かいる。
ヘクトルは身体をまったく動かさないまま目をこらした。周囲の岩を注意深く見て行くと、少し離れた岩かげの、木の枝がたれかかる下に、落ちかかる一筋の日の光を受けて、何かきらきらと輝いているものがあった。
まぶしく波打つ金髪と、陽焼けした肌。
見覚えのある自分の部下たちの誰でもない。何より暗がりにぼんやりとしか見えないその姿が、今の今までまったく何の気配も感じさせなかったことにヘクトルは緊張し、ひとりでに手が、岩の上に脱ぎすてた衣の中の短剣へと、そっとのびた。

またぱしゃんと水音がして、「やめとけよ」と、ものうそうな声がした。「水場じゃ狼でも獅子でも一時休戦する」
こちらのすることを見られているとわかってヘクトルは手を下ろした。さっきの水音も気づかせるためにわざとたてたのだろう。
「気づかないで悪かった」彼は言った。「この島に人はいないと聞いていたから」
「その通りだ」
「君の船を見なかったが」
「ああ。おれの船は出て行った」
「おきざりにされたのか?」
相手がくっくっと笑うのが聞こえた。「いいや。また戻ってくる」
それにしても、こんな島に一人で残っているとはいい度胸だとへクトルは思った。そもそも何をしているのだろう?
「時々、一人になりたくなるんだ」男はめんどうくさそうに言った。「今のあんたのようにな」
私は問いを口に出したろうか、とヘクトルは思った。この男は私の心も読めるのか?それともただの偶然か?

ヘクトルが見守っていると、男は大きな獣が水に浮かぶようにゆっくりと泉の中に泳ぎ出てきた。襲われることなどないとよく知っている強い動物特有の、自信に満ちた優美な動きで。長い金髪が肩の回りで水に広がり、たくましくひきしまった裸身が水の間に見え隠れした。
彼は人もなげに泉の中をゆうゆうと行ったり来たりして泳ぎながら、もの珍しげにまじまじとヘクトルをながめた。その様子はどこか子どものようだった。整った目鼻立ちは静かに冷たく大人びて、弱い者のことなど知ろうとしても知ることのできない、孤独な強者の無邪気な残酷さをたたえているのに。
岩に背中をつけたまま、水に身体をなかば沈めてヘクトルはじっとしていた。宴会でも儀式でも、そうやって一方的に人から見られるのには慣れていた。男はそれに気づいたのか、面白そうにヘクトルを見つめて泳ぎながら、だんだんこちらに近づいてきた。

「何かいやなことがあったのか」ヘクトルの少し前で男は舞い下りるように両足を下ろして水の中に立ち、いきなりそう聞いた。「悲しそうな顔をしている」
自分こそ、とヘクトルは思った。同じ美しい顔でも太陽の下の花のようなパリスとはちがって、夜の中の宝石のように、この男の青く澄んだ目も形のいい眉も、とても淋しそうだった。自分がそれにまったく気づいてないようなのが、一層の清々しい悲しみを彼の顔にただよわせていた。その表情も声音もあまりに無邪気に素直だったから、子どもに聞かれたように、ついヘクトルも答えた。「いくさが始まりそうなんだ」と彼は言った。「私の国で。もうすぐに」

男はちょっと眉をよせ、気むずかしい顔になった。ぬれてきらきら金色に輝く髪をめんどくさそうに軽くふって、しずくを散らし、「ふうん」と小さくうなった。「おまえの国、どこだ?」
「トロイだ…海の向こうの」
「知ってるさ、場所は」男は首をそらして考えこんだ。「敵はスパルタか?」
「わからない」
「わからない?」
「ギリシャ全土になるかもな。アガメムノンにひきいられた」
「アガメムノン?あのバカか」男はうんざりしたように下を向いて笑った。
「知ってるのか?」
「ああ」男は唇を軽くなめた。「いやなやつだよ」
そしてまたヘクトルを見て、「やつに目をつけられたのは不運だな」と言った。「でも、やつはずっとトロイには目をつけていたからな。何か理由を見つけたのか?」
「私の弟が、彼の弟の妃を盗んだ」
「メネラオスの奥方?ヘレン?」男は目を見はった。驚いたように、面白そうに。
何で私はこの男にこんなにぺらぺら何でもしゃべっているのだろう、と自分でもいぶかりながらヘクトルはうなずいた。男がことばとは反対にまったく同情するような様子がないのが、かえって気楽なのかもしれなかった。
「あの妃か」男は思い出すような目をした。「たしかに美人かもしれない。でも、さらって逃げるほどのものかなあ?何度か見たことあるけどな、いっぺん見て、しばらくよそ見てて、また見直しても前と全然顔も姿勢も変わってないんだぞ。化粧も濃いし、何考えてるかもわかんなかった。彫刻の方がまだ面白い」
宴席の時のヘレンはまったくその通りだったから、ヘクトルは不覚にも思わず笑った。男はヘクトルを笑わせたのがうれしそうに、鼻でもうごめかしそうな得意顔をした。

「ま、そんなんだったら、いずれおれにもまたその内」男はつまらなそうに上を見た。「やつからお呼びがかかるかな」
「誰から?」
「アガメムノン」
ヘクトルは思わずかすかに身構える姿勢をとった。男は不思議そうに楽しそうに首をかしげてこちらを見ていた。「やつはさ」と彼は説明した。「戦いとなると、おれを呼び出すんだ」
「行くのか?」
「気がむけば」
「でもさっき、彼のことを…」
「ああ。そんなことはかまわない」男は木の葉ごしの太陽をあおいで軽くのびをした。「おれは自分のために戦うんだ」
ヘクトルが眉をひそめると、男は指で水をヘクトルの方にはねて、いたずらしてきた。ヘクトルが顔をしかめてそむけると、「どっちが勝っても正しくても、そんなことはどっちでもいい」とさわやかに言った。「おれは、名を残す。千年先の人間もおれを覚えているような、生きたあかしを、この世にな」
「戦うのは、そのためか?」
「どうせ、つかの間の世の中、つかの間の命さ」男は見ていて胸をしめつけられそうになるほど、無心に透明な笑顔を見せた。「おれは、おれらしく生きたいんだ」
「アガメムノンがきらいでも?」
「やつに何の関係がある?」男は無邪気に問い返した。「おれが加われば、それはおれのいくささ。やつの名なんか残らない」
自分でもなぜそんなことをしたのかわからない。気づいた時、ヘクトルの身体はもう動いていた。背をもたせていた岩を蹴って、その反動をこめた全身の力で、男に躍りかかり、のど元に手をかけてしめ上げていた。
「おまえのようなやつがいるから!」とわめいている自分の声を聞いた。「おまえのような愚か者がいるから!」
本当に殺したかったのだろうか。それとも胸に煮えたぎる怒りをただ何かにぶつけたかっただけなのか。ヘクトルの両腕には狂人のような力がこもっていた。男はあっけにとられて大きく見はった青い目でヘクトルを見つめながら、ぶくぶくと頭を水に沈めた。
そしてたちまち、激しくもがいて反撃してきた。鉄のような指がヘクトルの手首をつかみ、首にかかった手を引きはがそうとする。そうさせまいと足をふみしばった。相手も身体を丸くして足に力をこめている。身体がゆれて足をすべらし、騒々しい水音とともに二人は泉の中に倒れた。

水の中では思うように動きがとれない。それでも二人は互いを引きずりあげたり引きずりこんだりしながら、相手を水に突っ込むすきをうかがった。なぐりあったがよけられて、どちらのこぶしも空を切った。
二人ともしたたか水を飲み、どちらの息も切れかけてきた。木々の向こうの部下たちに、この騒ぎを聞きつけられて見に来られたらやっかいだな、とちらとヘクトルが思った時、男の手がヘクトルの両腕をつかまえて、元いた側とは反対側の岸辺の岩に押さえつけた。疲れはてたのと、いやになったのとで、ヘクトルは抵抗しなかった。怒りはさめて、空しさと苦々しさとが、それにとってかわっていた。
「つええなあ」男がヘクトルを押さえつけたまま、感嘆したような声を出した。いきなり襲いかかられたことも、その理由も気にしていないらしい明るい声はまるで少年のようで、ヘクトルは思わず目を閉じたまま苦笑しながら、わけもなく悲しかった。

「おまえ、誰?」相手の声が聞こえた。「名前、何?」
「トロイのヘクトル、プリアモスの息子」
「ピティアのアキレス、ペレウスの子だ」アキレスはまだヘクトルの腕をつかんで押さえつけたまま、ようやく「何怒ってるんだよ?」とふしぎそうに聞いた。「おまえだって戦って、いろんな町や村や砦をほろぼしてきたんだろ?でなきゃ、今度は自分のとこが戦場になるとわかって、そんなに落ちこむわけないもんな。大勢敵をやっつけたんだろ?おまえこんなに強いんだから」
それでなぜ、おれにそんなにくってかかるんだよ、とアキレスは言いたげだった。ヘクトルは腹立たしくなって、その気持ちそのままに荒っぽくアキレスを押し戻し、するとアキレスはあっさり手を離した。
「戦う時も殺した時も」ヘクトルは陰気な声で言った。「楽しんだことなんかいっぺんもない」
「同じことだろ、殺される相手には」アキレスはむしろけげんそうに言い返した。「おまえがどんな気持ちでも」
ヘクトルが黙っているとアキレスはいきなり手をのばして、ヘクトルの耳のあたりをつかむようにして、互いの目しか見えないほどのぎりぎりまで顔をひきよせ、「カリカリすんなよ」とまじめに言った。「弟のこと、あんまり怒るな。王妃をさらったぐらい何だよ。よくあることだろ、若いうちはさ」
その分別くさい言い方が嘘っぽくて彼にはいかにも似合ってないのを、笑いそうになってヘクトルは歯をかみしめた。アキレスの顔を見つめ返しながら、どうしてさっきからこの男を見ていると笑ってしまいたくなったり、その反対に泣きたいほど悲しくなるのだろうと思った。「なあ」とアキレスはまたヘクトルの頭を軽くゆすった。「戦争なんて起こる時は起こるさ。人間なんて死ぬ時は死ぬんだ」
彼はぱっと身体を離すと、また手の甲で水をはねた。今度はへクトルはよけなかった。アキレスを見つめて「死ぬな」と言った。「まだ死ぬな。そんなに何もわかってないままで」
くっくっとアキレスはまた喉もとで笑い、「もう行く」と水の中を踊るように後ずさりながら宣言した。「おれの船が来るからな。会えて楽しかった」
そして、金髪をぶるっと振ると、ひきしまった全身から水をしたたらせながら、岩にひらりと飛び上がり、あっという間に茂みの向こうへと消えた。

***

どうしてどいつもこいつもこんなにバカばっかりなんだろう、と思いながらヘクトルは浜辺に戻って行った。怒りが怒りを相殺したのか、アキレスの変に現実離れした軽やかさのせいか、少し気分がよくなった気もするが、ただ単にやけになってるだけなのかもしれなかった。
浜辺に出る前から、犬のさかんにほえる声が聞こえた。犬好きなヘクトルにはよくわかるのだが、楽しくてたまらなそうな声だった。木々の間から出て行くと、波打ち際で乞食と弟が犬とふざけてはねまわり、王妃は流木によりかかって髪を手ですきながら、それを笑ってながめていた。

二人はヘクトルに気づくととびまわるのをやめた。王妃も立ったまま居ずまいをただし、犬までが目を伏せてかしこまった顔をした。ヘクトルは知らん顔でむっつりと三人と一ぴきに近づいた。
「いや、やはり君がいなくては話をしてもしかたないと思ったものだから」乞食がちょっとばつが悪そうに弁解したが、それが本心からの表情かどうかヘクトルにはわからなかった。
「話もしたんだよ」砂の上に座ったヘクトルに、パリスがあらたまった調子で声をかけた。「兄上が何を心配しているか…。彼が言うんだ」パリスは乞食の方に手を振った。「兄上は、トロイの都がほろびるということがどういうことかよく知っているから、それでそんなに怒るんだって」
「ああ」海を見たままヘクトルは言った。
犬がヘクトルのそばに来て、考え深い顔をして腹ばいになった。乞食も少しはなれた砂の上に腰を下ろし、弟たちもそれぞれに座った。
皆、しばらく無言だった。

「いつの戦いの時だったか忘れた」ヘクトルは言った。「捕虜の女たちを連れて広野を行軍していた。戦いのあとの、帰還だった。ずっと背後からとぎれとぎれに、赤ん坊の泣く声が聞こえてきた。我々が、女たちに捨てさせた赤ん坊たちの声だ。女たちは泣いていなかった。皆、無表情のまま、車に乗せられて、運ばれていた」
歩かせてもよかったのだ。車に乗せたのは一刻も早く、子どもたちの声の聞こえないところまで連れて行きたいという自分の思いがあったかもしれない。アキレスのさわやかでのんきな声が聞こえてくる。おまえがどんな気持ちでも同じことだろ。そんなのは。
「私は今でもあれが本当に起こったことか幻だったか自分でもわからない」ヘクトルは続けた。「進む前方の丘の上に、突然、灰色の大きな獣の影が一つ、また一つとあらわれた。狼だった。これまでに見たこともないほど大きな狼たちだった。彼らは私たちを見た。そして、すさまじい声でほえながら、私たちの隊列のわきを、巨大な薄黒い煙のように走って行った。激しくほえつづけながら、子どもたちの泣き声がかすかに聞こえつづけている方へと」

ヘクトルは誰の顔も見ないまま、海に向かって語りつづけた。
「女たちは誰も泣かなかった。兵士たちの方が青ざめていた。私は馬を急がせた。狼の声は遠ざかり、やがて、子どもたちの泣く声も消えた。遠くまで来たからなのか、もう泣かなくなったのかわからないが」
ヘクトルはまたアキレスを思い出していた。おまえは知っているのだろうか、と彼は心で呼びかけていた。こんな風景を。見たことがあるのだろうか。
「女たちは誰も泣かなかった」ヘクトルはくり返した。「子どもたちの声の聞こえなくなった広野のかなたを見つめていた。一人の女と目が合った。奇妙な笑いを浮かべていた。目を輝かせているようだった」
波の音だけが聞こえていた。
「その夜、その女に会った。なぜ笑っていたのかと聞くと、彼女は言った。あの狼は殺された夫たちの生まれ変わりだ、私たちの子どもを連れに来たのだ、と。いたましすぎて私は思わず冗談を言った。さっき殺されたにしては早く生まれ変わって育ったものだ、と。女は笑いを消さなかった。私を見て予言した。トロイの都には立派な城壁があるとのこと。これ以後あなたはそれを見るたび、あなたの子どもがそこから投げ落とされる時、地面にたたきつけられるまでどれだけの時間がかかるか、考えずにはいられなくなるでしょう。母親の手からもぎはなされて、放り出される瞬間に、地面に小さい身体がたたきつけられ頭が砕ける瞬間に、その間のわずかな時間にあなたの子どもが何を感じるか考えるかを。母親に向かって助けを求めて虚空に突き出される小さな手を、目にやきつける奥さまの心も。町の美しい通りを見ても、あなたの目にはそこに折り重なる死体が見える。輝く噴水を見れば、そこを埋めつくして血に染まる人々の姿が。壮麗な建物を見るたびに、それが炎となって燃え上がるのを、黒ずんだ灰になるのをあなたは見る。枯れた泉も。死んで腐って行く馬も。あなたは死ぬまでその幻から逃れることなどできないでしょう」ヘクトルは小さい吐息をついた。「そうなったよ」

パリスが低く言うのが聞こえた。「そんな話、したことないね」
「誰もしない」ヘクトルは言った。「兵士たちなら皆、こんな話はいくつも知ってる。それでも彼らは話さない。忘れたくてトロイに帰るのだから。捕虜になった女たちも他国に売られた者もいれば、今もトロイで暮らしている者もいる。奴隷として、あるいは人の妻となって。おまえが抱いた女の中にもきっとそういう人はいる。けれど、賭けてもいいけれど、その女たちは決してそんな話はしまい」
「どうして話さないんだ。話してくれないんだ」パリスの声にはかすかな怒りがこもっていた。「何も教えてくれないで、何も知らないと言われても」
「話すということはもう一度、それを味わうことだ。ことばにすることで、記憶はたしかなものとなって心に身体に刻印される。しかもその汚れや毒を人にもなすりつけてしまう」ヘクトルは言った。「誰だってそんなことはしたくない。話しさえしなければ、もしかしたらまだ汚れていないかもしれない。いつか気づいたら消えているかもしれない」
「義姉上には話してるだろ?」
「話しているが、全部ではない」
「とにかくね」パリスは変にきっぱりと、妙にてきぱきと、あいかわらず何かに怒っているように言った。「そんなことはさせちゃいけない」
「何に…何を?」
「トロイに。僕たちの国に。そんなことを。どこの国にだって、だめだよ、そういうことが起こるのは」
ヘクトルは思わずパリスをにらみつけた。
「だからこれだけ苦労して和平を結んだ。それをおまえが、めちゃくちゃにしたんだろうが!」
砂をつかんで投げつけたくて、思わず指が曲がった。あまりにも子どもっぽいと危うく思いとどまったが。パリスは妙に冷静だった。「何とかしなくちゃ、絶対に」と彼はせきこんで言った。
おまえが言うのか、とヘクトルは思って、ますますきびしくパリスをにらんだ。思ったことが伝わったのか、パリスは首をふって、「起こっちゃったことはもうしかたがない」と言った。「とにかくどうするか、早く考えなくちゃ」
アキレスといい、こいつといい、今日はどうしてこう、しめ殺したい人間が次から次へとあらわれるのだろう。ふと見ると、犬はあくびをし、王妃は泣き笑いのような表情で顔をゆがめ、乞食にいたってはそっぽを向いて、肩をぶるぶるふるわせて、明らかに笑いをかみ殺していた。

「僕がヘレンと別れたって、もう遅い」パリスは言った。
教えてくれてありがとうというように、ヘクトルは会釈してやった。「そうだな」
「だから、僕らも別れないで、戦いも起こらない、何かいい方法を考えなくちゃ」
「あればな」ヘクトルは吐き捨てた。
「あるはずだ」
ヘクトルは声を出さずに口だけ開けて絶叫した。
「絶対にある」パリスはこぶしを握りしめていた。「考えなくちゃ。ねえ、ヘレン。ねえ?」
許して、というように王妃はヘクトルを見た。消え入りそうな声で彼女は「ええ」と言った。
「愛しあっている人間は、どんな人間より賢い」パリスは言った。「きっと何かいい考えが…」
「しゃべってないで、あるなら早く思いつけ!」ヘクトルは怒った。
「黙ってたら考えがまとまらなくて…」
こいつはいつだってしゃべりながら考えるんだ。考える前に何かするんだ。ああ何だってもうこんな弟…
乞食が何か言っているのにヘクトルは気づいた。たのもしい?パリスがたのもしいだって?

「君のその心意気はたのもしいよ」と乞食は言っていた。皮肉な調子は全然なく。「君の言う通りだ。愛する人間は誰よりも冷静で賢く、正しい判断ができるものだ」
ヘクトルは黙って海を見つめていた。犬が同情にみちた目でかたわらから見上げたような気がした。本当に犬は同情したのかもしれない。弟にどこか似ているが、華やかさよりは誠実さや聡明さが目立つ彼の美しさが、妻を始めとした都の女たちを時として弟とくらべものにならないぐらいひとたまりもなくとりこにするのは、今のような、本人はまったく気づいていない、やるせなく切なげな、ひたすらもう何かに耐えているような怒りに満ちた悲しげな目の色だったのだから。
「君はもうすでに、なかば正しい判断をしているよ」乞食はまじめな声で言った。「彼女と二人で東に逃げる、それはまったくいい考えだ。実際、それしか方法はあるまい。君たち二人が消えるしか。誰もが知らない内に」乞食はおもむろに、せきばらいした。「だが、一つ難点がある」
一つか?とヘクトルは言いたかったが、こらえた。

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カツジ猫